その一言で 私は今日も頑張れる
「もう、これ以上は……」
「『無理』と言う言葉はありません」
「でも……」
「『でも・だって』も受け付けません」
上司からそう言われ、差し出された書類を無言で受け取る。
とは言え、入社以来ずっと直属の部下として、付き合いはそこそこ長い。あからさまな不満顔は出来ないが、かわりに可愛い系の変顔で無駄な抵抗をしてみる。
上司の眉がピクリと動く。あ、まずい。
書類を手に大人しく自分のデスクに戻る。すでに終電も過ぎているにも関わらず、また新しい仕事をねじ込まれてしまった。これで3本目だ。
(鬼だ。)
心の中で呟く。
声に出さないだけの自制心がまだ残っていたらしい。変顔するあたり自分ではもう既に限界を超えていると思っていたが、まだ余力があるらしい……悲しいかなこれじゃあ、私も上司同様「仕事の鬼」へまっしぐらだ。
すでに周りから「次期・仕事の鬼」ポストを押し付けられ「小鬼」だなんて、センスのへったくれもない嫌な通名がついている。
希望の企画へのメンバー入り。念願叶って夢中で働いたおかげか企画はすこぶる順調だった。しかし、それがいけなかったのか、企画を抱えているにも関わらず、別件の仕事が後を絶たず舞い込んでくる。
仕事が出来ると見込まれているのは素直に嬉しいけれど、ここ3週間は深夜に及ぶ残業に加え休日出勤、始発で帰宅し仮眠をとって通常出勤という日も何回かあった。他のメンバーも手伝ってくれるが、私以外家庭持ちなので上司曰く今日は早く帰って家族サービスしろとの事。
私は? という言葉が出かかったが、上司の視線に聞くまでもなかった。
「……はぁ」
ほんの少しの休憩時間。ため息が薄暗い給湯室に響く。
パソコンで疲れた目を少しでも休ませたいと思うけれど、今目をつぶると危険だ。立ったままで眠れる自信がある。社会人になって自慢できない特技ばかり身に付いたように思う。
でも、今の私には無敵のアイテムがあるのだ。
タラララ・タッタラ〜♪と心の中で効果音を流しながら、スマホを掲げる。深夜のテンションをなめてはいけない。
一通のメールを探り当てる。
そこには「大丈夫」の3文字。それを見た瞬間、口角が上がる。
(あ、今日はまだ頑張れるみたい)
毎日、休憩時間毎に必ず見ているのに未だ効果は絶大だ。このニヤニヤはやる気のバロメーターに比例している。
「只今、急上昇中!」
我ながら実に「ちょろい」と思いつつも、メールの送り主の名前を見ながらふにゃけた笑みはしばらく止みそうにない。あんなにも、ささくれてた心が今はとても軽やかだ。
私には、とても憧れている人がいる。なんと言うか、こういう素直に「好き」と言えないところが、未だ独身の理由なのかもしれない。
趣味を通じてひょんなことから、知り合ったその人は、優しくて、頭も良くて、話しも面白くて、頼りがいもあって、良いところあげてたらキリがないけれど、そんな憧れの人に企画のメンバーに選ばれた事を報告したら、一緒に喜んで応援までしてくれた。
ただ、これからとても忙しくなって、連絡しづらくなるかもしれない。あんまり遅いと、迷惑だろうし……。だから、せめてとほんの少しわがままを言って、送ってもらった励ましの言葉。
私はその言葉を、何度も噛み締めている。
でも、何でかな? 「頑張れ」じゃなくて、あなたには「大丈夫」って言って貰いたかったの。
あなたは知らないでしょ? その一言が、私にとってどれくらいの影響力があるか。恥ずかしいから、知らなくてもいいよ。って、一度は強がってみる。
けど、本当はあなたに伝えたいんだよ。
あなたの「大丈夫」で、こんなにも私は元気になれる。
まだまだ頑張れる。
「声が聞きたいな……」
膨らんだ次のわがままは、でも、スマホの時刻を見て急速にしぼむ。開いたアドレスをそっと閉じる。
あぶない。変なテンションで迷惑かけるところだった。
まったく、世話の焼ける……えーと、あなたにとって私はどこの立ち位置だろう。と、友達? ま、いっか。とりあえず、世話の焼ける「私」でごめんなさい。
休憩時間がもう少しで終わる。
スマホをギュッと、高鳴る胸に押し付ける。
「大丈夫」
今はこれだけで充分。
……やっぱ嘘。
もうちょっとだけ、その優しさに甘えてもいい?
起きてるかな? 迷惑だよね、もう寝てるかも。明日早いのかな。不安と心配はつきない。
でも。
私は閉じたはずのアドレスを、再び開いた。
コール音が響く。