第2話
慈愛の女神を中心に、戦い、豊穣、知恵の4神を信仰するこの世界では、誰もが4柱神の加護を受けてこの世に生を受ける。加護によっては魔法が使えるらしいが、そんな人はほんの一握りで大多数は魔法なんて使えない。
当然エレシアも大多数の一人で魔法なんて使えない。ただ、ちょっとしたおまじないが使える。
乗合馬車の待合所のそばで人目を避けられる場所を探す。誰もいないことを確認したあと、小さいころに亡くなった母親譲りの赤毛を公爵と同じ光をまとうようなブロンドに変える。
残念ながら変えられるのは色だけで姿形は変えられない。それでもこれから行くチチェリ王国には知り合いはいないのでそれで十分だろう。
初めての乗合馬車は乗って数分で絶望した。普段の馬車とは違い、揺れが半端ないのだ。エレシアが生まれたデサージュ王国からチチェリ王国までは馬車で2日かかる。途中、ベゾンシュタク王国で一泊することになる。
——これ、あと2日も耐えられるかな……。
痛い……痛いっ!!
翌朝、エレシアは全身の痛みで目が覚めた。昨日一日中馬車に揺られて体のありとあらゆる筋肉と関節が悲鳴をあげている。
すべてはあの王子から解放されるためだと言い聞かせ出発の準備をする。
ぎこちない動きで馬車に乗るエレシアとは違い、一晩英気を養った馬たちは仕事の意欲に満ちた足取りでチチェリ王国へと走り出した。
馬の脚についている蹄鉄には、走るときの衝撃を吸収する魔法がかけられているし、エレシアたちが乗っている馬車も馬の負担を軽減する魔道具が使われている。
ただ、残念なことに乗り心地に対する配慮は一切ないため、エレシアは今日もひどい揺れに耐えている。気を紛らわすために揺れ以外のことに考えをめぐらす。
顔がまったくタイプではないとはいえ、オーガストとは10年以上一緒にいたから多少の情はある。今ごろは勝手に婚約破棄と国外追放を言い渡したことが女王陛下にばれて、お叱りを受けているだろう。そう思うとエレシアはほんの少しだけ心が痛んだ。ほんの少しだけ。
婚約という教会で結んだ神さまとの契約を一度反故にして、さらにそれを取り消すなんてことは時間が経つほどに難しくなる。一年、いや半年身を潜めていれば、婚約破棄が覆されることはないはずだ。
エレシアは黒髪直毛で寡黙な人がタイプだった。オーガストのように金髪碧眼で白馬に乗って登場しそうな王子さまは、是非ともユゥナに譲って差し上げたい。
その時、馬車の後方で発生した小さな悲鳴が一瞬でパニックをもたらす。悲鳴の先を見やると、真っ黒な生き物がこちらを見ている。
——魔獣だ。
エレシアも実際に見るのは初めてだった。それはただの黒い大型犬にしか見えないにもかかわらず、本能的に全身の細胞が警告音を鳴らしていた。
周囲を見渡すと、小さな子供をぎゅっと守りながら動けなくなっている親子や、恐怖でパニックになり馬車から降りて逃げようとしている乗客がいる。
「だめ! 外に出るのは危険だわ!」
エレシアは何とかしなくてはと思い、護身用の短剣を取り出し魔獣と対峙する。足元から恐怖がせり上がってきて立っているだけでも叫びだしそうになる。
魔獣はうなり声をあげて今にも襲い掛かってきそうだ。
——お父さまごめんなさい。こんなことなら婚約破棄なんてするんじゃなかった……
ザシュッ!
次の瞬間、魔獣だったものは黒い塊となって動かなくなっていた。
いつの間に現れたのか、すぐそばに剣をもった騎士が立っていた。
——めっちゃ顔タイプ!!
突然現れた騎士は危険な状況を忘れさせてしまうほど、整った顔をしていた。やや青みがかった黒い髪と冷酷そうな黒い瞳は、エレシアの好みそのものだった。
いやそうじゃない、となんとか正気を取り戻してお礼を述べる。
「危険なところ、助けていただきありがとうございます」
騎士はギロリとエレシアを睨みつけた。
——いや、その表情ゾクゾクする!!
「この周辺は魔獣が発生しているのに、なぜ護衛もつけていないのだ。しかもそんな短剣で立ち向かうとは。死にたいのか。それとも馬鹿なのか」
あまりの言い様にエレシアは思わずムッとする。顔はよくても性格が悪すぎる。
「そのおっしゃり様はあんまりではないですか? ただわたくしはみんなを守らなくては——」
「何をしているのだ、早く行け」
ひどく冷徹な言い方に怒り心頭ではあるが、エレシアは本来の冷静さを取り戻していた。あんな魔獣がいるなら確かに護衛なしでチチェリ王国まで行くのは危険だ。乗客は女性や小さな子供がほとんどなのだ。
「騎士様、失礼を承知で申し上げます。どうか、チチェリ王国まで護衛をお願いできませんでしょうか。向こうに着いた後にきちんとお礼はいたします」
「断る。それより早くここを去れ」
騎士でありながら民を守ろうとしない態度にあきれて何も言えず、怯える乗客をなだめながら馬車に乗り込む。
神のご加護があったのか残りの道は別の騎士が通りかかり、何事もなく無事チチェリ王国へ到着した。馬車の揺れと魔獣との遭遇で心身ともに限界だったエレシアは、宿に着くなり溶けるように眠りについた。
翌朝、朝食を食べようと食堂へ降りていく途中、宿の主人が誰かと話している声がしている。近づいて話の内容が聞き取れるとエレシアは血の気が引いていく。
「赤毛の令嬢を探しているのだが、見かけなかったか?」
「さぁ、見かけてませんねぇ……何かあったのですか?」
「いや、気にすることはない。家出した貴族令嬢の捜索願いがでているのだ」
「それはそれは。ご苦労なことで」
「見かけたらすぐに知らせてくれ」
「かしこまりました」
男性が出ていくのを待って静かに部屋に戻る。家出ではなくて国外追放なのは訂正したかったが、このままでは見つかるのも時間の問題だ。
目立たないように三つ編みでまとめていた髪をハサミで切り落とす。手入れの行き届いた長い髪なんて、貴族令嬢だと名乗っているようなものだ。さらに髪と瞳の色も暗いこげ茶色に変えることにした。
——きっとこれで大丈夫。