第1話
トントントン。
玄関のたたきで、軽く足踏みをする。
うん。
足裏のクッションが快適で、かかとはしっかりと包まれている。
いい感じだ。
津ヶ谷良典は満足気な顔をした。
十年は買い続けているメーカーの黒いウォーキングシューズ。
出かける時間が惜しくて通信販売で購入したが、いい買い物ができたようだ。
前のものより、はき心地は好みだった。
「よし、行くか」
新しい靴を履くと、いくつになっても楽しい気分になる。
小学生の時に新品の靴が気になり足元ばかり見ていて、電柱にぶつかったことをふと思い出した。
まるでコントのようだったと、後ろを歩いていたクラスメイトの斉藤くんに大笑いされたっけ。
彼とは中学校卒業以来会っていないが、元気にしているだろうか。
思い出にひたりながら軽い足取りで自宅マンションを出ると、温かい陽気が良典を優しく包んだ。
ゆっくりと深呼吸すると、身体の中に爽やかな風が吹き込んだ気がした。
住宅街の中でもこんなに気持ちいいのならば、隣市の森林公園まで車を出せばよかっただろうか。
良典は塀の上で跳ねるスズメに目をやった。
いつもは小鳥なんて意識の隅にも止まらないのに。
何故だか無性に喜びが込み上げてきた。
汚れ一つないシューズ、雲一つない優しい色の青空。
年甲斐もなくスキップしたくなるような、軽やかな気分だった。
ずっと仕事が忙しくて、こんな少しの運動さえする余裕がなかった。
課長職に就いてから、初めての大きなプロジェクト。
主要な取引先が東南アジアに新たな拠点を置くことになり、そのサポート事業がプロジェクトの根幹だった。
役職が上がり、当然ながら責任が増す。
課長としての初めての評価の場にもなる。
ここ一年は、迫るプレッシャーと積もるストレスとの戦いだった。
精神的に疲労してくると運動をして気晴らしをしていた良典にとって、軽いウォーキングさえできない多忙極まる日々は辛かったが、やっと大きなプロジェクトにも終わりが見えてきた。
取引先の新しい拠点は順調に始動し、業務提携も計画通りに進んでいる。
こうして、休日にゆっくりと運動する余裕もできた。
といっても、良典がするのはせいぜい歩くか走るか。
たまに少しの筋肉トレーニングぐらいのものだが。
さて、と良典は背伸びをしながら近所の地図を頭の中に広げた。
妥当なコースは、近所の児童公園を囲んでいる遊歩道だろうか。
自宅から往復で四十分程度のコースだ。
今まで、幾度となく歩いた道筋を思い浮かべながら住宅街を歩いて行く。
少し離れた国道から車の走行音が耳に届いた。
周りはまるで自分しかいないと思えるぐらい静かだ。
天気がいい連休だし、出かけている人が多いのかもしれない。
「いいなぁ」
思わず口からこぼれる。
誰かと出かけるなんて久しくしていない。
数少ない友人とはたまに酒飲はしても、休日を共にするなんて間柄ではなく。
恋人は長らくおらず、家族とは遠距離である。
「…………」
おっと、いけない。
せっかくの軽やかな気分が重くなりそうになった。
年をとる毎に、ふとした時に寂しさが襲ってくるようになったのは気のせいだろうか。
そんなつまらないことを考えていると、思ったより早く児童公園が見えてきた。
広い芝生の中、申し訳程度に遊具が置いてある。
昔はもっと遊具の数が多かったのだが、いつのまにか減っていた。
柔らかな緑の絨毯の上で、いくつかの家族が笑顔で戯れている。
レジャーシートを敷いて花見のように盛り上がっている団体もいた。
桜の盛りは一か月も前に過ぎた上に、この公園には桜の木はないのだが。
ほのぼのとした人々を見ながら遊歩道に入ると、帰り際だろう父子とすれ違った。
父親は自分と同じ年ぐらいか。
そういえば。
先週、大学時代の友人から出産内祝いが届いた。
子の名前と写真が大きく印刷された包装紙に包まれた洋菓子セット。
キッチンの隅に置かれたまま、まだ封もきっていない。
甘味がそう好きでもない独り暮らしの中年男には、少々持て余してしまうものだった。
職場に持って行って配ってしまうのもいいかもしれない。
仕事一筋の生活を送っているうちに、周囲のプライベートな話題はすっかり家庭になってしまった。
最近では、既婚部下たちとの話に混じると、独身の良典が変に気を遣われる場面にも出会うようになった。
その気遣いに嫌な気持ちになる瞬間もあるが、家庭の話には共感を持って入れないのもまた事実だった。
芝生の上で、無邪気な子供の声が跳ねる。
家庭を持ちたいと思ったことはあった。
しかし、縁に恵まれずに、ここまで来てしまった。
いや、違う。
確かな縁はあったのに、自分から捨てたのだ。
もう十五年も前の話だ。
当時、高校生のころから付き合っていた恋人がいた。
良典から告白をして交際し、同じ大学に進んで。
初めての恋愛は良典を夢中にした。
このまま、遠くない未来に彼女と結婚するだろうと何の疑いもなく思っていた。
そんな己の願望を壊したのは、自分自身の環境の変化だった。
大学を卒業して産業機械メインの総合商社に入社した良典は、営業職から出発した。がむしゃらに先輩社員についていき、何も分からない社会の広い海へと飛び込んだ。
当時は毎日が必死で。
瞬く間に恋愛の優先度が落ちていった。
彼女と会うのが面倒になり、寂しがらせているという罪悪感がわいてくる。
そして、段々とその罪悪感さえ煩わしくなっていく。
以前は嬉々として夢想していた、近い未来に結婚するという暗黙の了解が、身勝手にも己を縛る重い鎖に変化した。
しかし、彼女を傷付けたくはない。
モヤモヤと中途半端な気持ちで一年は交際を続けただろうか。
ついには恋人という存在が人生の邪魔だと感じてしまう自分がいて。
もう無理だと思った。
これ以上は、彼女の時間を無駄に奪うことにもなる。
だから、仕事に専念したいという理由で別れをきりだした。
彼女は泣いてすがってくれた。
会えなくてもいい、結婚は考えないくてもいいからと。
当時の良典には、健気な彼女の姿が荷物にしか思えなかった。
それと同じころ。社内でいくつかのグループ会社をまたいで大規模なプロジェクトが立ち上がり、良典の参加と子会社への出向が決まった。
このプロジェクトが成功すれば、自身の評価も大きく上がる。
武者震いと共に、彼女の存在が己の中で完全に過去のものになった。
あとは心のままに、悲しむ彼女の元から半ば強引に去り、仕事へと身を投じた。
未練はなかった。
将来、いつか恋愛や結婚をしたくなった時には、また相手を見つければいい。
若い自分は、漠然とそう考えていた。
それから仕事一筋に二、三十代を駈けぬけて、気付けば四十前。
同期や友人は結婚して子供がいる者が多かった。
さて自分の将来設計は、と考えた所で、恋人など十五年前に別れてから一人もできていない。
今更、出逢いが欲しいなんて周囲に言えるような年齢でもなかった。
恋人とか結婚とか。
望めば何となくできるだろうと思っていた二十代のあの頃。
誰かに求められ、想われることがどれだけ貴重か全く分かっていなかったあの頃。
己の全てを捧げたおかげで、会社では四十歳を前に課長職に就任できた。
社内でもかなり早い出世だ。
努力した分、きちんと認められるのは喜び以外の何ものでもない。
忙しくも充実した日々は、良典の仕事人生を豊かに彩っている。
だから、これまでの仕事一色の人生に後悔など一つもない。
そう言いきりたいのに。
三十代を折り返してから、かつての恋人を頻繁に思い出すようになった。
積み重ねた若いころの楽しい記憶たち。
幸せそうな笑顔、己を引き止める泣き顔――。
今更だ。
十五年も前の話である上に、己の身勝手で別れたというのに。
懸命に働いて、出世コースに乗って。
結婚していれば、こう上手くはいかなかったかもしれない。
だから、あの時の選択は間違ってなどいない。
けれど――。
もし、違う未来を選んでいれば。
独り暮らしには広すぎるマンションの一室で、ふとした瞬間に寂しさに包まれる人生とは全く違うものになっていただろうか。
空しいと分かっていながらも、幾度となく考えてしまうのだ。
気付けば、公園の喧騒が遠くなっている。
思考に沈んでいる内に、公園の遊歩道を歩くつもりが住宅地に突入してしまっていた。
子供たちの声が響いていたうららかな公園とは違って、この辺りは凛と澄んだ空気が漂っている。
見回せば立派な日本家屋ばかりが目についた。
この辺りは旧家が並んでいる土地だ。
中には、歴史的建造物として屋内を見学させていただきたいような家もある。
せっかくなら、この澄んだ空気をゆっくりと感じながら、向こうの大通りまで歩いてしまおうか。
予定より歩く距離がかなり増えてしまうが、引き返す気にはなれなかった。
家々の間には、細い路地が縫うように伸びている。
自分が小学生なら、毎日馬鹿みたいに探検していただろう。
騒ぎ過ぎて近所の人から怒られるまでがセットだ。
つい笑ってしまいそうになりながら、広い庭から頭を出した松の木を見上げていると、路地の奥から人の気配がした。
誰かが出てきたようだ。
視線を向けると、着物姿の青年がこちらに歩いてきた。
うわ、すごい――。
良典は思わず、その青年を不躾に見つめてしまった。
品の良い浅葱色の着物を今時の若者らしからぬ風情で、美しく着こなしている。
濡羽色の艶のある髪に、卵型のきれいな顔の輪郭。
優美な弧を描く眉に、細く通った鼻梁。
紅を敷いてはいないだろうに、白磁の肌を引き立てる珊瑚色の唇。
そして、引き込まれるような深みのある光を宿した漆黒の大きな双眸。
年のころは二十二、三歳ぐらいか。
目を疑うぐらい随分と清楚な美青年だ。
高価そうな着物を完全に己のものとして、佇まいから美しさが匂い立っている。
男性にはこの表現は間違っているのだが、大和撫子という形容がぴったりだ。
きっと、この辺りの立派な旧家の出身なのだろう。
和服を日常的に着るような御家柄の息子。
少しも目が離せないまま、青年がどんどん近づいてくる。
彼の漆黒の瞳が懐疑的な光を宿して、こちらを向いていた。
しまった。
彼の魅力にあてられて、あまりにも不自然な視線を送ってしまっていた。
すれ違う時に軽く挨拶をして、着物姿を笑顔で褒めれば不審者感を少しはなくせるだろうか。
いや、声をかけた時点で変質者呼ばわりかもしれない。
悩んで曖昧な笑顔を向けようとした瞬間、腕をつかまれた。
「えっ!?」
予想外の出来事に理解が追いつかない。
驚く間もなく、パーソナルスペースを無視するような距離に美青年が迫っていた。
「私の姿が見えていらっしゃるのですか!?」
「は……?」
美青年は必死の形相だ。
良典は一歩後ずさったが、きっちりとその分だけ距離を詰めてくる。
突然、何なんだ。
頭の中で警報が鳴り響く。
これは、もしかして目を合わせてはいけない類の人間だったか。
「見えていますよね!?」
尚も詰め寄ってくる美青年を軽く振り払って、良典は距離をとった。
こちらはジャージで、相手は和服。
上手く走り去れば、年齢的に体力は負けているだろうが、逃げられるかもしれない。
そう思うのに、美青年の鬼気せまる迫力に体が動かない。
「見えてる……けど……」
良典は絞りだしたような声で言った。
問いには答えたものの、彼の言っていることは全く意味が分からなかった。
姿が見えるかなんて。
自分が透明人間か幽霊だとでも思っているのか。
息を呑むほど美しい青年だが、頭のネジが飛んでしまっているようだ。
とにかく、嫌な予感しかしない。
思いきり訝しむ良典を前に、美青年は両手を口元に当てて感極まっている様子である。
いよいよ訳が分からない。
「失礼するよ」
良典は素早く体を反転させた。
変なトラブルはごめんである。
「ちょっ、ちょっと待ってください!」
走り始めた良典の腕を美青年が再び強くつかんだ。
背筋に恐怖が這い上がってくる。
振りきって逃げながら警察に通報した方が安全だろうか。
「すみませんっ。私、あなた様に害をなそうとは思っていません! ただ、少しお話を聞いていただきたくて……」
手をつかまれたまま、和服の美青年が懇願してくる。
怖い、怖い。
良典はどのタイミングでポケットのスマートフォンを取り出すかで頭がいっぱいだった。
楚々とした雰囲気に反するような謎の迫力。
懐に刃物なんかを持っている可能性もゼロではない。
下手に刺激しては、とんでもない事態になるかもしれない。
「……腕が痛いから、離してくれない?」
「あっ……」
ゆっくりと言葉をつむぐと、謝罪と共に手が外された。
謝るぐらいなら、最初からつかむなと言いたかった。
「わ、私の姿……はっきりと見えていますか?」
早く逃げねば。
そう思うのに、上手く時機が計れない。
二度目に腕をつかまれた時に感じたが、意外に動きが速いのだ。
「……見えるよ。はっきりね」
固い良典の声に、美青年は嬉しそうに微笑んだ。
「そんなにきちんと見える方は初めてです……!」
ダメだ。
本気でさっぱり意味が分からない。
「もういいよね」
今度こそ逃げようとすると、素晴らしい速さで退路をふさがれた。
だから、何故こんなに俊敏な動きができるのか。
「何のつもりだよっ!」
良典は恐怖を怒りの中に閉じ込めて声を荒くした。
こんなことになるなら、住宅地を進まずに引き返せばよかった。
後悔が一層心を冷たくしていく。
「えと……あの、突然のお願いになるのですが……」
行動とは真逆の神妙な口調で美青年が続ける。
「もし、よろしければ……あなた様のお宅を私の新しい住処にさせていただきたくて……」
「はぁっ!?」
とんでもない要求に、開いた口が塞がらなくなる。
バカじゃないのか。
頭がおかしいにもほどがある。
思いきり顔をしかめて良典は不快感を露わにした。
「いいかげんにしてくれっ。これ以上、おかしな話につきあわせるのなら警察を――」
「いや、その……私、ちょうど家を出てきたばかりで、帰る所がないんです」
「だからって、うちに泊めるわけがないだろ! 無計画な家出なんて周りの人に迷惑をかけるだけだから、すぐに帰りなさい」
良典の説教に、美青年は困ったように視線を下げた。
「家出自体は計画的だったんです……。ちゃんと私の代わりも頼んできましたし。家主は私の姿が見えないので、代理の者で大丈夫なんです」
良典は謎の主張を聞きながらこめかみを押さえた。
日本語を話しているはずなのに、全く頭の中に言葉が入ってこない。
もしかして、自分が彼を家に送り届けてやらねばならないのか。
彼の家族が捜しているかもしれない。
要保護の可能性が高まっていくが、これだけは言っておかないといけない。
「とにかく、うちには泊まらせないから」
「そんな……少しでいいので、お願いします」
「無理だ。初対面で何を考えてるんだ」
良典の強い語気に、白皙の美貌が曇る。
「だって……こういうのは直感だと……。私が住むと幸運がまいこむって言われてますし……」
「幸運って……次から次に何なんだよ……」
耳になだれ込んでくる意味不明な設定と言葉たち。
良典の心にどっと呆れと困惑が押し寄せ、身体が重くなる。
「その……」
呆れ顔の良典を前に、美青年はためらいがちに口を開く。
「最初に驚いたのは、ほとんどの方には私が見えないからなんです」
「また変なことを――」
「あれを見てください」
美青年が頭上を指さす。
そこには古いカーブミラーが設置されていて、ちょうど中央に良典の姿が映っていた。
「え……」
良典は息を呑んだ。
丸いミラーの中にいるのは自分一人だけだった。
「どうして……」
言葉を詰まらせながら、目前に立っている美青年に顔を向ける。
確実にいる。存在している。
それなのに、鏡には影一つ映っていない。
何故だ。
意味不明だと一蹴していたが、本当に他の人間に彼の姿は見えていない――?
表情を強張らせる良典を、漆黒の瞳がまっすぐ見つめてくる。
「私、人間ではないんです」
「…………」
「人々の間では座敷童子という名で呼ばれています」
良典は微笑む美青年の声を半ば茫然と聞いていた。
もちろん、座敷童子は知っている。
有名な妖怪だ。
古い家に住みつく子供の姿をした精霊や神のような存在で、家人や姿を目撃した者に幸運をもたらすという。
小さなころから、テレビや本で散々伝説を見聞きして育ってきている。
座敷童子がいるといわれている旅館に、いつか泊まってみたいと親に強請ったのもいい思い出だ。
その伝説の妖怪が、この目の前の美青年だというのか。
「……座敷童子って小さな子供では?」
良典はまだ上手く動かない口に疑問を乗せた。
鏡に映っていない以上、この美青年は人間ではないのは確実だろう。
しかし、大人の座敷童子なんて聞いたことがない。
「それは……少し前まではちゃんと子供の姿だったのですが。何の前触れもなく急に成長しはじめて、大人になってしまいました」
「座敷童子って成長するのか……」
「いえ、しません。私たちはずっと子供の姿のままで家に住みつくのです。だから、自分でも……大人になった理由が分からないんです」
大人の座敷童子は、悩ましげに眉根を寄せるとそっと目を伏せた。
さり気ない仕草や表情がやけに色っぽい。
これで少し前まで子供だったと言うのだから、おかしな話だ。
「……大人になった座敷童子ってのは……信じがたいけど。まぁ、分かったよ。それが何で家出してうちに来る流れに?」
「この姿になってから、住んでいた家に居づらくなったんです……。色々事情が重なって、迷惑をかけることにもなりかねなくて」
「それで家出をして、偶然に会った俺の家を新しい住処にしたいと」
「そうです……。不躾なのは分かっています。ですが――」
良典は座敷童子の言葉を遮った。
「絶対に誰かの家に住まないといけないものなの? 自由な座敷童子って言ったら変な表現だけど」
「……浮浪している座敷童子もいるようですが、私はどなたかの家に住みつきたいのです」
「じゃあ、俺じゃなくてもいいよね」
「いいえ」
漆黒の瞳に強く見つめられて、良典はたじろいだ。
「私は、あなた様がいい」
「……そんなこと言われてもな」
何故、自分なのか。
動物ではないのだ。
こんな立派な姿をした青年を突然自宅に住まわせるなんて、どうかしている。
「申し訳ないけど――」
「お願いしますっ。絶対に、絶対に損はさせませんから」
「いや、損得の問題じゃなくて」
とんでもない押し売りにでも遭遇してしまったかのようだ。
思いつく限りの断り文句を並べていると、ポケットの中のスマートフォンが鳴った。
「あ、どうぞ確認されてください」
「いいよ。それより――」
ずいと座敷童子の顔が近づく。
「どうぞ。今、確認されてください」
「……何なんだよ……」
妖怪の迫力に気圧されてスマートフォンを取り出せば、遠方に住む母からメッセージが届いていた。
「ん……!?」
画面の文字を読んで、良典は目をみはった。
挨拶もそこそこに、宝くじで百万円が当たったと記してある。
母はこのような嘘をつくタイプではない。
興奮のせいか、いつもはしない誤字までしているのが生々しい。
「どうですか? 何か幸運の徴ではありませんでしたか?」
「幸運の徴って……まさか――」
良典はスマートフォンの画面から顔を上げた。
「これ、座敷童子の力だっていうのか……?」
白皙の美貌が、それはそれはきれいに微笑んだ。
「ええ。そうですよ。私を見た者には幸運が訪れるというのは有名ですから、ご存知でしょう?」
「それは知ってる、けど……」
再び百万円の文字を見る。
確かに、このタイミングで知らせがくるというのは偶然では済まされない気がする。
「でも、こんなにすぐ良いことが起こるなんて、おかしくないか……?」
あまりにも露骨すぎる。
「その辺は私にも操作できないんです。私の気配を察知できても、幸運が全く訪れない方もいらっしゃいますしね。幸運の内容も時機も人それぞれです。あなた様は私の姿がはっきり見えたので、幸運も明確な形ですぐに訪れたのかもしれませんね」
「…………」
良典は胡乱気な顔をして、きれいな微笑みを見やる。
バカみたいに都合がいい。
この美青年が人外の存在だというのは本当だとしても、何やら騙されているのではないか。
実は人の家を乗っ取って不幸にする化け物だとか――。
「私を……疑っていますか?」
「疑うっていうか、この状況で信頼は生まれないよ」
「そうですけど……」
座敷童子は一度言葉を切ると、深く頭を下げた。
「今話したことは全部本当です。何も嘘はついていません。お願いです。あなた様のお家に住まわせてくださいっ」
「だから、どれだけ頭を下げられても……」
良典は己の言葉の勢いが弱くなっているのを感じた。
母からきたメッセージが頭を巡る。
座敷童子は精霊や神ともいわれているのだ。
本当にこの美青年の力ならば、百万円を当ててもらっておいて、はいさようなら、なんて失礼な気がする。
それに――。
座敷童子に住みつかれた家人や目撃者が幸せになるという話と同時に、嫌がる行為をしてしまったり、家から去られると不幸になるなんて話も聞く。
つまり。
嫌われたら不幸になるのだ。
ああ。終わった。
何とも罠にはめられた気分だ。
幸運を押し付けられて、うちに住みたいという彼の願いを断りづらくされてしまった。
「あのさ、もし俺が断ったら、今度は不運がうちの家族に来たりするの?」
座敷童子は、困惑顔で苦笑した。
「あ……その可能性は……ありますね」
やっぱり。
「これ、脅されてるようなものじゃない?」
「ち、違いますよ!」
「でも、事実上、断れないよね? ここで家に連れて行かなかったら、俺や家族に何が起こるか分かりませんって話だろ?」
「…………」
座敷童子が静かに顔を伏せる。
ほらみろ。
脅し同然じゃないか。
良典は深いため息を吐いた。
殊勝な態度をとっているが、このタイミングで母親の宝くじが当たったのも、本当は故意なのではないかと思えてくる。
運を与える力を操作できないなんて、良典の知ったことではないのだから。
「ありえない……」
小さく呟くと、ぐらりと重心をなくす頭を片手で支えた。
ずっと忙しかった仕事が一段落して、久しぶりにゆっくりと運動をしたかっただけなのに。
気分の上がる晴天に、新しいウォーキングシューズ。
今日がいい日だと疑いもしていなかった。
それがどうして――。
夢か幻であって欲しいと願ってみたものの。
目の前の美青年はしっかりと良典の返事を待っていて。
カーブミラーを見ると、きれいさっぱりと彼の姿は映っていなかった。