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Love you  作者: 木村テニス
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恋に盲目

「例えばさ」

 

 と話をふる彼女は、さも私、今から良いこと言いますよ。と言わんばかりの笑顔を見せる。放課後の教室、夕日を背にする彼女の姿に、頬に熱をもつのを感じた。


「昇る太陽と沈む太陽では、どちらが芸術的価値があると思う?」


 そう聞いてきた。またか。とため息を一つした後に、彼女の満足するであろう答えを考える。開かれた窓からは、夏が消えた風が心地よく。頬の火照りが落ち着いていく 。


「沈む太陽。散り際の美学なんて言葉もあるし。桜とかも散るからこそ美しいっていうし」


 彼女は大きな目を上に向けると、何か考えるような顔をした後、口元を子憎たらしく上げ。


「うんうん。悪くない答えだね」


 と言った。まるでテストで満点を取った子供を見る表情に変わる。教室を照らす橙色の光は、どこもでも彼女を引き立たせる役割でしかないように感じた。

 


 あの時の夕陽と天井に設えてある暖色の照明が重なり、ふいにあの頃を思い出していた。欺瞞(ぎまん)辛酸(しんさん)で固まった高校時代。


 恋は盲目、痘痕(あばた)(えくぼ)、惚れた腫れたは当座の内。


 彼女を見た時、これらの言葉が浮かび、同時に何を見惚れていると呆れ返った日を思い出した。


 確か今日と同じで、少しだけ肌寒いが心地良い春風が、心内のくすぶりを吹き飛ばすような、そんな日。


 心の中で何かが剥離していく感覚に首を振りながら、前方の彼女を眺める。


 純白のドレスを纏い、微笑みを周囲に振りまく彼女は、これから幸せになります。を文字通り再現しており、彼女の友人達が、綺麗だ、お幸せに、なんて言う紋切り型の文言で場を盛り上げている。


 照れるように微笑む彼女はやはり美しく、周囲の盛り上がりが華のように広がっていく。


 彼女の隣に立つ母親が、娘の晴れ姿に涙を流しながら優しく抱擁する。それを冗談めかしながらも、やがて真摯に対応する彼女。


 皆思い思いの時間を過ごし、式までの時間を笑顔で過ごしている。


 一団を通り抜け喫煙室に向かう。途中にあった姿見を見て思わず笑ってしまう、孫にも衣装がいいところだ。堅苦しい自己陶酔などやめて、彼女との出会いを思い出していく。




 高校生活一日目で彼女に出会った。


 そこここに舞う桜の花びらが、過剰に出会いを演出していたのが今にして思えば鼻につく。


 大体にして何故、桜、出会い、恋。という流れなのか、古今東西の名作には桜が肝とでもいうのだろうか? 春まで咲かない桜より、春を誘う梅の方が偉いと思うのだが。どうにも皆、桜の花びらが落ちる秒速を気にしがちだ。


 そんな思想を全て覆した彼女。


 腰まである髪がふわりと風にのり、それを細い指で押さえる姿に目が離せなくなった。一目惚れなどバカだと思っていた身に落ちた雷。


 彼女と同じクラスというのを知り、日常に色が加えられたことがしっかりと記憶にある。


「ねえ?」


 いくつかの月日を過ごしたあと、そう話しかけられた時は心臓がうるさく、どうにも舞い上がっていると感じたのも、今では微笑ましい記憶だ。


 だが、次の言葉でその気持ちは萎え、眉間に皺が寄ったのは煩わしい記憶だ。


「あなたのお父さんって、梶井真司(かじいしんじ)って本当?」


 どう答えていいのかも分からず、吃りながら、そうだよ。と返事をした。


「本当! 凄い、本当なんだ! 凄く素敵ね」


 嫌な名前を聞いたあとだが、それでも彼女の笑顔はとても魅力的だった。


 父である梶井真司は著名な小説家だ。大御所と呼ばれる父は多大な影響を多くの作家達に与えたと賞賛され、最近出版した小説では何々賞なるものを受賞、その創作意欲は尽きることのない泉と言われ、様々な媒体で活躍している。


 梶井真司は現代文学の巨匠の一人。だが小説以外では人としてどうかと思っている。血を分けた子供が言うのだから、そうなのだ。


 物心ついた時から父親との二人暮らしだった。母親の顔は知らない。早くに離婚したそうだ。そういった事情には興味も無い。何故なら子供の時から父にそう教えられたから。


「君の母親はいるにはいるが、死んだと思って過ごしなさい。あれはどうにも私と君には汚点でしかない」


 初めのうちは意味が理解できず、首を傾げるだけだったが、父の言葉を理解し始めた時には、そういうものなんだと思うようになった。


 では汚点との間にできた子供は何なのか? そう思うのは必然だけれども、その問いを聞くことは無かった。もしも同じように汚点扱いされたら、きっと津波のような何かが襲いかかってくる。子供ながらにそう予想していた。だから聞けなかった。今となってはそのことすらどうでもいい。


 実の子供にそう思わせる事ができるのが、父親という衣を纏った梶井真司という存在だ。


「もし良かったらだけど、今日の放課後ご飯に行かない? 先生のこと色々聞かせて欲しいんだけど」


 遠慮気味に言う彼女がいじらしく見え、何だかずるいなと妙な敵対心を抱いたことに、自分でも驚く。


「え、あ、うん。まあ、別に、いいけど、でも」


 そんな返事とも言えない返事を返し、放課後にファミレスへと向かった。人と向かい合って食事をするのはいつぶりだったか? 家では父と食事をしたのは数えるほどしか記憶に無い、というより話さない。というより会わない。父は子供よりも仕事を優先する生き物であり、自室に籠り、ほとんど出てこない。一人孤独と向き合った時間が長いせいか、どうにも人とうまく付き合えず、気の抜けたコーラの様な生活を送っていた。


 おそらく彼女は父のことを聞きたいのだろうが、子供という一番に近い身内が一番何の興味も無いので、彼女の期待には応えることができないだろう。


「梶井先生ってどんなお方なの?」


 予想通りに彼女は父のことを聞いてきた。どう答えようか迷う。答えになっていない抽象的な返事をする。それでも彼女は、


「そうなんだ。素敵ね」


 と目を輝かせながら、小動物のような笑顔を向けてくる。

 彼女の振る舞い一つが体温を上昇させ、頬を染めるには十分だった。残念なのはその笑顔が、目の前ではなく、その先にいる父に向いていること。


「また、話そうね」


 と手を振る彼女と別れて家に帰る、帰り道に何年か振りのスキップをした。


「今度家に行っていい?」


 夏の終わり。一緒に下校している途中で彼女がそう切り出してきた。いかにも意を決して。といった具合に。


 戸惑いながら何故? と聞くと。友達だからという答えが返ってきた。


 友達という言葉がうまく飲み込めず困っていると、人差し指を上に向け、友達というのはいつの間にかなってるものなんだぜ。と子憎たらしくも愛嬌がある笑顔で告げてきた。友達認定されたのは嬉しいが、どうせ父親目当てでしょ? という態度が出ていたのか、どこか怯えながらもそれでも引かない彼女の意思を感じ、首を縦に振った。


「本当? 嬉しい。本当に嬉しい! 今週の日曜日に行くね」


 可愛らしく手を動かしながら喜びを表現する彼女。


 暑さの名残りが、彼女の細く白い首筋にひとしずくの汗をはりつかせていた。急激に渇きを自覚し。その汗で潤したいと心根に潜む性が喉を鳴らした。だがその考えは一瞬で捨て、何を気持ち悪い、と嘲笑った。


 無味無臭の日々を過ごし、何事にも無関心だったのに、初めて興味を抱いたのが女性ということに、少なからず動揺し、首を振りながら歩みを早める。


「待ってよ」


 という彼女の声は随分遠くからだった。


「素敵なお家ね!」


 約束通りに彼女が訪ねてきた。白を基調とした服装が、清潔感を際立たせていた。高揚を抑えながら家の中を案内する。


 彼女の手には駅前で買った有名店のケーキ箱が握られている。胸がチクリと痛んだ。どうせそのケーキは父に持ってきたのだろう。そう思ったからだ。そんな考えを友達に抱いた心の卑しさにも、胸が痛んだ。


「何にも無いんだね」


 自室に入った彼女はそう呟いた。


「買ってきたやつ食べよっか」


 向けられた笑顔にもう一度胸が痛んだ。


 その日はとりとめもない会話をした後、彼女は帰って行った。てっきり父に会わせてくれと、言われるものだと思っていたので、少し意外だった。


「このケーキ食べてもいいかな?」


 夜、リビングでテレビを見ていた時に父に話しかけられた。実に数週間ぶりの会話だ。


 胸の前でケーキ箱を掲げる父、彼女が買ってきたものだ。二人で食べるには量が多く、残ったケーキ達。冷蔵庫からめざとく見つけた父に顔を向ける。


 嫌だった。初めて友達からのプレゼント、と言っていいのかは分からないが。とにかく初めてのプレゼントだからだ。それでも、「どうぞ」と、そっけなく答えた。


 あのケーキが父に食べられることは、ファンである彼女にとっては嬉しいはず。そう思ったからだ。


「友達が家に来ていたのかな?」


 ショートケーキを口に運びながらそう聞かれた。もう一度そっけなく返事を返すと、甘いもの好きの父は少しだけ笑った。


「友人を作るのは素晴らしいね」


 何故そんな父親らしいことを今更言うのか理解に苦しんだ。その笑顔は子供の成長への喜びなのか、好物のケーキによるものなのかも分からない。胸の辺りが急に苦しくなった。これも父への不信感からなのか、苦手な甘いケーキを食べ過ぎた胸焼けのせいなのか、分からなかった。


 それから毎週末、彼女が家に来るようになった。男女問わず人気者の彼女は他の友達とは遊ばずに、家に来る。彼女の身綺麗な笑顔には何度直面しても馴れず、その度に胸が痛くなるほどの昂りを感じた。


 特に何をするでもなく、二人でケーキを食べながら過ごす。余ったケーキは父が食べるという決まり事が、我が家の暗黙のルールになり始めていた。


 その日もいつも通りの日曜日のはずだったが、唐突に彼女の発した言葉にかなり動揺してしまった。


「眠くなってきちゃった、ベッド借りていい?」


 こちらの返事を待たずに、可愛らしい足取りで向かい、そのまま、ぽふっという擬音が似合うさまで、ベッドに横になる彼女。


 いつも寝ている場所に彼女が寝ている、それだけでも許容範囲を超えているのに薄く笑う彼女は、さらに思考の迷宮へと誘う言葉を飛ばしてきた。


「ねえ、一緒にお昼寝しない?」


 この時は耳がおかしくなったかと思った。

 羽毛のように手招きをする彼女、それは絶対に逆らえない指令となり、法を遵守する軍人のように彼女のいるベッドに足を進めた。


 シングルベッドなので、高校生二人が寝るにはやはり、というか確実に狭い。二の腕が密着し、今までとは比べ物にならないほど、鼓動がうるさい。


 隣の彼女はベッドに潜り込んで数秒後、童話に登場するお姫様のような寝息を立て始めた。体は硬直したまま首だけを動かし彼女を見る。


 呼吸のたびに控えめな胸が上下に動く、まつ毛が長い。薄い唇が少し開いている。今日だけで彼女の色々な面が発見できた。


 そして事件が起きた。


 う〜ん。と、逆側ではなくこちら側に寝返りをうつと、さらに顔が近づく。もう眠るどころではない。腕に彼女の手が絡んできた。抱き枕の変わりとでも思っているのか。さらに近づいてきたので咄嗟に体を向けると抱きかかえる様な態勢になる。彼女の匂いが鼻孔をくすぐる。清潔さの中にもどこか蠱惑(こわく)的、いやそんな時代錯誤の言葉ではこの魅力が伝わらない、清らかな中にも小悪魔的なその匂いを肺いっぱいにため込む。


 顔を覗き込む、演技では無く本当に眠っている彼女。


 その唇を奪いたい。


 なんて、一昔前の歌詞のようなフレーズが浮かび、ダサいなと思った。思ったあとに、どうにも手遅れだということを自覚しながら、抑えのきかない気持ちに素直に服従した。



「あ、起きた? 夜になっちゃったね」


 彼女の寝顔を見つめている途中で寝てしまい。すっかり日が暮れていた。

 

 かなりの後ろめたさを感じながら返事をする。胸が痛い。


 彼女はベッドに腰掛けて小説を読んでいる。何の小説かは察するまでもない。畑違いの嫉妬が一瞬だけ表に出る。


 帰り際に玄関に向かう途中でアクシデントが、彼女に言わせるなら幸運が訪れた。


「お友達ですか?」


 いつかはこうなると思っていた。実際に直面すると、意地汚い感情が胸の内に広がっていく。現に彼女の顔は今までで一番輝いている。


「もう、遅いから送って行きましょうか?」


 父は車の鍵を持ち外に出て行く。夢見心地の彼女を揺すり、現実へと引き戻す。彼女は口早に興奮の言葉を連ねていき、それを適当に流していると家の外からエンジン音が聞こえ、どうにも従うしかない状況にため息がでた。


 車内は彼女と父の尽きない話で盛り上がっていた。父の小説は全て読んでいると彼女は興奮気味に伝え、父は感謝を彼女に伝える。


 あの小説のあそこがどうという話を、目を爛々とさせて聞く彼女。同じ空間にいる身としは居心地が悪く。彼女を独占する父に憤りを感じ、それなのに何も言い出せないことに歯がゆさを感じた。



 それから少しずつ状況は変化していく。


 彼女はいつものように週末に家に来る。これは変わらなかったけれど、三人で話す時間が増えた。最初は遠慮がちにしていた父だが、彼女の強引さに根負けし話に加わるようになり、自室ではなくリビングで過ごすようになっていく。やりきれない気持ちでその時間を過ごす。


 彼女との貴重な時間を父に奪われたが、彼女自身がそれを望んでいるから口の出しようもない。


 父の影響で、彼女は日常会話の中に詩的な表現や文学的な言葉を吐き出すようになり、その言い回しが非常に癪に触った。お腹の底が熱くなるのを感じながら、それに合わせるように会話をした。


 高校生活を二年と半年を過ごした。紅葉が街に色を加え、鼻から吸う空気が少しだけ冷えていく。彼女は一度も欠かすことなく毎週末に我が家を訪れ、もはや儀式のようになっている時間がやってくる。


 リビングのソファーに座る父、対面には彼女が足を崩して床に座る。その二人から少し離れた場所にあるテーブルに、肘を突きながら座る。三人の前にはケーキと紅茶が用意されており、今では色とりどりの甘味達は儀式に捧げる供物のようなものだ。


 では供物を、美味しいね。この新作は――。と言いながら頬張る二人は、どちらが人柱でどちらが儀式崇拝の信者なのか。それとも最近では会話に混ざることを放棄した弾かれ者が供物自身なのか。その答えを考えるには気持ちが足りないことを自覚しながら、毎週末を過ごした。


 この二年と半年で彼女は綺麗になっていった。どこかあどけなさは残しつつも、見た目からはそれを感じることができない。話し方やふとした仕草で彼女がまだ十代の少女だというのが分かるが、それが無いとすっかりその色気に当てられ判断を誤ってしまう。


 以前に綺麗になったねと伝えた所。顔を赤くし純情な反応をしたことを思い出す。


 人はね、恋をすると変わるんだぜ。照れた後に人差し指を天井に向けた姿が、友達認定した時とあまりにも似ていたので、吹き出してしまい。顔を赤くして責めてくる姿勢が変わっていないなと、安堵した。



 次の日に、見てはいけないものを見てしまった。



 学校から家に帰ると彼女の靴があった。

 家に訪れる学校指定の革靴なんて彼女しか思い当たらない。会いに来たにしては妙な感覚を覚えた。会いに来るくらいなら一緒に下校すればいいのに。真っ直ぐ家に帰ってきたのに、何故彼女が既に家にいるのか。玄関には父の靴もある。二人はおそらく同じ空間にいる。そう思うと急激に不安と不快感が全身を這いだす。状況の整理のため思考の海に溺れていると、


「あっ」


 という彼女の声。

 廊下からおぼつかない足取りで歩いて来た彼女、頬は赤く、少しだけ髪が乱れていた。


 彼女の姿にどう声をかけようか悩んでいると、父も現れた。


「お帰りなさい」


 と声を揃える二人。話を聞くと彼女は学校に向かう途中に気分を悪くし、休もうと思ったらしい。だが家に帰っても学校に行け。と母親に言われるのは目に見えていたので、帰らないことを決意。制服のまま過ごすのは目立つ為、静かに休める場所を求めて、父の居る我が家に来たとのこと。


 父もそれを受け入れ、今まで看病していたと説明された。具合が回復したので、今から父に車で送ってもらう所。と二人はかわるがわる説明しだした。


 そうなんだ。と返事をし二人を見送った。嘘だというのはすぐに分かった。


 心が現実から離れ、それからの数ヶ月を過ごした。あの日の二人の表情が細胞一つ一つに癒着しているようで、離れてくれない。三人でケーキを食べる儀式はあの日以来一度も無い。二人が誘ってくるがどうしてもあの空間には踏み込めずに距離を置いた。


 あの日から時間は(まばたき)を一つする度に一日が流れ、気付けば卒業間近に差し掛かっていた。おそらくあの出来事を境に体内時計が狂ったのだろう。


 あと数回の登校を終え家に帰る。吐く息は白く。足元からしんしんと寒さが伝わってくる。天気は雨だが、時折雪に変わり、傘を持つ手が霜焼けになりそうな寒さだった。


 足が止まった。玄関間先に人がいる。傘を上げ、視界を広げて誰かを確認する。いや、確認するまでも無い。何度も見てきた綺麗な足は見間違えるはずがない。


 彼女が立っていた。


 雨に濡れ、美しかった長い黒髪が自暴を演出していた。彼女の元に行き調子外れの声をかけるが、彼女は何も返事をしなかった。


 面と向かうのは久々で、緊張のせいか声が上擦ったのは彼女の雰囲気があまりに暗く、鬱々としていたから。


 とりあえずと言葉をかけ、家の中に招く。物言わぬ人形のように付き従う彼女。何か拭くものをと思い、靴を脱ぐ。


「あかちゃ――」

 

 蚊の鳴くような声が聞こえた。最後の方は何を言っているのか、聞き取れなかった。


 振り返り、彼女を見る。しわくちゃな顔と目が合う。堰を切ったように泣き出し、嗚咽混じりに彼女が叫んだ。


「赤ちゃんできちゃった、どうしよう」


 次には大声で泣き始めた。その姿は彼女の美しさを歪めていた。


 彼女のお腹に新たな生命が宿された、相手はおそらく、視線を切り靴を探すがどうやら今はいないようだ。あえていない時を見計らって来たようにも思う。まだうまく考えられないこちらを他所に、彼女は、どうしよう。どうしよう。と繰り返している。


 その問いには何も答えられない。何を言っていいのかも分からない。そもそも何も言う資格も無い。


 言葉がないことに不安を感じたのか、こちらに背を向け、もう一段高い泣声をだし始めた。その行動が今この場にある全てのものを拒絶している。


 どれくらい立ち尽くしていたのかは分からない。彼女の衣類が少しだけ乾いていたから、かなりの時間お互い立っていたと思う。


 その時間は心の暗い箇所が顔を覗かせるには十分だった。


 背を向ける彼女の首には、髪からしずくを流していた。ふと夏の終わりに感じた既視感が襲う。


 そんなに悲しいのなら、そんなに辛いのなら。そんなに苦しいのなら、いっそう楽に。それが身の上を自覚しつつも、彼女に恋をした者の務めだと感じた。


 首を伝うしずくをなめようとは思わない、それよりも彼女を楽にしてあげたい。


 両手が自分の意思にしたがって、動き出す。掌が自然に緩くひろがる。ゆっくりと動く。静寂な心音に反比例して急げ急げと脳内で声がこだまする。背を向ける彼女は気付いていない。あと数センチで彼女の魂を解放できる、と同時に誰にも渡さない。という支配欲がどんどん肥大していく。


 ゆっくりと両手が彼女の首に近づく、呼吸が深くなっていく。その白く濡れた首は誰の者でも無い。だが、次の瞬間からこの首は感謝を示と思う。何故なら彼女のことを誰よりも愛しているのは――その言葉を自身に言い聞かせた時、何故こんなにも彼女を求めるのか。そう自問自答した。恐らくだが答えは出ない。唯一ある可能性としては、足りていなかった母性を彼女に感じ、知らず知らずのうちに求めていたのだろうか。という可能性。だがどうして今更に母性を求めたのか。分からない、分からないが。今は目の前の彼女に答えを求めたい。そう決意しゆっくりと、確かめるように手を――


「軽蔑してる?」


 首まで僅かな距離で手が止まった。嗚咽混じりの弱々しい声には、別方向に向かう怒りが見える。


「そうだよね。最低だよね。わたし。全部気付いてて利用したんだもん」


 その声は先程までの弱々しさはどこにも無い。精神が安定していないのが直ぐに分かる。心情を吐露するには皮肉の成分がどうにも強い。


「何でキスしたの?」


 背中越しの声に脳天を殴られた。


「私のこと好きだったの? でもそれって変だよ。先生に、真司さんに近づくために我慢してたけど、やっぱり変。ねえ? 私のこと好きだったりするの?」


 振り返った彼女の顔は、どうにも魅力的だった。




 吐き出す副流煙が過去の映像と一緒に消えていく。タバコをもみ消した後は完全に現実に戻る。よくよく思い返せば滑稽な話だなと自然と一笑した。


 喫煙室を抜け出しトイレに向かう。個室に入った後に顔を顰める。


 今日は二日目というのもあり、腹部が痛く、体も重い。サニタリーボックスに捨てる前に一瞬だけ見つめると、自分が女というのをここぞとばかりに知らされる。


 高校時代を思い出したのは、この体調と式場の雰囲気に当てられたからなのか、なんて、柄にもなくおセンチな気分になりながらトイレの化粧台に佇む。


 彼女に否定された後、直ぐに家を出た。必要最低限の荷物を詰めたバッグは、かなり心許なかったが人間生きようと思えばどうにでもなるものだ。


 あの日以来一度も家には帰っていないし、二人にも会っていない。数年が過ぎたが、彼女がどういう経緯で結婚まで至ったのかは知らないし、興味も無い。どうやって私を見つけ出したのかと、あの時のお腹の子がどうなったのかは多少興味はあるが。それよりも私のちっぽけな意地が彼女に面と向かう足を止めている。


 この意地が彼女に変と言われた意地なのか、それとも後ろめたさなのかは私自身分からない。


 鏡に映る自分の顔を見たあと、グロスを引き直す手が止まる。


 あの時の彼女の問いに答えよう。そう思った。


 会場を抜け出し、パーティードレスのまま外を歩く。今頃は彼女はバージンロードを歩いているのだろうか。


 おそらくもう、二度と会うことは無い。


 合ってしまったら、私の心が今度は確実に剥がれ、次の瞬間には別の私、いや。もうそれは私では無い何かになっていそうだから。


 私はただただ、それだけが怖かった。

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