天気輪
時計の秒針のなる音。
遠くで誰かの声を呼ぶ声。
廊下を軽やかに走る音。
シュンシュンとストーブがじんわりと部屋を温める音。
ペラリ、ペラリと、紙を捲る音。
あまり綺麗とは言えない窓からは微かに光が差し込み、甘栗の髪いっぱいに浴び天使の輪っかを作っている彼。キラキラと細い髪は光に透かされ輝く。雲の合間から同じような光が地面へ突き刺さり、まるで天からの階段を作っているように見えた。
「天気輪の柱っていうんだよ」
「何が?」
彼の凛とした鈴のような声に空と彼を巻き込んだ視界が真っ白なシーツへ引き戻された。ノートをめくっていた筈の指は止まり、視線は僕の方へ向いている。薄青色の病衣から伸びる腕はここに来る前に比べ細く、青白くなった。
「あれ、雲の合間から光が漏れて地面に突き刺さっているだろう?死んだ人はあすこに行って、そこから天国に登って行くんだって」
「ふうん、ならば雨の日や台風の日なんかはどうするんだろうね。天気輪とやらが出なければ上に行けないんだろう?」
「待合室でもあるんじゃないのかな」
「仮に待合室があったとしてもさ、3日程度雨が続いてし待ったとしたらとんでもなく混むんじゃないのか?」
「確かに。それは困るな」
「なんで」
なんで困るんだい、という言葉が喉をつっかえる。
彼の顔を見ようとしても彼は俯き髪によって表情は隠されてしまっており、伺うことはできない。
ごぼり、とストーブが灯油を飲み込んだ音が大きく部屋に響く。
「明日、本を持ってきてくれないかい」
「どんな本がいいんだい」
「そうだなぁ、最新作はまだ出ていないのかな。あの作家さんの」
「どうだろうか、明日学校帰りに寄ってくる」
「すまないね」
「平気さ、それじゃあ、明日」
「ああ、明日」
学帽を手に取ると僕は立ち上がり、彼の顔を見ることなく部屋を後にした。
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×月×日
その日は鬱陶しい小雨が一日降り続いていた。雨が降ることは恵の雨になることは間違いないのだろうが、こうも朝から降られてしまうと気分が滅入ってしまう。年末が近づくにつれ、世間は忙しくざわざわと様々な声が入りみだり走り回っている中、彼の空間だけは時が止まってしまったかのように静かで、パリッとしたシーツが張られたベッドの上に座っているのだ。
「やあ」
「やあ、外は雨なのかい?」
「ああ、朝からずっと雨だ」
「だからか、外が騒がしくないのは」
「今日は体調はどうだい」
「いいね、先生からも調子が良いと言われたよ」
「そりゃあよかった」
「来月、もしかしたら一時的に外出できるかもしれない」
「本当かい?そりゃあ朗報だ。何処に行きたいかい」
「気が早いなぁ、まだ仮の話だというのに」
カラカラと声を震わせながら笑う。僕はなんとも言えない気持ちになってそっぽを向いた。
だけれど、それよりも彼が外出できるかもしれないという楽しさが勝ってしまう。どこに行こうか、久し振りに図書館なんぞいいかもしれない。
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×月××日
びゅうびゅう、と寒風の吹き荒れる夕方。僕はまっすぐに病院へと続く道を歩いていた。
強風に足元を掬われそうになりながらも足を進める。周囲は店じまいだのなんだのと騒がしく忙しなく人々が道路を行き交う。空はすでに暗く厚い雲によって月さえ拝めない状態だ。
ざわつくメイン道路から一歩ずれた路地を曲がってしまえば、先ほどの騒音が嘘のように静かになり視線の先は小さな光も許さないと言わんばかりの暗闇の中、小さな街灯が等間隔にポツンポツンと道案内をするように立っているだけで他には何もない。このまま暗闇の中を進んでってしまったら、もしかしたらそのまま闇に飲み込まれて僕という存在は無くなってしまうのではないだろうか。
一瞬、足を進めるのを躊躇ってしまうのを頭を左右に振り病院へと続く道を進む。
「ーーくん」
不意に自分の名前を呼ばれたような気がして地面に落としがちだった視線を上へ向ける。そこには真っ黒な洋服に身を包んだ彼が街灯のそばに立っているのが見えた。僕は呆気に取られ慌てて彼が立つ街灯へ駆け寄った。
「どうしたんだい。こんなところで、病院を抜け出したんじゃないだろうね」
「そんなことはしないよ、少しだけ散歩したかっただけさ」
「本当かい?こんなところを君のお母さんやお父さんが見たら、腰を抜かしてしまうのではないかい」
「はは、確かにそうだ」
「ほら、一緒に謝ってあげるから帰ろう」
彼へ手を伸ばし腕を伸ばす。まるで真冬の川に手を突っ込んだのではないかと思うくらいの冷たさに彼を見る。彼はいつもの穏やかな表情で僕を見つめ、何か言葉を紡ごうとしたのか唇を動かすがやめたのか一文字に唇を閉じ、ゆくりと歩き出した。街灯の光に照らされて2つの息が空へ伸びて消える。
4つの足がアスファルトを蹴る音と、時折強く風が吹きあげる音だけが鼓膜を震わす。握った彼の手は僕の体温が多少はうつったのかほんのりと温かかくなっていた。
「ねえ、君の手は冷たいね」
「そうかい?君の手は暖かいね」
「君が冷たすぎるんだ」
「明日」
「ん?」
「明日、一緒に笑おう。明日、一緒に本を読もう。明日、一緒に話そう」
「何を言っているんだい、当たり前だろう?明日も、明後日も、来年も、退院したら一緒に帰ろう」
彼は立ち止まり、暗がりの中で息を呑むような音がしたのち握った手が強く握り返され、離された。
不安に思い声をかけるがそこには誰もおらず、僕だけが暗闇と光の半分の空間に残されたまま立ち尽くしていた。
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×月×××日
季節はすっかり暖かくなり、重苦しかったコートは必要なくなり人々は軽装で街中を歩き新しく開く花々は見るものを癒す。
学校の窓から見える真っ白な雲の隙間から光がまっすぐにこぼれ落ち、地面に突き刺さっている。
彼は無事に光の階段を登ることはできたのだろうか。
ここ最近、天気輪の柱が見えていなかったけれど、混雑したりしていないだろうか。
どうしてあの時、僕を迎えにきてくれたのだろう。
どうして
どうして彼は
明日一緒にかえろう
明日一緒にわらおう
あした
あした
あした
嗚呼
明日なんて来ない
もう二度と明日なんて来ない