声城潜入・破壊
神秘の塔で、私達を待ち受けていたもの。語り継がれきれていなかった物語
あまりの美しさに占領者すら惚れ込み、保存を命令した、
全ての生物の悲しみを見つめ、慰めるイメイアミ国のメルウレス塔。
誰がどのように、また、何を材料に建てたのか分からないこの塔は、
アブルル、ナーライに次ぐ第三の聖地で、何百万人もの人々の、
悲しみの道の先にこの塔があると言われる。
この塔を形成している、蒼い半透明の水晶のような、神聖な嘆きの壁に人々が集まる。
人によっては塔(正確に言うなら壁)を見た途端に、喪失感と罪悪感で押し潰されそうになり
「このまま嘆き悲しむ苦痛が続くなら、いっそ殺してくれ!」
と叫ぶ者も少なくなかったと言う。
かつて、この地を治めていたエンオリッラ王が、
王位を継げず、彼を憎んでいた弟に襲撃され、殺された場所で、
他にも、迫害されたゼゴ人が、集団自殺したと言う類の伝説が幾つもある。
メルウレス塔の内部は、壁の中を揺らめく青白い波紋や、時折横切る光の結晶が確認出来る。
ひたすら上へ続く螺旋状の階段になっていて窓も無く、
通路は徐々に細くなり、やがて進めなくなる。
その為、押し寄せる人々の出入りが上手く行かず、危険なので立入禁止になっている。
国から塔の調査を依頼され、この地を訪れた三人が、塔の入口に集まっていた。
複雑な機器を搭載した車の助手席に座り、
コンピューターをいじりながら塔をスキャンしている、
科学者ジールリー博士を、監視員のイファベが見ている。
パソコンの画面に映っている塔の大まかな断面図が、ジールリーの操作で完成した。
塔の周りを一周した、超能力捜査官である妹のティアンヌは、
ジールリーの所へやって来て話し掛けた。
「姉さん、断面図は出来そう?」
「とっくに出来たわ。内部は単純な構造だし、先人の資料もあるから」
「構造よりも、我々が知りたいのは、あの壁の材料なのだ。
土が使われているのだけは分かっているが…その為に、特別に、
物体分析学の権威である貴様の立入を許可したのだからな」
「分かっていますよ」
ジールリーは丁寧に返事をした。
「ティアンヌ。どう?何か感じる?」
「えぇ、たった今、少し。…声が聞こえたの」
と、かすかに憂いを帯びた濃い灰色の瞳で、穏やかに言った。
「何と言っていた?」
姉の問い掛けに、彼女は首を横に振る。
「分からない。でも、この壁は歌」
「歌?」
ジールリーは首を傾げた。
「歌と言うより、触れる夢…とも言えるかも」
彼女の目付きが元に戻る。
「調べるのは慎重にしてね。声は、普通は見えないから怖い。
でもあの声は、見えて触れる上に、場合によっては死をもたらすから」
「声の壁?馬鹿な事を…」
と、イファベ。
「この壁は、土と謎の音波で構成されている…か」
ティアンヌの言葉の意味を、しばらく考えてから、ジールリーは言った。
「だとしたら道理で、今まで土以外誰も分析出来なかった筈だわ。
X線を通しても、ただの土以外見えないし…
あの蒼を出しているのが物体じゃないなんて、やになります。
これからやる事は、前に同じような事があって、
試して上手く調べられたから実行しますけど…今、上手く行くかな」
一度コンピューターから手を離して、
ジールリーは小型の音波探知分析器を手元に引き寄せた。
これは、あらゆる音源を突き止める事が出来る。
それだけでなく、長時間は無理だが、音の結晶化も出来る装置だった。
イファベが、全く動じた様子の無いジールリーの方を向き、睨みつけた。
「さっきから、音が何だと言うんだ?」
「少し静かにお願いします。貴方を満足させる為ですので」
彼女は冷ややかに言った。
「そう言えば、知ってます?
心に悲壮感や、殺人欲みたいな闇が占める部分が多い人は、
音に過剰なまでに反応してしまうんですよ」
外に出て、計器の中に、転がっている小さい壁のかけらを入れてみる。
あーあ、とジールリーは呟いた。装置は試験管の中に、
蒼から灰茶になった土を残して、あっけなく停止してしまった。
「この機械でも駄目なら、科学が進歩するのを待つしか無い?」
と、ティアンヌ。
「うん、けど、全く駄目だったわけじゃない」
試験管の土を捨ててから、ジールリーはもう一度機械の電源をつけ、
残った僅かなデータに見入った。
「ルミセンナが多く検出されていると言う事は、やはり人間業ではない」
ルミセンナとは、世界で初めての海底探査機が偶然録音した、
『大海の涙』と言われる音と、その音波結晶の一成分である。
「結局、何の仕業だと言うんだ」
「さぁ。一体、あの音…ではなく、嘆きの壁の中に、何がいるんだろう。
まだ生きている」
ティアンヌが提案した。
「今から二人に、私が読み取った事を詳しく伝えるわ。役立てて」
ティアンヌはゆっくり話し始めた。
時は、遥か昔、エンオリッラ王の時代まで遡る。
「こいつは!?」
王宮のすぐ近くの岸で、兵士の格好をした男が、
声を上げた若い兵士の後ろから覗く。俯せで顔は見えない。
かすかに鱗が確認出来る、白い滑らかな肌、海からの贈り物と言われる、
長い、青味がかった紫の髪。下半身は完全な魚で、人魚にしては珍しく鱗が白い。
美しい尾が力無く地を叩いている。
「人魚だ!人魚がいるぞ!!」
もう一人やって来た男が、青ざめた顔をして震えている。
「恐ろしい…心を奪われるぞ!」
「今のうちに逃げた方がいい、人魚に睨まれた人間は、狂い死ぬそうだ」
そんな事を言い合っている所へ、逞しく凛々しい男が、美しい若い女を連れてやって来た。
「お前達、黙れ」
低い、冷たい声。
「王!?」
「はっ」
兵士達は姿勢を正した。
「怖がる必要はありません。人魚は、素晴らしい生き物なのですよ」
女は兵士達に優しく言った。彼女は、王の姉であるロアドーカである。
王が人魚の顔を軽く叩くと、すぐ人魚は目を開けた。赤紫の目。
人魚の、上等な紅陽貝のような、
赤紫の目に秘められた力の一つに、癒しの力があると言う。
見ると、目の前に立派な格好をした、無表情な男。
「あなたは?」
「エンオリッラ」
立ち上がった王に、人魚が必死の形相で両手を差し延べた。
「エンオリッラ、私、レマリーン。私を、あなたの世界に、上げてくれる?」
「いいだろう」
王は人魚の手をとった。
「王!」
兵士達は驚愕した。最初、必死な形相をしていた人魚は、次第に穏やかな表情になった。
「ありがとう、あなたのお陰で、この世界で生きられます」
王は、服が汚れるのも構わず、人魚を軽々と両手で抱えると、姉と共に城へ戻った。
王が抱えているものが人魚だと分かって、家来達は驚き、怖がった。
レマリーンは王宮の中にある噴水と、大きな池を与えられた。
王は自ら、人魚に食べ物を与えようとした。
だが人魚には合わず、何を食べさせてもげほげほっと咳込んでしまった。
「これらはダメか」
肉や野菜は受け付けないようなので、スープをすくう。
「ならほら、こっちを食べろ。これぐらいなら食えるだろ」
また王は、人魚の歩行訓練も行った。
だが訓練をするうちに、人魚の鱗は傷つき、所々剥がれてしまった。
「そうだ、その調子」
だが人魚が弱音を吐かずに努力した結果、腕と魚の下半身を上手に使い、
人間が歩くのと同じように動けるようになった。
ある晩、レマリーンは城の奥へ迷い込んだ。何かに導かれるように、
大理石の廊下を移動する。
「あっレマリーン?」
廊下の奥から、ロアドーカが駆け寄って来た。
「どうしてここに?」
「ロアドーカ姉上?」
エンオリッラの真似をして、レマリーンはロアドーカの事をこう呼んでいた。
「さっき、私を呼んだ?」
「あなたを?いいえ、それより、こっちへ来ては駄目ですよ」
近づいて来たロアドーカは、すぐにレマリーンを元の場所へ連れ戻した。
日がたつにつれ、王はレマリーンがいる噴水に足を止める時間が増えた。
「王様、エンオリッラ王、エンオリッラ王様」
レマリーンは王を見ると、うっとりしながら、歌うようにその名を呼ぶ。
「うるさいな、何故そんなに俺を呼ぶ?」
「エンオリッラ、笑った。とても嬉しい」
レマリーンはそう言って、目を輝かせる。
「ね、私の気持ち、分かる?」
「あぁ。そんなに愛しいか。俺が」
「そう、そうなのよ、エンオリッラ」
「お前の気持ちは、俺が一番よく分かる。…同じ気持ちなのだからな…」
夜になり、レマリーンが眠っていると、エンオリッラがやって来た。
「ついて来い。いいものを見せよう。私の秘密だ」
ロアドーカは、二人を物陰から見ていた。
いつも優しい碧の目に、今は心配そうな光をたたえて、エンオリッラを見つめていた。
しばらくして、エンオリッラとレマリーンは、頑丈な錠のついた扉の前に立っていた。
レマリーンが城の奥に迷い込んだ際、ロアドーカが出て来たあの扉だ。
エンオリッラは、扉を開ける前に耳を澄ました。
耳障りな低い雑音のような音が聞こえて来る。
エンオリッラは皮肉そうな笑みを浮かべ、傍らのレマリーンを見た。
怯えて、体を震わせている。
「エンオリッラ、中の彼は誰?怖い…」
血だ…血が欲しい…と声がする。
レマリーンは、エンオリッラには聞こえないそれを無理矢理無視した。
「何かがいると言う事は、分かるのか」
エンオリッラは反射的にレマリーンを引き寄せた。
「その目に焼き付けておけ」
扉の先は闇だった。
よく見ると、闇の中央に自分と同じ、赤紫の目をした巨大な人間がいた。
そこでようやく、レマリーンは気がついた。自分が見ているのは、人間ではない。
人間に似た生き物の身体は優美で、黒い鱗と闇で出来ている。
「この国の、継承者だけが操れる怪物だ」
「うぅ…」
レマリーンは頭を押さえる。彼女が最初に思った事はこうだ。
これは、危険。
ずっと昔、海に住む身でありながら汚れを撒き散らすので封印され、
罰として人間の、王の奴隷として引き渡された海の暴徒。
「私、あなたの話し、思い出したわ…シサ…」
レマリーンは呟いた。シサは血を求めるのも忘れ、人魚を見つめていた。
やがてシサは、王に目を向ける。
「王よ、何故人魚など連れて来られた」
さも憎々しげに、耳障りな声を轟かせ、シサは人魚の方を向いた。
「お前は、海に住む身でありながら、何故陸にいる。この、海の裏切り者」
言われのないその言葉を聞いた瞬間、レマリーンは目を伏せた。
「どうした、言わせておいていいのか?」
エンオリッラが口を挟む。
しかしレマリーンは、シサが何と挑発して来ようと、首を横に振るだけだった。
それよりも、何故自分とシサを会わせたのか、エンオリッラを不思議に思った。
シサとの出会いが一つのきっかけとなり、レマリーンの体力や視力が急に落ち始めた。
海を長く離れていたせいもあり、彼女の中である変化が起こっていたのだが、
彼女も周囲も気付いていなかった。
そんな折、エンオリッラは、カルドトゥン国に留学していた、弟のマオドッルと再会する。
弟のマオドッルは、まだ少年のようで、豊かな黒髪を一つにまとめていた。
「久しぶりだな、マオドッル」
エンオリッラが言った。
「はい、兄さん」
マオドッルは微笑んだ。
「それから、人魚。改めて聞くが、お前の名は?」
「私、レマリーン」
「お前の噂は聞いていた」
「ほう?もしや私の妃、と?」
エンオリッラがからかうような調子で、しかし目は用心深そうに尋ねた。
「その通りです。私は、そんな噂は信じませんが、
いずれにせよ、あなたの妃について、直接話しをしに来ました」
マオドッルの話しで、レマリーンは、国の繁栄を願う儀式の日までに、
エンオリッラが妃を迎えなければならない事を知った。
ところで、エンオリッラの方は、妃よりも国の安定の方が重要だった。
かつては自らの先祖が、全ての人々を纏め上げていた。
「姉上の次は、お前までそれか」
マオドッルは、兄がこの美しい人魚を慈しんでいる事がすぐ分かった。
「そう言わないで下さい、兄さんが忙しいのは分かっています。
しかし姉さんも僕も、あなたを急かす体裁はとらないと。
臣下が煩いのでね。ところで、人魚」
「はい?」
「体調が優れないと聞いた」
「そう…」
レマリーンは頷いた。
マオドッルが目を光らせ、探るように自分を見ているのを、レマリーンは感じた。
「人魚…レマリーン」
マオドッルは言った。
「お前ともゆっくり話しがしたい。海の中の話しなどな。
だが今は、僕は兄さんと二人で話しがしたいんだ、君の場所へ戻りたまえ」
「はい…」
レマリーンは答えた。
「でも、海の中の話しは、曖昧だから、そんなにないの」
マオドッルは、一瞬険しい顔をしたが、すぐ頷いた。
夜が来て、レマリーンは水の中に身を沈めて寝入っていた。
レマリーンの耳に、波音が聞こえた。マオドッルが、噴水に手を入れたのだった。
レマリーンは起き上がりながら、音がした方へ顔を向けた。
「眠っていたのに、起こして済まないね、レマリーン」
「いいわ、マオドッル」
「君にこれをあげようと思って。よく効く薬だよ」
マオドッルは、レマリーンの手に、小さい碧い花びらの形をした結晶を一粒落とす。
ありがとう、とレマリーンは軽く頭を下げた。
「ただし、兄さんには内緒にして欲しい」
「どうして?」
マオドッルは、うっすらと笑みを浮かべた。
「君を内緒で治して、兄さんをびっくりさせたいんだ」
「分かったわ」
ある日の夜、寝付けなかったエンオリッラは、久しぶりに噴水に赴いた。
多忙で、レマリーンと会うどころではなかったのだ。
「マオドッル?」
エンオリッラは、不審な顔をした。
弱々しいレマリーンの声、視力の低下も益々進んだようだ。
「今日は、薬を飲まなくていいの?あの、とーってもよく効く薬」
「薬?」
エンオリッラが呟くと、レマリーンは、はっとした表情をした。
「あ、エンオリッラ。何でもないの、うっふふふ…ふふふふ…」
狂ったように笑い続ける、レマリーンの生気を失った目、
噴水から漂って来る、とろけるような甘い匂いに、エンオリッラは唇を噛み、目を伏せた。
(これは、この匂いはニガレーブ…)
そして、この日を境に、レマリーンの姿が噴水から消えた。
誰に何を聞いても、皆知らないと言うばかりだ。
「お前…何故だ」
一連の鍵を握っていると思われる、マオドッルを浜辺に呼び出し、襟元を掴む。
「何を飲ませようと彼女は、もう手遅れでしたよ」
エンオリッラの手に力が篭る。
「手遅れだと、何の話しだ」
「我々人間同士の戦いにより、人魚含め海の生き物が受けている被害をご存知ですか?
海面で爆発した船の音、陸上の戦闘の破壊音など、
強烈な音波を受けた人魚は、錯乱状態に陥ってしまう…
場合によっては、心身にひどい後遺症が残る。
彼女には、その後遺症が出て来ていた…可哀相に」
「だから、あの麻薬を?」
「えぇ、彼女の苦痛を和らげたかった」
「本当にそれだけか」
少し間があく。
「…えぇ」
「嘘だった事を俺に知られたらどうなるか、考えながら話せ。
あいつはどこだ?殺して無いだろうな?」
観念したように弟は溜息をつき、膝をついた。
「彼女は生きています。最終的な治療方法は、貴女が海へ帰ること。
そう、伝えて海へ返す手引きをしました」
エンオリッラはマオドッルの襟から手を離すと、壁に手をつき、
ほんの少しの間、目を閉じた。
「あいつは、またこの浜辺に帰って来る」
「兄上、例え彼女が帰って来たとしても、あなたに会わせるわけにはいきません。
どれだけ愛情を注いでも、いつかは元の世界に返さなければならない…。
それは、分かっていた筈です」
マオドッルが声を強めた。
「下手に会えば辛さが増すだけです、住む世界が違うのですから。
レマリーンには、海に戻る際、かの世界で生きて行くと、出ないと約束して頂きました」
「俺は認めない」
「一度、本来いるべき世界に返した者に、手を出してはなりません。
声をかけてもなりません。それが、ルールですわ」
突如現れた、弓矢を持ち、狩の衣装をまとった姉の後ろから、
大臣がさりげなくお辞儀をした。
「姉上」
と、マオドッルがほっとしたような表情をした。
「姉上…また俺の邪魔をしたか。前はマオドッルが王になること、今度は…」
大臣が身体を震わせながら、一歩前に出た。
「恐れながら、王よ。姉君も弟君も、あなたや国を守りたくて…」
「そんなことは分かっている!くそっくそっ情けない…」
エンオリッラの怒りを恐れたのか、大臣は逃げるように姉の側を離れて行った。
「エンオリッラ、儀式の日にちが迫っておりますよ。過去はお忘れなさい」
ロアドーカは澄ました顔をしている。
「私達を、殺せないなら」
「兄上。僕と姉上は、愚かな祖父と父が遺した最後の負の遺産です。
兄上が生まれた時点で姉上は殺され、僕は生まれるべきではなかった」
「言うな」
かつてシサを海から受け取る際、先祖はその身にシサを戒める事ができる印と、
その印を王位継承者一子のみに受け継がせる制約を、忠実に守って来た。
だが祖父ゲルレンオ、父エゴシュノーは好色な人物で、愛人と子が沢山いた。
結果、シサを戒める力が薄れ、シサが自由に動き回り、暴れ始めた。
事態を憂えた正当後継者エンオリッラは血族暗殺の道具に、
死の前触れに現れる、シアリと言う毒蟻を使った。
もちろん蟻を自由に操れるよう魔術師の力を借りてである。
同じ毒を持つ蛇、ビヨンマに噛まれれば、人などすぐ死んでしまうが、
シアリなら何日か苦しみ、病死に見せ掛けられる。
シサを戒める力は少しずつ戻り始めていたが、エンオリッラは、
愛する弟マオドッルや、姉ロアドーカをどうしても殺せ無かった。
二人が自らの宿命を知った時、自害しようとしたのを、
二人が死ぬなら自らも死ぬと押し止めた。
何か方法があるかもしれないと。
その時、エンオリッラの頭の中に、愚かな王よ…と、不気味な笑い声が聞こえた。
何だ、とエンオリッラが構えると同時に、シサがマオドッルに憑依して、
マオドッルが切り掛かって来た。
シサに憑かれ、正気を失った弟との一戦。
「血だ…血が欲しい…殺す…殺してやる…殺してやる時が来た…」
シサの意識、形相の時は、エンオリッラは、水のように滑らかに攻撃をかわす。
「貴様、よくも」
「王よ、これは王弟が望んだこと」
シサの武器は、伸縮自在の牙と爪と、自身の力だ。
「この機会を待っていた。後はお前達だけ、そして我は自由…」
いかん。まず動きを止めなければ!!いや駄目だ、相手の体が柔軟過ぎる!
「兄上…ごめんなさい兄上…兄上…」
マオドッルの意識と形相に戻った。
「お前…どう言う事だ」
とにかく、奴の動きを止めるなら足を攻撃だ。
しかし、頭で幾ら分かっていても、つい先程、
シサの攻撃で足を負傷した王にはもはや荷が重過ぎた。
「こうでもしないと…兄上は僕を殺さないでしょう?」
「謀ったか、馬鹿が。だがお前の望み通りにはいかない」
「兄上っ何故ですか!」
エンオリッラは無抵抗で水中に引き込まれた。
水中では、シサに憑かれたマオドッルの方が動きが素早い。
息が続かないエンオリッラは陸へ戻ろうとして胸を突かれ、それが勝負の決め手になった。
マオドッルが泣きながらもう一度刺そうと手を振り上げた瞬間、
いきなり彼に突き飛ばされ、陸に打ち上げられた。
驚く間もなく、レマリーンの歌声がかすかに聞こえた。
陸に上がったシサ、ことマオドッルが離れた場所で耳を押さえ、悲鳴を上げている。
「人魚は深海で、地上に音を伝えやすい特殊な層に着くと、歌を歌う、か。
清らかな人魚の歌は、奴には毒…」
呟いて目を開けると、激しく息を切らしたレマリーンが覗き込んでいた。
「レマリーン…エンオリッラを助けてくれてありがとう」
ロアドーカが弓を携えたまま苦笑した。
「助けて無いわ、助けられないもの」
「いいえ。例え一瞬でも、助けてくれましたよ。でも、もう…後は、私が」
ロアドーカの持つ弓が、マオドッルを貫く。マオドッルは力無く倒れた。
「レマリーン、海へ戻れ」
「後で戻るわ。お願い、今は言わないで」
「これを…これは、お前が持ち続けろ」
エンオリッラが差し出したそれは、
エンオリッラが小さい頃からつけていた黄金の腕輪だった。
「ありがとう。けど怒らないでね、やっぱり私一人じゃ行けない。
行きたくないの。エンオリッラ、私と行こう?」
うるさいな、と笑いエンオリッラはそっぽを向いた。
「俺はお前の顔を、これ以上見ていたく無い」
海の中で、人間は生きられない。
「ならお願い。最後に歌、歌わせて?」
「…いいだろう、聞いてやる」
人魚の、雄大な海を思わせる声が響いた。
「エンオリッラ、一番の夢だった、愛しいあなたの側で歌えた。
感謝しているの。他にどうしたらいい?」
「…もう俺に構うな」
息絶えたマオドッルを撫でていたロアドーカが、ゆっくり近づいて来る。
「さようならなの?」
「あぁそうだ。行け!…無事に生きろよ…」
エンオリッラは苦心して体を起こし、倒れたマオドッルと近付いて来る姉を見た。
最後にレマリーンの目を真っ直ぐ見つめた。
「面白かった、お前と過ごした時間は、実に面白かった…」
「エンオリッラ…?」
彼の体が、再び地面に落ちる。
「ねぇ、エンオリッラ…?」
返答はない。
レマリーンの声にならない声が、涙に反射して、それから…。
「まだ人魚は生きているの」
はぁ、と溜息をついてティアンヌは姉とイファベを見る。
「だから、私にもはっきり声が聞こえた」
ティアンヌの言葉に、ジールリーは頷いて、イファベの方を向いた。
「あの結晶を分析したデータが、何かの生声を意味していた。
ティアンヌの話しを聞いて納得したわ。彼女は、あの壁の中に必ずいる」
ティアンヌは壁に向かい、語りかける。
「待ってて。…何も出来ないけれど、あなたを助けたいわ」
あいつ、どこに隠れたんだ?と、頭の中で声がした。
「誰?」
おい。ティアンヌとやら、行くぞ。
「何の話し!?」
(驚くのはこれからだ)
振り返ると、美しく可憐な女がいた。女が口を開く。
(人魚を探したければ、この壁を越えて行くがいい)
突如、姉やイファベが視界から遠ざかり、深海にいるような幻覚が見え、
次に波が押し寄せるような幻聴がして、もがく動作をした。
(可哀相に、苦しいだろう)
と、誰かの呟きを聞いたその時、ティアンヌは人魚を見つけた。
「レマリーン?本物…?」
碧い空間で、蒼い水の繭にくるまれている人魚の姿は、美しい琥珀を思わせた。
目を覚ました人魚は、驚いた様子もなく、ゆっくりと体を屈める。
「そう。私、レマリーン。あなたは?」
「ティアンヌ」
レマリーンは水の繭に両手と額を押し付けた。
「ティアンヌは、私を心配して来てくれたのね。
ありがとう、あなたのお陰で、一息つけます」
ティアンヌは自らの両手を彼女の両手に合わせた。
「あなたはずっと、ここで何をしているの」
「王を待っているの」
人魚は悲しそうに赤い目を潤ませた。ティアンヌは優しく囁く。
「さっきから、宝物って言葉が頭から離れないの。
何を意味するのか考えているんだけど、貴女のことかな」
レマリーンは頷いた。
「えぇ。王の思いが、思いだけは側にいるのを感じるから…」
「心配しないで。彼は今、とても落ち着いているわ」
「あなたなら、ソウレア世界がどうなってるか知らない?」
「ソウレア世界?」
ティアンヌは首を傾げた。
「神と言う存在に愛された、崇高な人間の魂が、たくさんいる世界。
人魚も行きたいな、そう言うところ。私の王もきっといるもの…」
そう、彼女は望んでいたのか。
「あなたを繋いでいる、哀しみの鎖から自由になれたらどうしたい?」
「帰りたい!」
「帰りたい?どこへ?」
「帰りたいわ!帰りたいわ!!…王と生きていた時間!」
ふと、レマリーンの中に、ティアンヌに対してある思いが浮かんだ。
「一瞬でも自由にしてくれたあなたに、恩返しをしたいの!」
レマリーンが何かを言いかけた瞬間、意識が断ち切られた。
「大丈夫?」
突然、姉の声がした。
「姉さん、彼女は私を見て歌おうとしたわ。
でもね、声がまだ体に馴染んでいないから、訓練が必要な状態だった」
「そう…」
「馬鹿な…」
謎に包まれた、エンオリッラ王の死や、
王家の秘密まで触れたティアンヌの話しを聞いたイファベは、疑い深そうな口調だった。
「たかが一匹の人魚の声と涙に、そんな効果があるとはな。
まぁ、人魚の涙を見た奴がいないから何とも言えんが…
結局、科学の進歩を待つしかないと言う事だな。
それで、一応聞くが、どうやったら人魚を助けられる?」
ティアンヌは首を横に振った。
「彼女を、普通に捜すのは難しいわ」
太陽の光を反射して、蒼く美しく煌めく塔に、ぴたりと焦点を合わせる。
「でも、今からずっと後の時代にこの塔に訪れる、心優しい人に発見されるわ」