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最終話


「じゃあ、いってくる。くらさん、お酒はほどほどにね」

「分かってらぁ」

「本当に?」


懐疑的な表情を浮かべる良典に、朝から酒を飲みに津ヶ谷家を訪れたくらぼっこは大量の毛を揺らしながら豪快に笑った。


「いってらっしゃい。良典さん」


幸千代は玄関に立って、昨日までと同様に出勤する良典を見送る。

そう。何気なく、いつもと変わらず。

笑顔で手をふって。

心の中にある企みをさとられないように。


「今日は残業なしで帰ってくるから」

「分かりました。酔っぱらったくらさんと待ってますね」

「二人で泥酔してたらどうしようかな」

「もう。私は飲みませんよ!」


自然にふるまえているだろうか。

軽口を交わしながら、幸千代の心臓は少しばかりの緊張で鼓動を増していた。


「……無事に出勤したな」


ドアが閉まり、自動で行われる施錠音がしっかりと耳に届いた。


「本当に行くのか? 良典にやめろって言われてんだろ? 見つかったら、ここを追い出されるんじゃねぇの?」

「良典さんはそんなに厳しい人じゃないよ。まぁ、すごく怒られるとは思うけど……」


つい語尾を弱めてしまったが、今日の予定を変えるつもりはない。

再び、良典の職場へ行く。

ダメだと分かっていても、どうしてもこの衝動を止められない。

だって、あれからずっと頭の中がぐちゃぐちゃなのだ。

良典の唯一の恋人だったという人。

突然、幸千代の前に現れて、当然のように良典に対して慕わしげな表情をしていた。

良典は偶然同じ職場になっただけ、交際していたのだって遠い昔で今は何でもないと言っていたけれど。

全て事実なのだろうが、元恋人の姿を見てから幸千代の心はどす黒い靄でおおわれていた。

年齢を感じさせない可愛らしい人だった。

スポーツショップから帰宅してから良典が話してくれたが、派遣社員として働いているシングルマザーらしい。

良典に向けたキラキラした瞳を思い出す。

それだけで、ぶわりと嫉妬の感情がわく。

ずっと二人で暮らしていくと、元恋人とよりを戻したりはしないと約束してくれたが、人の気持ちがどうしようもなく移り変わってしまうことを、己は嫌というほど知っている。

良典がどれだけ誠実に指きりをしてくれたとしても。

強い思いが露と消えてしまうことは十二分にありえるのだ。

それでなくとも、幸千代は妖怪。

共に生きていくのならば人間がいいに決まっている。


分かっている、分かっているけど――。


幸千代は両手を強く握りしめた。

胸をかきむしられる思いがする。

良典が誰かのものになるなんて我慢できなかった。

今まで、家主にこんな感情を持ったことは一度だってなかったのに。

家主の幸福は己の存在意義でもあるのだ。


あれ――?


そこまで考えて、幸千代の心が大きくざわついた。

家主と元恋人の偶然の再会。

座敷童子の幸千代が家に住みついたこのタイミングで、しかも十五年ぶりときている。

もしかして、この縁は自分の力が作用したものではないのだろうか。

座敷童子を迎え入れれば、家主に訪れる幸福。


「……どうしよう、私が……っ」

「おい、どうしたよ」


幸千代はその場で膝をついた。

本当なら、彼の幸せを願わなければいけない。

己の力が作用したとすれば、二人は復縁してしかるべきだ。

そして、それを喜ぶのが座敷童子だ。


でも、でも、私は――。


良典に訪れた縁を憎くすら思っている。

彼を奪われるのを嫌だと思っている。

あの笑顔が、穏やかな時間が、再び元恋人のものになるかもしれないと考えるだけで――。


「くらさん……私は……家主の幸せを願えない最低な座敷童子になってしまったよ……」


己の心は欲を知ってしまった。

どうしようもなく津ヶ谷良典を独占したい。

元恋人にとられたくない。

良典とこの家で食事をするのも、運動するのも、買い物に行くのも、自分だけでいい。


「私は……良典さんにこの先ずっと特別に愛されたいんだ……」

「ゆき……おめぇ、家主に恋しちまったのか」


座敷童子らしからぬ家主への執心に、くらぼっこは目をみはる。


「家主を独占したい、相愛の仲になりたいなんて座敷童子……聞いたこともないよね」

「いや、まぁ……そりゃあ前代未聞だが、ダメなわきゃねぇだろ? 想いが通じ合えばいくらだって――」

「良典さんには、もう相手がいるんだ。私の力で再会した昔の恋人が」

「はぁ!?」


くらぼっこの顔が引きつった。

それを邪魔するのは野暮なことだと言いたいのがありありと感じとれた。

当然だ。

座敷童子が結ばれそうな縁をぶち壊すなんて、非道な行いにもほどがある。


「でも、私はどうしても、良典さんとこれからも二人で暮らしていきたいんだ」


幸千代は良典が出て行ったドアを見た。

彼を見送るのも出迎えるのも、己であり続けたい。


「くらさん。最初の予定通り、良典さんの職場に行くよ。何だかね、胸騒ぎがするんだ。きっと、二人の縁はどんどん深くなっていくよ。私はそれを止めたいんだ」

「そりゃ、おめぇの呼び込んだ幸福なら、とんとん拍子に縁は結ばれるだろうが……。本当にぶち壊すのか? そんなことすんのは褒められたもんじゃねぇぞ」

「分かってるよ。でも、良典さんを誰にも渡したくないんだ」


きっぱりと言いきる幸千代に、くらぼっこは苦笑した。


「そんなに言うなら、わしは止めはしねぇよ。良典の縁をどうこうするのも、おめぇ次第だ」

「ありがとう、くらさん」

「そんで、わしもついていくからな」

「え!?」

「久しく人の集まる場には行ってねぇからな。たまにはいいだろ? 邪魔はしねぇからさ」

「いいけど……見つかったらダメだよ」

「おめぇよりかくれんぼは得意だぜ! 任せとけって!」


まるでスパイのような面持ちになったくらぼっこに、幸千代は胸中で荒れ狂う嵐を必死に抑え込みながら微笑んだ。

座敷童子の勘だが、家主の人生が大きく変わる気配がする。

それが、元恋人との復縁であるのならば。

全力で止めてやるまでだ。



○●○



「へぇ~。ここが良典の職場か」


くらぼっこがきょろきょろと視線を振りまく。


「くらさん、もう少し大人しくっ」

「良典以外には見えねぇだろうが」

「そうだけど……」


前回と寸分たがわぬ蘭咲興業株式会社、海外事業部の大きなフロア。

今日は会議ではないらしく、良典は席についている。

二人は死角になる所に陣取って、フロア内を観察していた。


「で、良典の運命の相手はどこだ?」

「そんな言い方やめてよっ」

「いや、事実だろ?」

「そう、じゃない……こともないけど……。あの左側の奥に座ってる人」


幸千代は曇った表情のまま、良典の元恋人を指さした。


「お、きれいな人じゃねぇか」

「……そうだね」


あからさまに固い声で答える幸千代に、くらぼっこは笑った。


「分かりやすい嫉妬だなぁ。おめぇが招いた縁だろ? 今のところ席は遠いし、一緒に仕事はしてなさそうじゃねぇか」

「良典さんもそう言ってたよ。でも、そういうことじゃないのはくらさんも分かるでしょ?」

「まぁなぁ。で、具体的には何しに来たんだよ。ライバルに嫌がらせでもすんのか?」

「まさかっ。しないよ! ただ、仕事してる様子をちょっと見たかったのと、何か今日はどうしてもここに来ておかないとって思って」


座敷童子の勘だと言うと、くらぼっこはなるほどなと頷いた。


「まぁ、わしらの予感てのは当たるもんだが。この状況で勘が働くって……あ!」


くらぼっこが面白げに口角を上げた。


「プロポーズとかそんなんか!」

「やめてよ!」


幸千代はくらぼっこを強い視線で見下ろした後、しゅんと眉尻を下げた。


「い、今はそんな関係じゃないって良典さん言ってたし……」


幸千代の声がどんどん小さくなる。


「冗談だって。そんなに気落ちすんなよ。悪かった! お、良典がこっちに来るぞ。隠れろ!」


くらぼっこに引っ張られるようにデスクの影に身を隠す。


「なぁ……この調子で良典が帰るまで続けるのかよ」

「そうだよ」

「おめぇなぁ……」

「呆れるぐらいなら帰ってもらっていいよ」

「こんな中途半端なとこで誰が帰るかよ」

「なら、もうちょっと静かに……あ、良典さんが出ていく。この時間だと昼食かな。何食べるんだろう」


当然のように後を追おうとする幸千代をくらぼっこが止めた。


「おい! 本気でストーカー座敷童子になるつもりか!」

「だって……」

「だっても何もねぇ! 大人しくしとけ!」


フロアの外に消えていく良典の背中を見つめながら、幸千代は小さく息を吐いた。


「ねぇ、くらさん。私、これでも罪悪感はあるんだよ?」

「知ってるよ。ほら、あれだ。初恋は座敷童子を大胆にさせるってやつだろ?」


幸千代は頬を緩めた。


「何それ。ことわざみたいに言わないでよ」

「おめぇが知らねぇだけで、有名なことわざなんだぜ。ひひっ」


くらぼっこは側にあるミーティングスペースの椅子にぴょんと尻を乗せた。


「ゆきはよ。座敷童子の中でも優等生で、歴代の家主ともずっといい関係を築いてたもんな」

「そうかな……」

「気性の荒いやつに住みつかれた人間なんて、とんでもねぇことになってるだろうが」

「あー……。そういえばそうだね。そんな子に比べたら大人しい方だったとは思うけど」

「過去形かよ」

「だって、家主の縁を断ち切ろうとするなんて、今までの私からしたら蛮行だよ」

「でもよ、わしは好きだぜ。今のゆき。イキイキしてっしよ。過激な行動も、人間でいう所の青春みてぇでいいじゃねぇか」

「本当に人間なら、それでよかったのかもしれないけど……」

「今更気にしてんのか? 自分が妖怪だっての」

「最初からずっと気にしてるよ! 引く気はないけどさ」

「強気だねぇ」

「良典さんが私と一緒で幸せだって言ってくれてるから」


幸千代はそっと瞼を伏せた。


「だから、良典さんの幸せな未来を奪うことになっても……」


今の生活を守りたいと思うのだ。


フロアの奥にいる良典の元恋人に視線を向ける。

彼女にも新しい幸せが訪れていたのかもしれない。

でも、今回は、今回だけは。

自分の幸せを優先すると決めたのだ。


「お、良典が帰ってきたぞ。早ぇな」


簡単に腹ごしらえをしたらしい良典が自分のデスクに戻っていく。

その背中を元彼女も目で追っているのが、幸千代からはよく見えた。


「……あれで復縁はありないって言ってるんだから、良典さんは鈍感だよね」

「鈍感ってより、良典自身が一番そう思ってるからじゃねぇの?」

「え?」

「客観視とかする前に、自分にそんな気持ちが一ミリもないから相手もそうだろって当然のように考えてんだよ。おめぇからすれば、いいことじゃねぇの」

「そうか……」


元恋人の視線に少しも気付かない良典を見つめる。


「そうだったらいいな……」


仕事に勤しむ良典に熱い視線を向け続ける幸千代を見て、くらぼっこは苦虫を噛みつぶしたような顔をした。


「やっぱり帰る」

「え? さっき半端で帰れるかって言ってたのに」


くらぼっこは見た目にそぐわぬ可愛らしい仕草で椅子から飛びおりた。


「おめぇの恋心を聞きながら良典の仕事終わりを待ってたら耳が腐っちまう!」

「そんな……。恋心なんて」


はにかむ座敷童子にくらぼっこは背を向けた。


「ビル内をテキトーに見学してから帰っから。おめぇもまぁ、ぼちぼち頑張れよ」

「うん。ありがと」


背中ごしに手を振られる。


「わしからすれば何も心配いらん気がするがなぁ……」


小さく呟きながら、くらぼっこは広いフロアから出ていった。


「……私だってそう思いたいよ……。でも、座敷童子の力って想像以上に強力だから……」


良典を信じている、信じたい。


でも――。


ゆれる気持ちのままにフロアの隅でじっと良典を見つめる。

くらぼっこならイライラしてその辺を歩き始めるかもしれない。

しかし、幸千代にとっては、こうしてぼんやりと過ごすのが長年の日常だった。

毎日動き回るようになったのは良典の家に来てからだ。

良典は己の全てを変えてしまった。

今更、前のような暮らしには戻れない。

もう良典なしでは生きてはいけないのだ。

窓の外が茜色に染まり、徐々に暗くなっていく。

もうそろそろ退勤時間だろうか。

良典が帰宅の準備を始めた様子がうかがえた。

このまま何も起きないのだろうか。

元恋人に視線をやると、彼女もまた帰り支度をしているようだった。

良典が席を立つのを見て、幸千代もフロアの隅からそっと移動した。

しばらく良典の後を追って、自宅近くになったら散歩をしていたふりでもして声をかけよう。夕食は温めるだけでいいようにしてあるから大丈夫だ。

そう算段した瞬間、幸千代の視界に元恋人の急ぐ姿が入ってきた。

彼女の視線はかつての恋人に向かっている。

鳩尾の辺りに氷を押し付けられた心地になった。

やはり己の勘は当たっていたのだ。


確実に、二人の縁が再び結ばれようとしてる――。


幸千代はフロアから出る二人を急いで追いかけた。

二人が乗ったエレベーターに間に合わなくて、歯噛みしながら一つ遅れた箱に飛び乗った。

頭によぎる似合いな二人の姿を何度も打ち消す。


――良典さんの隣にはずっと、ずっと私が立っていたい――!


ひどく遅く感じたエレベータを降りると、ロビーの隅、ひと気のない場所で二人が話していた。


「あの、もう一度、ヨシくんの連絡先を知りたくて……。ダメかな」


窺うような彼女の細い声。

ちょうど、良典が何か答えようとしていた。


嫌だ、嫌だ――!!


答えを聞きたくなくて、幸千代は良典の後ろから広い背中に抱きついた。


「良典さんは私のものですっ! 誰にも渡しませんっ」

「……っ!?」


突然、背を抱きしめられて、良典の体が強張るのが分かった。


「ヨシくん……?」


元恋人が、様子のおかしい良典を心配そうに見上げている。


「いや、ごめん。その……連絡先は教えられないんだ」


良典がはっきりと言った。


「結婚はしてないけど、とても大切な人がいる。連絡先ぐらいって思うかもしれないけど、少しでも心配かけたくなくてね」


気まずそうに元恋人が顔を伏せた。


「ごめんなさい……そうよね……」


震える声が、話を続ける。


「私、偶然にヨシくんと再会して、舞い上がってた。結婚生活が上手くいかなくなって離婚してから、あなたのことを何度も思い出しては、また会えないかなって。それが叶って、まる運命みたいだなって勝手に思って……」


勝手なんかではない。

確かにこれは運命だ。

座敷童子が呼び寄せた再びの縁。

二人の幸せ。

それを呼び寄せた本人が壊すのだ。

この腕の中の人は未来永劫、自分だけのもの。

幸千代は元恋人の細い声を聞きながら、良典に巻きつけた腕にめいっぱい力を込めた。


「……俺も当時を思い出しては、別れなければって後悔したこともある。でも今は――」


幸千代の手に、大きな手が優しく重なる。

良典は改めて元恋人としっかり視線を合わせた。


「一方的に別れて傷付けたのに、また俺を気にかけてくれてありがとう」


緩く首をふると、彼女はきれいな微笑みを浮かべた。


「今後も仕事上で色々とご迷惑をおかけするかもしれませんが、よろしくお願いします。津ヶ谷課長」

「……こちらこそ、よろしくお願いします」


互いに頭を下げると、元恋人は去っていった。


「……今日は保険の弁当はないんだね」


静かになったロビーの片隅。

手を重ねたまま、良典が穏やかな声音で言う。


「…………」


しゃべろうとしても上手く口が開かなくて、幸千代は良典の背に抱きついたまま唇を震わせた。

元恋人との復縁を断ってくれた。

とても大切な人とは、きっと己のことだ。

嬉しいのに、頭の中がぐちゃぐちゃで言葉にならない。


「……ごめんなさい、こんな強引なこと……」

「俺にしか見えてないからいいよ」


ゆっくり腕を外されると、正面で向き合う。


「幸千代にはいつも驚かされるね。職場でこんなに情熱的な告白をされるとは思わなかった」

「う、あ……すみません……」

「謝らないで。別に責めてないよ」

「だって……良典さんは復縁することもできたのに……。いや、結ばれるべきだったんです。そもそも、この再会だって私の――っ」


言葉を重ねていた唇に良典の指が触れた。


「最初はびっくりしたけど、何となく分かってたよ。母親の宝くじが当たった時と同じように、再会するタイミングがどう考えても座敷童子の恩恵だったしね」

「わ……私……私は……」


良典は全て分かっていたのだ。

この再会が幸千代がもたらしたものだと。

そして、この縁が良典のこれから先の人生を彩る素晴らしい幸福なのだと。


「俺にとっての幸せは幸千代がくれるものじゃないんだよ」


そう言って、今度は良典が幸千代を正面から抱きしめた。


「幸千代自身なんだ。座敷童子の幸千代が傍にいてくれることが俺にとっての何よりの幸福なんだよ」

「良典さん……っ」


目頭が熱くなると、瞬く間に涙があふれてきた。


「ずっとさ、幸千代が可愛くて仕方がなかった。何よりも特別な存在だって思ってたけど、同時にそれは純粋な家族愛じゃないといけないって思いこもうとしてた。でも、感情ってそんな簡単に抑えられるものじゃないよね。幸千代が告白してくれて、改めてちゃんと気付けたよ」

「……?」


良典は腕を緩めると、間近にある幸千代の漆黒の瞳を甘く見つめた。


「俺も幸千代を自分のものにしたい。家族であり、恋人にもなって欲しいんだ」

「え、あ……そ、そんな……」


自分を求めてくれる言葉に、幸千代の頬を新たな涙が伝った。


「わ、私でいいんですか……?」

「幸千代じゃないとダメなんだ」

「でも、私……子供みたいに良典さんを騒がせてばかりで……」

「座敷童子って子供だろ? そんな所も含めて、俺は幸千代が好きだよ」

「良典さん……っ」


恋情で胸の中が爆発しそうだ。言葉が上手くつむげない。

幸千代は涙で濡れた声で、懸命に想いを告げた。


「私も、好きです。大好きです……。良典さんを何より愛しています」

「……俺も愛してるよ……」


愛しい家主を見上げれば、両頬に流れる涙を優しくぬぐわれる。

そのままゆっくりと顔が近付いてきて、そっと唇が重なった。


「ぁ……っ」


温かく甘い感触に、全身が支配される。

良典の首に腕を回せば力強く抱き返され、より一層口づけが深くなった。

初めての愛する人とのキス。

幸千代は身も心も夢中になった。

もし幼い姿のままだったなら、どんなに良典に恋焦がれても、こんな口づけをもらえるような仲にはならなかったに違いない。


「私は……良典さんの為に大人に姿になったんですね。こうして愛してもらえるように」


口付けの合間に囁くと、良典の表情がふわりと緩んだ。

それだけで、心が喜びで満たされる。


前の住処で、どうしても運命の相手に出逢いたいと言っていた人たちの気持ちが、今更ながらにとてもよく分かった。


自分の何もかもを捧げたくて、そして相手の全てが欲しくて。


そんな情熱的な恋におちてしまうほど素敵な人と出逢う運命なんて、きっと誰もが欲しがる幸福なのだから。



○●○



エレベーターを降りると、良典は自宅のドアの前まで小走りしてしまいそうになるのをどうにかこらえた。

四十のおっさんが家にいる恋人と会うのが楽しみすぎてマンションの廊下を走るなんて、ちょっと滑稽すぎる。

しかし、緩みまくる表情はどうしようもできないままにドアをくぐった。


「おかえりなさい」

「ただいま」

「今日もお疲れ様でした」


エプロンをつけた最愛の座敷童子が玄関まで迎えに来てくれる。

最近は玄関での送り迎えを受ける為に出勤していると言っても過言ではないぐらいだ。


「今日の夕食は何かな?」

「えっと、その……」

「ん?」


珍しく歯切れの悪い幸千代。

どうしたのか。

何か気まずいことでもあったのだろうか。

例えば、皿を割ってしまったとか。

疑問符を浮かべていた良典の前で、幸千代が意を決したように顔を上げた。


「良典さんっ!!」

「うん」

「あのっ!」

「何? どうしたの」


見る見るうちに幸千代の白磁の頬が紅く染まる。


「夕食とお風呂と……わ、私とっ! どれがいいですかっ!」


捲し立てるように言われた予想を超えるセリフに、数秒ほど呆然としてしまった。

意外な所で大胆な恋人。

良典はおかしそうに笑った。


「良典さんっ、私は本気なんですよ! 笑わないでください!」

「分かってる、分かってる。ごめんね。あまりにも可愛いから、ついね」


どこで仕入れてきたのやら。

本気の割にはセリフ自体が随分とコミカルだ。

そんな所も愛らしいと思えるのは恋人の欲目だろうか。

良典から受け取った通勤カバンを両手で抱きしめて拗ねた顔をする座敷童子。

胸が苦しい。

頭がどうにかなりそうなぐらいの可愛いさだ。

良典は己のあらゆる欲望がたぎるのを感じながら、目の前の可憐な唇にキスをした。


「じゃあ、幸千代でお願いしようかな」

「え、あっ、はい……喜んで!」


威勢のよい返事に、良典は再び笑ってしまった。


ああ、本当に。


うちの座敷童子は宇宙で一番。最高に魅力的なのだ。




END





最後までお読みいただき、ありがとうございました!




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