怪我の功名、目から鱗です
――転機は突然、やってきた。
体が宙に浮き、視界に空が広がる。
階段から落ちたのだと気付いた時には、既にどうにもならなかった。
体中を激しく殴打されたような痛みに、息が詰まる。
遠のいていく意識の中、セアラの視界には驚いた顔で駆け寄ってくるギルバートと、可愛らしい女性の姿が映った。
最近はあの女性と一緒にいる姿をよく見かける。
なるほど、ああいう女性がギルバートの好みなのか。
そこまで考えて、ふとセアラは思い至った。
――いつまで、こんなことを続けるのだろう。
ギルバートに好意はあるが、それはセアラの勝手な事情だ。
ここでセアラが身を引けば、皆が幸せになれるではないか。
……なんだ、こんなに簡単なことだったのか。
察しの悪い自分に呆れてしまい、微かに口元を綻ばせる。
どんどん暗くなっていく視界に見切りをつけて瞼を閉じると、セアラは意識を失った。
「――ということで、たった今ギル様に婚約解消を提案してきたのですが、断られました。これからは、ギル様に相応しい理想の花嫁を探します!」
立ったまま腰に手を当てて自信満々に報告するセアラを見て、美少年は笑い声をあげ、美少女は深いため息をついた。
学園の建物内にある王族の使用する区画の一室。
その主であるデリック・ソール第一王子は、お腹を抱えながら笑っている。
「階段から落ちてしばらく休んだって聞いたから、心配していたけど。何がどうなるとそうなるの?」
「今、説明しましたよね?」
「聞いたよ。全然、わからない」
気品溢れる美貌の持ち主は、そう言うと笑いながらティーカップを手に取る。
笑いすぎてのどが渇いたようなのだが、現在進行形で笑い続けているせいで結局紅茶を飲むことができない。
そんな婚約者の様子を見ていたパトリシア・スロウト王女はもう一度深いため息をついた。
「セアラ。もう一度、最初から話してくれますか?」
留学中の隣国の王女であるパトリシアは、セアラの友人でもある。
ティーカップを持ったまま笑い続けているデリックを横目に、セアラはうなずいた。
「怪我の功名とはよく言ったものです。まさに目から鱗。学園入学の頃からずっと、そっけないギル様を何とか繋ぎ止めようと、ありとあらゆる努力をしてきました。ですが、すべては無駄な努力。階段から落ちて、ようやく気付きました。――私が身を引けば、皆幸せになれるのです」
「既に色々気になるところはあるけれど。……それで何故、理想の花嫁を探すことになるのです?」
「婚約を解消しないということは、おおっぴらに花嫁探しをできないじゃありませんか。ギル様には幸せになってほしいですから。私が素晴らしい理想の花嫁を探して差し上げれば、ギル様も心置きなく婚約を解消して新たなる幸せに進むことができます」
「セアラ。とりあえず、座ってください」
パトリシアに促され、セアラはソファーに腰を下ろす。
王族専用の部屋だけあって、生地は上質にして滑らかで、座り心地も素晴らしい。
「ギルバートの自業自得もいいところですが……さすがに今回は酷いですね。それで? 仮にその理想の花嫁を探し出したとして、あなたはどうするのですか」
「私はギル様の幸せを見届けましたら、騎士になろうと思っています」
セアラの言葉に、笑い続けていたデリックの声が止まる。
「騎士?」
「ご存知の通り、父は騎士団長を務め、兄も近衛騎士という騎士家系です。私も学園入学までは毎日のように剣を握っていた身。貴族令嬢としてまともな働きができずとも、剣でなら身を立てられると思います」
「……ちょっと待って。それはつまり、結婚はしないということ?」
ようやく笑いが止まったのに紅茶を飲まずにティーカップを置くと、デリックは眉を顰める。
「理由はどうあれ、公爵令息との婚約が破談になるのです。たかが子爵令嬢でしかない私に、まともな縁談など来ないでしょう。家は兄が継ぎますし、何ら問題ありません」
「セアラは学園でも社交界でも『深紅の薔薇』とまで呼ばれる女性だよ。容姿はもちろん、学業も申し分ない。正直、引く手あまただと思うけど」
確かにそう呼ばれてはいるが、あれは公爵令息であるギルバートの婚約者だからこそのお世辞だろう。
セアラはノーマン公爵令息の婚約者という肩書がなくなれば、騎士団長の娘というだけの下位貴族。
それこそ騎士くらいしかセアラを娶って有益な人はいないと思う。
「それは買いかぶりすぎです。それに……剣で男性を圧倒する妻など、誰も求めていません」
「――セアラ、それは」
「騎士団に入り、ゆくゆくは近衛騎士となり……王妃となったパトリシア様のそばにお仕えするのが、今後の私の夢です」
デリックが悲しそうに眉を下げるのを見て、慌てて口を開く。
あの事件については、あまり話したくなかった。
「……それは、悪くありませんね」
「パトリシア?」
デリックの責めるような声にも動じることなく、パトリシアは優雅に紅茶を口にする。
「それもこれも、ギルバートが悪いのです。少し頭を冷やせばいいのですよ。……それに、セアラが騎士としてそばにつくというのは、魅力的ですね」
「本当ですか? 私、頑張りますね!」
賛同者を得たことで、セアラの心が俄然盛り上がってきた。
「それにしても、まずは理想の花嫁とやらでしょう? あてはあるのですか?」
「おおよその目星はついていますので、これから詳しく調査します。本当はもう少し休んでいなさいと言われたのですが、そのために学園に出てきました」
「ええ? 大丈夫? 無理はいけないよ。医務室で横になるかい?」
デリックの気遣いにセアラの心が温かくなる。
ギルバートの婚約者ということで幼少期から親しくしてくれているが、婚約が解消されればもう接点もない。
ひとつ年上の二人の王族とも、いずれは話すこともなくなるのかもしれない。
「はい。体は丈夫ですので、心配ありません。ありがとうございます」
笑みを浮かべて頭を下げるセアラを見て、二人は複雑そうな表情で顔を見合わせた。