【悪魔崇拝者の男 part1】
取り返しのつかないことがある。
どんなに大人になってもどんなに強くなった気でいても人は簡単に終わりに直面してしまう。
僕は魔術の深淵を覗き見たその時から自分が優れていると思い込んでいたんだ。
生まれもよく、叡智に溢れ、最愛の女性にも出会いそんな素晴らしい人生。
妻は流行病にかかっていた。どんな魔法も治療薬も効かない。日が経つごとに痛ましいほどやつれ、顔色が悪くなる一方の彼女。
闘病中も敬虔な信徒の妻はただ健気に祈っている。
そんな姿に耐えきれず僕は逃げるように治療法を探す旅に出た。幸い魔王討伐遠征の功績で国には貸しがある。この広い世界を探せばきっと何か手がかりが見つかるかもしれない。金ならいくらでもある。この魂だって惜しくはない。
恵まれた人生を過ごしてきた僕はその時まだ絶望を知らなかった。だから今回もなんとかなるんだと、これは神が与えたもうた試練なんだと自分に言い聞かせた。心のどこかで受け入れることを拒否しているとも知らずに。
僕は寝る間も惜しんでこの病について調べてまわったがこれといった手がかりもなく時間はすぎていく。それでも諦めず回復術、変性術、錬金術……果てには死霊術の達人と言われる魔術師達を訪問し教えをこう。焦りと焦燥の中、禁じられた外法へ手を出す抵抗感も失せていった。
そしてようやく何かを掴もうという時、伝令から妻の容態の急変の知らせがあった。僕は知らせを聞いて息を切しながら我が家に帰還する。
「マリアは…!!」
やけに重たい空気が肺に流れ込み胸を締めつける。悪い予感に手足が痺れ倒れ込むように女中に詰め寄る。
「旦那様、残念ですが奥様はもう……」
旅の間妻の世話を任せていた女中や薬師に囲まれ、彼女は静かに横たわっている。
呆然としながら旅の荷を地面に落とした。世界中から集めてきた魔導書やポーションが鈍い音をたてる。ゆっくりとベッドへ足を向かわせた。
息ができない。体が重い。不眠不休の長旅のせいで頭が回らない。何を間違えたんだ?どうしてこうなったんだ?どうしてぼくらがこんな目にあわなくちゃいけないんだ?
「マリア……嘘だろ……?」
最早祈るように声をかけるが返事はない。
「なあ! 目を覚ましてくれ! 笑ってくれよ! いつものように……笑って、僕に……お願いだから! マリア! マリア、僕を置いていくな! これじゃあ何のために僕は……っ!」
恥も外聞もなく無様に泣きじゃくり冷たくなった妻の手を握る。ああ、マリア。愛しの君。僕は君のためならなんでもするつもりだった。この身に替えてでも君を守りたかった。君が笑ってくれるなら僕は何もいらなかった。
「亡くなるその時まで旦那様の無事を祈っておいででした。そしてとても幸せだったと伝えるようにとも。これは奥様が最後まで大切に握っていたものです」
女中が古い十字架のロザリオを差し出す。
マリアが昔から大切に持っていたものだ。
「神よ、何故マリアを連れて行かれたのですか! あなたに長年尽くした結末がこれだとでも仰るのですか!」
しかし、いくら泣き喚こうが返事はない。
奇跡もない。啓示もない。
「何故……答えてくれないのですかっ!」
最早そこに悲しみはない。
あるのはただ裏切られた事への絶対的な怒り。
僕は信仰を捨てた。
「旦那様…! 何を…!!」
十字架がなんの役に立つと言うのだ。僕は女中の手からそれを乱暴に引き剥がし地面に叩きつける。神はなぜ妻を救わなかったのだ。僕は沢山の人々を救ってきたのにどうしてこんなひどい仕打ちを?どうしようもない感情が行き場を見つけたように怒りが込み上げてくる。
それは運命に対する怒りだった。
それは己に対する怒りだった。
ぼくが最後にすべきだったのは悪足掻きなんかじゃない。
ただ僕は君と最後の瞬間を過ごしたかったんだ。
「幸せそうな最後でした」
慟哭に震える僕に女中がなんとか声をかける。
だがこの時点でもう言葉は聞こえていなかった。
あるのはただ後悔と贖罪。
なんとしても君をもう一度取り戻す。
例えこの身を地獄に落とすことになっても。
例えこの魂が永遠に闇を彷徨うことになっても。
「ごめんよ、マリア。もうすぐ会えるからね」
そして僕は魂を悪魔に売り渡した。
今でも絶えず悔いている。
やり直せるならこの命もいらないと思うほどに。