26. 友人とは全てを知りながらも愛してくれる人である。 (エルバート・ハッバード)
「なあ、この世界って『ドラゴン』っているの?」
「どらごん?」
「あぁー、いないのかあ」
肩を落としつつ、コウがトカゲの大きくなったような姿で、ものすごく大きく、翼を持ち、とても強いのだと話す。
「ああ、ドラゴンならいるぞ。硬い鱗に覆われた体は剣を通さず、殆どの毒は効かず、膨大な魔力で数多の魔法を操る」
「いるんだ!」
途端に目が輝く。
「ドラゴンって言うのかあ。魔物の親玉と言えば、定番ですな。いつかは行くのかねえ、ドラゴン討伐」
どらごんすれいやーだとかどらごんきらーだとか、またぞろ意味不明なことを言うが、まるで創作物の中の魔獣を楽しんでいるようだ。
「ドラゴン討伐に行けたら行くのか?」
「うん?」
「もし、俺がドラゴンだったらどうする?」
「ああ、討伐に行ってスウォルがドラゴンでしたってパターン? そうだなあ。もし、その討伐に行くのが報酬目当てとかだったら辞める。で、誰かが捕まっているとか何かしらの薬の材料とかを持っているとかなら、土下座して解放してくれ、譲ってくれって頼む」
俺は今、さぞかし面食らった表情をしているだろう。
「はは、そりゃあもう、泣きながら頼んじゃうよ。鼻水垂らしながら縋りついてやる!」
だって、俺はスウォルには勝てる気がしないもん、とからりと笑う。
「……つけるなよ」
「どうだろう? すげなく断られたら、離すものか!ってなってついちゃうかも」
「分かった。その場合、可及的速やかに譲ってやる」
「ありがとうございます! って、あれ? これって、仮定の話だよな」
コウは最近、足繁く娼館に通っている。
そこで少なくない金を吐き出してくることに後ろめたく思っている様子だ。大方、香辛料集めができなくて、俺にかれーを食べさせることができないのを申し訳ないとでも思っているのだろう。
律儀なやつだ。
「コウにも春が訪れたか」
「な、なんだよ! そんなんじゃないよ! 俺はその、彼女が育てている子供に差し入れをしているだけだよ。彼女だって客が来なかったら、店から冷たくされて子供を育てられないかもしれないしさ」
後からぽつりと、自分がワレリーのような金持ちだったら落籍すことができるのに、と言った。
コウの気持ちは憐みだっただろうか。
郷里を離れざるを得なかったコウが同じく強いられた娼婦の境遇を不憫だと思ったのだろうか。
だとしても、優しさは優しさで、娼婦の心に染みただろう。
しかし、それは家族への愛情と同じだった。
しばらくしてから、コウは娼館には足が遠のいた。
「なんかさ、好きな人ができたんだって。お客の一人らしくて、そんなにお金持ちってのでもないけれど、お金を貯めて、彼女の借金を二人でお店に返したら、一緒になろうって言っているんだってさ」
その時は養い子も引き取ると客が言ってくれたと聞いたとコウが嬉しそうに話した。
そうやって、自分の手に入らなくても、笑って祝福できるんだな。
その日は雨が降りそうだったので、仕事を受けないつもりだった。
冒険者ギルドに行くのは解体をするためだ。内臓と血抜きだけを行った魔獣を一時預かりしてくれる。手が空いた際に解体するのだ。
コウは雨の日は視界や足下が悪いからとあまり町の外に出たがらない。
どの冒険者も悪天候を嫌うが、コウほどには慎重にならない。臆病者だと嘲笑う者もいたが、それこそが生存率を上げる。根拠のない自信や甘い見通しこそが死亡に繋がる。
その時だった。
「コウ、お前はここにいろ」
俺はすぐ近くに有角の気配を感じ、咄嗟にコウの腕を掴んだ。壁の外ではない。中だ。
「スウォル? どうかしたのか?」
俺の顔を見て目を丸くする。
「魔獣が町中にいる。片付けてくるから、ここにいろ」
コウは驚きつつも頷き、気をつけるように言った。
ギルドの建物から出ると、遠くに喧騒が聞こえてくる。
今考えれば、それが間違いだった。
コウと別行動をすべきではなかった。
俺こそが、認識が甘かった。
町中だからと走らず急ぎ足で向かう。
現場に近づくにつれ、騒ぎが聞こえて来、逃げてくる人が増え始めた。
「一体全体、どうしたっていうのさ?」
「魔獣が出た! いや、人間が魔獣になった!」
「はあ? 何を馬鹿なことを言っているんだい。寝ぼけていたんじゃないのかい?」
逃げて来た者を笑う。あまりに突飛だからだ。
しかし、俺の足は止まった。
「どういうことだ?」
詳細が聞けないかと声を掛ける。
「え、あ、ああ。この先の娼館通りで魔獣がいるんだ」
突然話しかけて来た見知らぬ者である俺に戸惑いながら答えた。
「人が魔獣になったと聞こえたが」
「嘘じゃねえよ! 本当に見たんだ。女の額から角が飛び出て来たんだ」
「またまたあ」
周囲の者たちは笑って取り合わない。
「落ち着いて思い出してくれ。どんな風だったんだ?」
俺が真剣に聞くからか、男は記憶を掘り起こそうと首をひねる。
「最初は痴話げんかみたいな声が聞こえて来たんだ。でも、場所が場所だから、よくあることだと思っていたんだ。何気なくそっちを見たら、ものすごい形相をした女の額がばりっと破けたんだよ。途端に血肉が飛んだ。それよりも、そこから角がずずっと生えて来て、驚いたのなんのって!」
あまりに詳しく語るので、笑っていた周囲も気味悪そうに顔を見合わせる。
「じゃ、じゃあ、逃げなきゃ!」
うち一人がようやく気付いたら、後は早かった。
少しでも安全な場所へ、娼館通りから離れようと皆が踵を返す。
「あっ、貴重品を持って行かなくちゃ」
「馬鹿、そんなことをしているうちにこっちに魔獣が来たらどうするんだ」
「そうだ、子供が家にいるんだわ。連れてこなきゃ」
もはや、彼らは自分たちのことで頭がいっぱいだった。俺は俺で聞いた話に呆然としていた。
人が角を得て、魔獣となった。
その事象は少ないながらも、幾つかの伝承が残されている。
いずれも、他者を積極的に害するようになる。知性は残されている。では、理性を失うがゆえに他者を襲うのか。倫理観の変容ではなく、心の在り方そのものが変じるのか。
いやだ。
どうしても、相対することができず、足が鈍る。
有角に変じた者と言葉を交わし、自分もまた変容するのを恐れた。
そんな俺の怯懦を嘲笑うように事態は思いも寄らぬ方向に転がって行く。
鈍る足でようやく現場に到着したら、話に聞いていた通り、額から角を突き出した女がいた。普通の人間よりも二回りほども膨れ上がっている。
問題は、その者と対峙する小柄な背中だ。
「コウ!」
女の成れの果ての足元には男が尻餅をついている。
冒険者ギルドを出るなと言ったのに、何故騒動の現場にいるのだ。
コウはちらりと俺を見ただけで、すぐに有角と向き合う。
「ギルドに飛び込んできた人が魔獣討伐の依頼をしてきたんだ。それが彼女だって言うから、受けた」
口早に言うのは俺への説明だろう。そして、後は黙っていろという意志を感じた。
コウは普段、威圧とはほど遠い人間だが、その時ばかりは従わざるを得ないものを感じた。
そして、彼女に語りかけた。
「なあ、その人があんたの好きになったっていう人なんだろう?」
コウは俺がもたついている間に追いついてきて、醜い変容に気にも留めずにまっすぐに有角を見つめる。
すごい。
愛したものの成れの果てでも逃げずに真っ向から語り掛けるのか。
愚直で、それが一番のやり方なのかもしれない。事実から目を逸らさず、そのままを見つめ、方策を探る。
だってさ、見たくないからって、今見なくても、事実は事実じゃないか。
後に聞いたら、コウはそう答えた。
『そうよ? 将来を約束し合った仲だわ。でもね、捨てられたの』
いつぞやダンジョンで聞いた蛇のような魔獣のそれに似た、幾つもの音階が混じった濁った声が聞こえた。物言いは可愛らしいもので、人間だった時のままなのだろう。
コウが不快気に眉を顰める。
『でも、捨てられたの。寄りにも寄って、可愛がっていた後輩に乗り換えて、孕ませた上、おろせっていうんだからァァァァァ』
有角が髪を振り乱す。血管が浮いた太い腕の先には鋭い爪があり、空を切る音が聞こえる。
「ひいぃぃっ」
浮気男が頭を抱えて悲鳴を上げる。
娼婦だからと好き勝手したつけが回って来た。
「それで『鬼』になったっていうのか?」
「おに?」
「なあ、角が生えるってなんなんだ? 無暗に人を攻撃するようになるのか? 理性を失うのか?」
コウが彼女を真っすぐに見据えたまま、誰にともなく言う。
「理性を失って知性を保ったまま角を持つようになった者も、少ないもののいる。だが、例外なく、他者を害する」
それが、あいつがつけた目印だからだ。
「ああ、『サイコパス』とか『パーソナリティ障害』とかそういうのか。知能はあっても、モラルがないっていうか、人を害しても何とも思わない、それよりも積極的に害そうとするやつ。ほら、強い恐怖体験をしたら、髪の毛が真っ白になったとかいう話があるだろう? それが更に突き詰められた感じ」
ああ、確かにそうかもしれないな。
強い憎しみや悲しみなどに突き動かされて行動している。自分ではどうしようもない風だ。もう、自分が自分でない。そんな風に見えた。
『また私を捨てるの、お父さん』
有角の台詞にコウがはっと息を飲んだ。
「待てよ! あの子はどうするんだよ! あんたの子になったんだろう⁈」
男に腕を振り上げようとしていた娼婦の動きがぴたりと止まる。
コウを見つめる。
コウは目を逸らさない。
「あんたのためじゃない。あの子をあんたみたいな目に合わせないために、頑張れよ!」
眦が吊り上がった目からぽろりと零れた。
有角も涙をこぼすのか。
心を揺り動かされるのか。
『こんな姿はもう見せられない』
言って、ざ、と飛び上がった。一陣の風が舞い上がる。
俺の脚力ならば追えた。
しかし、そうしようとは思えなかった。
コウはしばらく彼女が消えた先を見つめていた。
振り向かないままで、言う。
「ありがとう、スウォル。俺、きっと、一人では怖くて何も言えなかったよ」
そんなことはない。
誰よりも勁い勇気を見せた。
「くっそ、情けない。こんなに泣くなんて」
泣きたいのは彼女の方だろうに。
コウは乱暴に目元を拭った。
残された子供について冒険者ギルドに相談したところ、なんと、商人のワレリーが使用人として引き取ると名乗り出た。他にも、市井の主婦や宿の人間が子供を欲しがっているところがいないか聞いて回ろうかとコウに声を掛けた。皆、普段からコウと親交がある者たちだ。
口々にコウが魔獣を追い払ったことの称賛と礼を言ったが、当の本人が落ち込んでいる風なのを見て口を噤んだ。その代わり、いつもの通り世話を焼いた。
「俺、この町を出ることになっても何度か戻って来て、その都度様子を見に行くことにする」
「そうか」
「あの子には、色んなことを学んでほしい。それでさ、自分がしたいと思う仕事に就いてほしいな。出来るだけ多くの可能性を渡してやりたい」
彼女にはなかったものだ。彼女があの子にあげたかっただろうものだ。
「この町を出る、か。コウは郷里に帰りたいのか?」
「帰る?」
俺の言葉にコウが面食らった表情をする。
「そうだ。なんでそのことを考えなかったんだろう。俺、帰れるのかな。帰る方法を探してみようかな」
そう言って、そわそわし出した。
「俺が連れて行ってやろうか?」
「無理だよ」
その声は確信に満ちていた。
「どうして?」
「うん、簡単じゃないんだ。でも、俺は長い時間がかかっても、帰る方法を見つけてみようかな」
「協力する」
「でも、スウォルはやることがあるんじゃないの?」
「コウがいたら、面白いことに出会えそうだからな」
「あのさ、スウォルはどうして旅をしているの?」
話すにはまだ勇気がなかった。
勇気。
自分にそれがあるかどうか、考えてみたことなどなかった。
コウは俺がドラゴンだとしても、無暗に攻撃しようとせず、懇願すると言った。意思疎通が出来ると言った。
理性が残っているのだと言った。
その通り、人から魔獣に変じた者にも対話を求めた。
理性はあっても、ないように扱えば、そうする者が多ければ、畢竟、理性を失う。失わさせるのだ。そうして人は言うのだ。ほらみろ、言った通りだろうと。事象を自分たちの見たいように歪め、自分たちの偏見によって事を変容させてから、元からそうだったのだという。自分たちのしたことを棚に上げて、責任は相手に押し付ける。
そうでない者もいるということは、一筋の希望だった。
俺にとっても、あいつにとっても。