青春スクエア ~弘瀬來の片思い~ 小学生編1
序章 心に積もっていく想い
蝉の鳴き声が幾重にもなって響き渡る昼間。
世間は今――夏休みに入ったばかり。空から降り注ぐ太陽の日差しは強く、毎晩熱帯夜が続いている現状。
昼は猛暑でクーラーなしでは熱中症になる人が多発している。
――そんな中、クーラーも付けずに勉強をしている二人の少年の姿があった。
「あちぃ~…。なぁ李哉~ど~してお前んちで勉強出来ねぇんだよ~。くそ熱ちぃ~」
扇風機の風を浴びながら呟く少年が机で勉強をしている少年に尋ねる。
机で勉強している李哉と呼ばれた少年――仲原李哉は片手にうちわを持ち、そのうちわで扇ぎながら答える。
「母さんがダメだって言ってたから無理だよ。だって來、クーラー付けたら勉強しないじゃないか」
扇風機の風を浴びている少年――弘瀬來は李哉の方を見て言い返す。
「そんなことないだろ! ちゃんと勉強して――」
來の言葉を阻むようにして來の何も書かれていないノートを李哉は見せ付ける。
「――――」
來は口を閉じ、すっかり黙り込んでしまう。
そんな姿を見た李哉は深い溜息を付き、手にしていたえんぴつを置いて來のいる扇風機の前まで来て言い出す。
「あのさぁ、來…今日は夏休みの宿題をする日だよ? どうして來はさ、いつもいつもいっつも白紙で提出するの? 毎年毎年一緒に勉強してるのにさ! 毎年夏休みの終わり頃に勉強してたから白紙なんだろうなぁって思ったから今年は夏休みの始めにやってるっていうのに――どうしてまだ白紙なわけ!?」
來の耳元で李哉が怒鳴ると來は李哉と距離をとって言い返す。
「うるさいな! こんなくそ熱いのに勉強なんかやってられるか!」
「今の内に勉強してたら後が楽だから言ってるんだよ!」
「俺は小学校に入って一度も宿題なんてものをやってないんだ! だから俺は最後までそのポリシーを貫くって決めたんだ!」
「その考えがおかしいよ! 來…今年は小学校最後の年なんだからさ、せめて最後だけは出そうよ…」
「断る!」
「李哉君の言う通りよー! ちゃんと勉強なさーい!」
一階から來の母親の声が聞こえ、來は渋々えんぴつを握って勉強をしようとする。
しかし、どこをどうやっていいのかがわからず、來はそのまま動きを止めた。
その姿を見た李哉は來の所に来てさりげなく勉強を教えてくれようとする。
「いい、來。ここはね――」
李哉が來の後ろから覆い被さるようにして勉強を教え始める。
ドキン――
來の心臓が高鳴る。
身体が触れるような距離。
(か……顔が…近っ)
「來? ちゃんと聞いてる?」
「え、あっ…」
「もう一回教えるからちゃんと聞いててよ?」
「あ、ああ…」
こうなってしまってはもう勉強所ではない。心臓がバクバクと耳元で高鳴っているように聞こえ、李哉の声さえも聞こえなくなってくる。
(俺――なんでこんなにこいつの事が好きなんだろうか)
この二人は生まれた病院も同じで家も隣同士だったので幼い頃から一緒に過ごし、まるで兄弟のように同じ時を過ごした幼馴染みだ。
なので一緒に夏休みの勉強をする事は毎年恒例の事だった。
ちなみに、現在來の家のクーラーが壊れているため、扇風機とうちわで暑さを凌いでいるのだ。
今年は小学校最後の年と言う事で、李哉は何かと來に力を入れていた。
別にレベルの高い中学校に一緒に行くわけではなく、ただ來にはちゃんとして欲しいから――そんな李哉の思いは來に伝わっていた。
だが、それでも來は夏休みの宿題を白紙で出す気だった。
「…來、今勉強頑張ったら後は遊び放題だよ? それでもしないの?」
「しない」
「それならそれでいいけどさ…。さっき來のお母さんが呟いてたよ。〝宿題しなかったらどこにも連れて行かない〟って」
「マジでか」
「マジで」
「マジかよ~」
「大マジだよ。目が完全に本気だったから。それに勉強頑張ったらかき氷用意してるって」
「よっしゃ~! 勉強頑張るぞぉ!」
李哉は小さな声で「ポリシー弱っ」と呟いたが、今の來には聞こえていない様子だった。
そんな來の姿を見て李哉は小さく笑い、來に勉強を教える事にした。
基本的に來はかなり飲み込みが早いため、夏休みの宿題を終わらせる事は簡単だった。
「なぁ、李哉……」
「ん? 何?」
「……ちょっと離れてくれね? 熱いからさ……」
「あ、ごめん。それでさっきからあんまり集中してなかったの?」
「ま、まぁな…」
「じゃあ今教えたように解いていけば出来るから、頑張って」
そう言って李哉は自分の宿題に戻って行った。
來は李哉が勉強する後ろ姿を見つめながら呟く。
「なぁ、李哉」
「どうしたの? またどこかわからない?」
來の方を振り向かずに李哉は聞き、來はぼんやりと呟く。
「なんかさ、この六年……あっという間だったな」
その言葉を聞いて李哉はようやく來の方を向く。
「どうしたの、急に…」
「この六年間、お前との思い出がいっぱいあるな~って思って……」
「――何言ってるんだよ。これからだってもっといっぱい思い出が出来るじゃないか」
「じゃあお前は死ぬまで俺と一緒にいてくれんのか?」
「え」
「それは無理だろ。俺ら大人になったら好きな奴とか出来て結婚とかするんだからよ。李哉だってそうだろ?」
「んー、未来の事はわからないけど…僕はずっと來といたいよ」
「え――」
「だって來、僕がいないと何も出来ないじゃないか。だから、僕がずっと來の傍にいてサポートしてあげるよ」
そんな事を言いながら李哉は來に優しい笑みを向けてくる。
(そんなの――反則だろ)
來は赤くなっている顔を李哉に見られたくなく、自分のノートに視線を落とす。
――李哉が発する言葉に少し期待してしまう。
李哉本人には深い意味はないのだろうが、來にとっては大アリだ。
そんな事を言われたら、死ぬまで所か死んだ後も、生まれ変わってもずっと一緒にいたいと思ってしまう。
しかし――そんな妄想は現実にはならないと心のどこかでわかっていた。
(どうせみんな、子供の頃の約束なんて――忘れるに決まってる)
一生傍にいれないのなら、せめて今だけでも――
「俺の傍にいてくれよ…」
「うん。ずっといるよ」
――お前のその言葉が、俺を突き動かすんだよ。バカ……――
それからしばらくして、來は夏休みの宿題を終わらせる事が出来た。
残るは、あと自由研究と天体観測のみだ。
「終わったー!」
「お疲れ様、來」
「へっへーん! 頑張っただろ! 俺は!」
「うん。よく頑張ったね。偉いよ」
「もっと褒めてくれ~」
「後は――これを学校にちゃんと持ってくるんだよ?」
「へーへー…」
來は気落ちしたように答え、扇風機の前に寝転がる。
李哉は來の終えた宿題に間違いと見落としがないか確認し、完全に終えているのを見て安心の笑みを顔に浮かべ、やり終えた宿題を整えて來のランドセルに入れた。
自分の分は持って来た鞄の中に戻して部屋の隅に置く。
その時、タイミングを見測っていた李哉の母親が二階の來の部屋にやってきた。
扉をノックされ、部屋の主ではなく、李哉が答えた。
「どうぞ」
「二人ともお疲れ様。熱かったでしょう? 來君の家、クーラー壊れてるみたいだからうちの家で涼みなさい。西瓜とかき氷もあるから」
「かき氷!」
かき氷と聞いて來がすごい勢いで飛び起き、すぐに机とは向かい側にある窓を開けて外へ飛び出した。
「あ、來!」
二人は青ざめる事もなく、ただ溜息を付いた。
その理由は、先程も説明したように來と李哉の家は隣同士で、來の部屋の向かい側には李哉の部屋があり、窓を開ければ簡単に李哉の部屋に入る事が出来るのだ。
「…ごめん母さん。僕も窓から戻るから靴、お願いして良い?」
「わかったわ。くれぐれもそこから落ちないでね」
李哉の母は溜息混じりにそう答え、李哉は「ありがとう」と呟いて夏休みの宿題を入れた鞄を持って窓から自分の部屋へと戻った。
來が李哉の部屋に入り、まず目にした物は最新のゲームソフトだった。
「おおっ!! 李哉の奴、持ってるんだったら早く言えよな! これすっげーやりたいのに!」
ゲームのパッケージを見つめていると李哉が部屋に入って来たので李哉に言う。
「なぁ李哉! いつの間にこのゲーム買ってたんだよ!? 俺がやりたがってたの知ってただろ?」
「うん。だから勉強頑張ったご褒美にこのゲームを一緒にやろうと思ってたんだ」
「…………」
李哉は、大抵いつも來のために何かをしてくれる。
李哉は絶対に來が何かをした時にご褒美を用意している。
そのご褒美はいつも來が欲しかった物や、気に入っていた物。
しかもかなり前に言っていた物までもちゃんと用意してくれる。
そんな李哉の優しさや自分のために用意してくれたのだと思うと嬉しさで胸が締め付けられる。
「あ、ありがとな……李哉」
來はまたも赤く火照った顔を見られたくなくて下を向きながら呟く。
「いいよ別に。來が喜んでくれるなら」
だから來はもっともっと李哉の事が好きになる。
「じゃあ、下に行こうか」
「そうだな」
來はゲームを置いて一階へと階段を降りて行く。
リビングの扉を開けると西瓜の甘い匂いが部屋に漂っており、そこにはすでに李哉の両親、來の両親と來の一つ年上の姉、弘瀬涙が西瓜を食べていた。
「あ~! 姉貴! 何勝手に西瓜食ってんだよ!?」
「アンタ、窓から李哉君の家に入ったでしょ。李哉君のお母さんから聞いたんだから。だからちゃーんとアンタの分はあたしが食べといたから」
「はぁ!?」
「はぁ?じゃなくて、アンタ行儀が悪いのよ」
「そうじゃなくて! どうして俺の分まで姉貴が食うんだよ!?」
「だって母さんが食べていいって言ったから」
「母さん!?」
思わず母の方を見ると、母は少し怒った様子で口を開いた。
「勉強を頑張った事は認めるし褒めるわよ。でも、李哉君のお母さんが呼んでくれた時とか、普段から普通に玄関から家に入りなさい。李哉君に個人的な話がある時は別だけど」
そう言って母は冷たい紅茶に口を付ける。
「……今度からそうします…。だから西瓜くれよぉ」
「無理。マジでアンタの分まで食べたから」
テーブルの上を見てみると確かに二人分の西瓜の皮が残っているだけだった。
「姉貴ぃ~」
恨みの篭もった声で唸り、來は声を荒げる。
「食いもんの恨みを思い知りやがれ! このくそ姉貴!! だいたいそんなに食ったら太るぞ!」
「ダイエットしてるから大丈夫です~。てかアンタ、いい加減成長したら? このガキが」
「うるせぇ!」
喧嘩を始めた來と涙を見て李哉が宥めるように來に言い出した。
「來、僕の分をあげるよ。だから今度から出入りには玄関を使おう。…ね?」
「李哉……いいのか?」
「うん。今そんなにいらないから飲み物とかき氷だけでいいよ」
「ありがとな。李哉」
「いいよ別に。西瓜、食べたかったんでしょ?」
李哉は優しく微笑んでそう言う。
「李哉――」
來は李哉への愛しさが溢れ出してきて李哉を抱き締めようと手を伸ばしたのだが、ねっとりと絡み付くような視線に気付き、その視線のする方を見てみると――
涙がこちらを見てニタニタと笑っており、ケータイをこちらに向けている姿があった。
「……何、してんだよ。姉貴」
「いや、そのまま抱き付いたら写メろうかな~って思って……」
「……なんで」
「そりゃ色々と研究で」
「なんの?」
「そんなの一つに決まって――ぷぷぷっ」
これ以上涙とは話さない方がいいと判断した來は李哉を抱き締めようとして伸ばしていた手を引いた。
一瞬寂しそうな表情をし、しかしすぐにいつも通りの振る舞いをする。
「姉貴はほっといて、西瓜食うぞ! 西瓜!」
來は嬉しそうに言い放って西瓜に被り付き、その姿を李哉が冷たいジュースを飲みながら眺めていた。
これが――この生活が、二人の日常だ。
涙と來が喧嘩をすれば李哉が仲裁し、仲直りをさせる。まぁ、涙が謝る事はほとんどないのだが――
來にとって李哉は、本当にもう一人の兄弟のような存在であり、兄弟以上の存在でもあった。
(出来ることならこんなくそ姉貴なんかよりも李哉が本当の兄弟の方が良かった。その方がもっと李哉といられるし――)
兄弟の方が幼馴染みよりも近い存在だからだ。
そんな事を考えながら來が西瓜を食べていると急にハンカチを差し出された。
來は不思議に思ってハンカチを差し出す人物を見る。
――まぁ、そんな事をする人物は一人しかいないのだが。
「手、拭きなよ。ベタベタだよ」
「サンキュー」
西瓜を全部食べ終えてハンカチを受け取る時、來の手が李哉の手に少し触れ、思わず來は李哉に背を向けてしまう。
絶対に李哉にはこんな赤い顔を見られたくない。そのため李哉にそんな態度を取ってしまった。
しかし――それを見た涙が床にのた打ち回っている姿を見て來は思わず怒鳴った。
「なんなんだよ! さっきからよ!」
「だってぇ……アンタってホント――」
その時だった。
涙の鼻の穴から赤いものがゆっくりと垂れてきた。
「ちょっ……涙! 鼻血、鼻血出てるわよ!」
涙は出てきた鼻血をすぐさま拭きながら呟く。
「少々來と李哉君で妄想を――」
「キモッ! お前――いつの間にそんな奴になってたんだよ!?」
「ふふふ……」
來は青ざめて涙から距離を取っており、李哉は苦笑いをしていたが、ただ明らかに涙と距離を取っていたのは確かだった。
「來君。李哉。かき氷が出来たわよー」
「はーい」
李哉は涙から逃げるようにしてかき氷を取りに台所へと去って行った。
來はもう呆れ果てて、言葉も出て来ない。
確かに最近、涙は部屋に篭もってパソコンをしていたり、夕食の時間になってもリビングに来ない事が多い。
一体いつの間に腐女子に堕ちていたのだろうか……。この間までは毎日アニメ三昧の生活をしていたというのに――
そんな事を考え、來は静かに涙に告げる。
「――頼むから姉貴、俺と李哉をネタにしないでくれ。マジキモイから」
「なんでよ!? 大体アンタ、李哉君の事――」
「來、かき氷持って来たよ」
涙の言葉を遮って李哉がかき氷を持ってやってきた。
李哉、ナイスタイミング!と心の中で來は叫んだが、李哉の持って来たかき氷の数を見て涙に聞く。
「あれ、二つしかねぇけど――姉貴は食わねぇの?」
「あたしはさっき食べたからもういい。そんなに毎回食べてたらお腹壊すし、頭痛くなるから」
「じゃあ來、一緒に食べよう」
「ああ」
二人はベランダ前の窓から外を見るようにしてかき氷を食べようとした。
來のかき氷は砂糖を満遍なく振り掛けた上に練乳まで大量に掛けた超甘いかき氷で、李哉のかき氷はそれとは対照的にごくごく普通のブルーハワイ味のかき氷だった。
白一色に染まったかき氷を李哉は少し呆れ顔で見つめたが、そんな事は気にせずに來はすぐにかき氷に食らい付いた。
「……いただきます」
李哉が自分のかき氷を食べ始めると同時に李哉の両親と來の両親が話し出した。
「それで――今年の夏はどこへ行こうか」
「あたし、海は絶対に行きたい!」
「はいはい、わかったわよ涙。來と李哉君はどこに行きたい?」
「うーん。今年は色んな思い出を作りたいから…今年は全部行かない? 今まで行ってきた所をさ」
「全部か……」
「今年は來が頑張ったからそうしたいけど……財布と相談したら半分ぐらいね」
「なんだよ!その言い方!」
「そうなるとどこに行くか…」
「海は絶対条件! だっせー海パンで騒いで群れてる男子達、もしくは男達を見たい!!」
「はいはい」
「キャンプはどう?」
「キャンプか…いいな」
「はいはーい! 俺、夏祭り行きたい!」
「あともう二つか三つだな…」
「あ! 伯父さんの実家なんてどう? 伯父さんの実家だったら海と山は近いから海水浴とキャンプはそんなにお金がかからないよ」
そう切り出したのは李哉だった。
李哉の伯父の仲原秀の実家は漁師をやっており、家から出るとすぐ近くに海があり、もちろん山もある。
そこならば李哉の言う通り海水浴とキャンプが同時に出来る。
李哉の提案は一石二鳥のものだった。
「秀兄の家か……。確かに海も山も近いし釣りだって出来るしな」
「どうかな?」
「それいい提案だな。じゃあちょっと秀兄に電話して行ってもいいか聞いてみるから」
そう言って李哉の父は少しケータイ電話を片手にリビングから出て行った。
「伯父さんの家に行けるといいね」
「そーだな」
「そういえば、伯父さんの実家に來、行った事あるっけ?」
「ない。毎年盆とかはお互いの親の実家に行くからな」
「それは普通だと思うけど…」
小さく呟き、李哉はかき氷を口へと運ぶ。
「ッ!」
「ん? どーした、李哉」
李哉は頭を押さえて痛みに耐えながら答える。
「キーンってきた……」
「またか。なんでそーなるわけ?」
「來って、かき氷食べても頭痛くならないんだよね。いいなぁ」
「ただ食い意地が張ってるだけでしょ」
「っるせぇな! 姉貴!!」
苛々しながら來は涙にそう言い捨てる。
最近來は反抗期になってきたので母や涙の言動に苛々としている。
まぁ、涙は主に先程腐女子に成り下がったと聞いてから苛立ちは更に増しているのだが……。
そんな苛立ちから來は溜息を付き、かき氷を食べようとした時、電話をしていた李哉の父がリビングに戻って来てみんなに言い出す。
「みんな、秀兄に電話したら、来てもいいって言ってたぞ」
「ほんと!? やったぁ!」
「じゃあ今すぐにでも行かない?」
「今から行ったら夜になるからな…。だから明日朝に出よう。そうしたら海にも行けるからな。 ということで、各自荷物の用意をするように」
「はーい!」
來と涙が同時に答え、涙はすぐに玄関から自分の家へと戻って行き、來も急いでかき氷を口に頬張り、二階に上がって行き、李哉の部屋から自分の部屋へと戻って行った。
「……今回は、仕方ないよね。來の靴、持って来てなかった――から」
「そうね……」
李哉がそう呟くと來の母が溜息混じりに答えた。
それはそれでいいのだが、來に荷物の用意をさせたら大変な事になるので李哉は慌ててかき氷を食べようと口へ運ぶのだが、それが頭に響き、ゆっくりと食べるしかなかった。
來は李哉の部屋から自分の部屋へ帰り、鞄に必要な物を用意し始めた。
着替えをタンスの中から引っ張り出してそのまま畳まずに鞄の中へ詰め込む。
(そういえば――海パンどこに入れたんだっけ…?)
どんなに記憶を辿ってみても海パンをどこに入れたのかが思い出せない。
(去年使ってどこ置いたっけ?)
海パンの入れた場所がわからないので來は手当たり次第にタンスの中の服を全部出して探し始める。
一つ目のタンスの中身を全て取り出しても海パンは見つからない。
二つ目、三つ目とタンスの中を全て取り出したのだが――やはり見つからない。
それと同時に部屋中に服が散乱している状態だった。
(……片付けるのめんどくせーな。このままにしとくか)
「ちょっ…來!? 何やってんの!?」
部屋の扉の方を見てみるとそこには部屋の有様を見て驚いている李哉の姿があった。
「いや――海行くから海パンいるだろ? その海パンどこに入れたかわかんねーから探してたんだけど……」
李哉の予感は見事に的中し、呆れ返って深い溜息を付いた。
そして机の横にある小さなタンスの一番上から來の海パンを取り出した。
「なんだよ! そんなとこにあったのかよ!」
「去年ここに入れておくねって言ったのに來が聞いてなかっただけでしょ!」
李哉は少し溜息を付いて海パンを來に渡し、部屋に散乱している服を畳んで片付け始めた。
そんな李哉を他所に、來は鞄に受け取った海パンを入れようとするのだが――全く入らない。
「あれ――なんか入らねぇし」
「來…」
李哉は呆れた声を出し、來の鞄の中の服を全部取り出して一つ一つ畳んで入れていきながら言う。
「服を畳まずに入れるから入る物も入らないんだよ。あ、來。天体観測のレポート用紙持って行くから持って来て」
「どこに置いたっけ?」
「机の上に透明なファイルあるでしょ。それ」
「あ、これか。はいよ」
「服以外に他に持って行く物はある?」
「持って行くって言っても……何持って行けばいいんだ?」
「來だったら…ゲームとか?」
「向こうで遊び回るんだったらいらねぇだろ」
「まぁそうだけどね」
「海で遊ぶんだったら、浮き輪とかだな!」
「あ、持って行くのは海パンだけでいいよ。伯父さんの所にちゃんとあるから」
「そうか」
來の荷物の用意が出来たので、後は部屋に散乱した服を再び畳み始めた。
「來、毎日掃除はしなよ。特に机の上。今日は僕が片付けたからいいけど…今度からは自分で片付けるんだよ。第一、机は勉強したり字を書いたりする所であって物置じゃないの。てか、來。週刊誌を机の上に置くのだけはやめて。片付けるのが大変だから。毎回燃える日に捨てるようにしなよ」
「あれは俺が気に入ったやつを取ってるだけ――って、お前まさかあれ全部捨てたのか!?」
「もちろん。あれが一番場所取るからね」
「お前――」
「捨てちゃったから今度、単行本に載ってると思うから買って弁償する」
「――――」
李哉は難しい事をさらりと言ってのけた。
机の上に山積みにしていた週刊誌の山は全て、來が気に入った読み切りのマンガが掲載されているものだった。
以前母親に雑誌を捨てられた時、どうしても気に入っていた読み切りの話を読みたくなり、どんなに探してもその読み切りマンガは見つからなかった。
それでもきっと李哉は探し出して買ってきてくれる。
「なぁ、李哉」
「ん? 何?」
「どうして李哉は、俺のためになんでもしてくれるんだ?」
――俺は、李哉がどう答えるかわかってて聞いた。
きっと李哉はこう答える。
「それはもちろん、來が大切で大好きだから」
ドクン――
李哉の言葉に胸が高鳴る。
「――――」
どうしても聞かずにはいられない。その無自覚に発せられる言葉を。
心の何処かで李哉の〝好き〟も自分と同じものであって欲しいと、期待しているから――
(バカ、李哉の〝好き〟は俺とは違う。そう、わかっているのに――)
「だって、來は僕の大切な人であって、もう一人の家族だから」
(その笑顔が――言葉が、俺を期待させる)
「僕、來がいない世界なんて考えられないよ。來がいるからこの世界は成り立ってるんだって僕は思ってるから」
(そんなの、俺だってそう思ってる)
「よし、片付け完了。あ、來。僕が荷物の準備してる間にゲームでもして――」
來は知らず、右手を李哉に向けて伸ばしていた。
そしてその右手で優しく李哉の左頬に触れる。
(李哉が、愛しくてたまらない――)
このまま、李哉を自分だけのものにしてしまいたい。
李哉の全てが欲しい――
來はゆっくりと李哉に顔を近付けようとする。
「來…?」
李哉に名前を呼ばれて一瞬我に返り、自分のしようとしていた事を誤魔化すために小さく呟く。
「――ホコリ」
「え」
「顔にホコリ付いてた」
そう言って來は手を離す。
「ありがとう。取ってくれて」
李哉は今來が何をしようとしていたのかに気付かず、礼を言ってきた。
「んじゃ先に李哉の部屋行ってるぞ」
そう言いながら窓の方へ行き、窓を開けた時に李哉が止めてくれた。
「來、窓から僕の部屋に行くと多分今日の晩ご飯はないと思うよ」
「やばっ」
先程、母親に言われた事を思い出してすぐに部屋から出て一階の玄関へと向かう。
來は階段を一段一段降りながら考える。
(ヤバイヤバイ、ヤバイって俺!! 今何しようとしてた!?)
数秒前の事を思い出して來は顔を赤くする。
恥ずかしさのあまりその場にしゃがみ込んで右手で口元を隠す。
(やべーよ、李哉といるほどもう自分が止められなくなってきた……。絶対近々李哉に何かする自信がある……)
少し冷静になり、階段を降りて玄関で靴を履きながら考え直す。
(大体、李哉に好きとか言ってどうするつもりなんだよ、俺。李哉と付き合いたいわけ? まぁ、一緒にいたいとは思うけど――)
幼馴染みより、もっと近い存在になりたい……。
そしたら今以上に李哉とずっといられるから。
だからといって告白しても、今の幼馴染みの関係を壊す事になる。
李哉に何かしても今の関係を壊す事になる……。
來は玄関の扉を開け放ち、太陽の強い日差しを全身に浴びながら空を見上げる。
空は今まで見た事のないような綺麗な青空だった。
空はこんなに青いというのに、來の心の色はどちらかというと黒に近い色だった。
わかってた。この想いに気付いた時からずっと。
この恋は叶わないって。
一生叶わない片思いだって事は。
こんなに好きなのに、こんなに李哉の事を想ってるのに、ずっと片思いか……。
でも、それがいいのかもしれない。
李哉にこの想いを伝えて俺の目の前からいなくなるぐらいだったら、ずっと幼馴染みのままでいい。
いつか李哉に好きな人が出来ても、笑顔で見送ってやればいい。
決して、李哉がこの世からいなくなるわけじゃないんだし。
李哉が結婚しても逢おうと思えば逢えるんだし。
だから――この想いは、絶対に李哉には伝えない。
それが俺にとっても、李哉にとっても幸せだから。
弘瀬來、十一才の夏。
少年は夏の青空の下で、胸の内にある想いを更に奥へと封じ込めた。
それが想い人のためだと思い――
少年は目の前にある物を失いたくなかった。
だから何もせずにただ時が経つのを待っていた。
(あ、そういえば――まだ早いけど李哉の誕生日に何を渡そうか……)
そんな事を考えながら來は李哉の家に入って行く。
――何も知らなかった無邪気なあの頃――
子供だった俺はただ純粋に李哉の事を想っていた。
これから起こる悲劇を知らずに、ただ楽しそうに。
十六年後の今の俺には持っていない、〝笑み〟と言うものを顔に浮かべながら――。
~To be continued~