現代に生きる風の和子
ある女性と古くから続く風との絆
「瀬音瞳子さんって知ってます?」
バスから降りるなり呉柴智野が聞くと、
あぁ、瞳子さんね、と、たまたま近くを通り掛かった歳をとった女が笑う。
「風と鳥の神の加護を受けた聖人って地元の人は言ってますよ」
「え、聖人?」
「そうですよ、贈り物とか沢山贈られてますし、
会って来た人は本当にあの人すごいねぇ〜とか言いますもの」
瀬音瞳子。霊的な障害に悩まされた者の近くに、
彼女の存在を知っている人間がいた場合は必ずと言っていい程彼女を訪ねる事になる。
瞳子は本名(旧姓)を理旅織々(りたびおりり)と言い、元々は獣医だった。
彼女の事は、彼女の親友である母親から度々聞かされていた。
「織々の考えって昔から読めないの」
「え!?母さん達何年の付き合いだよ?」
高校の時から現在まで、
結婚して家は離れたが長電話を度々する仲と聞いていた智野は怪訝そうな表情をした。
「でも、すごく優しい……」
智野は気になって聞いた。
「どんな風に?」
「言い方悪いけど、何しても許されるんじゃないかなってぐらい」
母親は言って、懐かしそうにくすっと笑う。
高校当時。
(この前、蝶とご飯を食べたわ)
と、織々の発言を受けて、友人達はその話題で盛り上がる。
(家族でハイキングに行った時に蝶が側を飛んでたから、
お弁当に入っていた果物の汁を側の石に垂らしたら仲間も来て綺麗だったわ)
(あんた……相変わらず自然と共に生きてるねぇ)
友人の一人が大袈裟に脱力して言った。
(だって、私の理想はナウシカだし)
(あぁ〜っ本当あんたナウシカっぽい!)
(だねだね!)
別の友人達が納得したように応じる。
ちなみに織々は、心を持つ生物(特に鳥)と話せるだけでなく、
その痛みや記憶も探り出し、風に乗せて消去する事が出来た。
そんな彼女を一番可愛がっていたのは、後にレスキュー隊員となる夫、
同い年で幼なじみの枝津花久だった。
しかし彼は結婚して僅か数年で殉職。
我が子である双子の男女の誕生と結婚式を見る事は出来なかった。
智野は瀬音瞳子こと、理旅織々に会いたいと強く思い、母親に相談した。
不思議な力の謎が分かるかもしれない。
TVやマスコミ等がまだ関わる前に瞳子の事を確認しようと、
母親から教えられた家へ赴いた。
「本当に、また来てね。馬鹿息子が連れて来た女性が外見も中身も美しくて、
あの日からずっと風と鳥の神に感謝していますよ」
温和な声が聞こえた。
枝津と書かれた表札の側で、一人の女性が立っていた。
「そんなっお義母様は素晴らしい人なんですもの。
近いうちにまた来ますから、宜しくお願いします」
女は誰かに軽く頭を下げた。では、女が頭を下げた相手が瞳子かもしれない。
女性が去り、不意に奇妙な感覚に包まれ、体中が緊張している。
緊張する余り目を閉じて、十字を頭と胸に描く。
「君、私の力が本物なら、自分を調査して欲しいと思っているでしょう」
驚いて見ると、そこには母親と同年代と思えないほど若々しい顔と姿があった。
「何故わかる?」
「あなたのお母さんと……あなたが思う人に聞いたわ」
今、誰かが彼女の側にいるのか。だとしたら、それが誰だか俺は知ってるかもしれない。
「この力はね……邪悪な者から授かった能力なの」
瞳子に通された部屋は、こじんまりとした茶の間だった。
「邪悪な者?悪魔?」
出された茶を片手に恐る恐る智野は聞いた。
人々を助けている力が、実は邪悪なものから授かった?それは一体、悪用するとどんな事が?
「あなたを簡単に傷つけられる」
瞳子は、智野の疑問が聞こえたように静かに答えた。
「私は生まれた時から、その邪悪な存在に危険を感じていたの。
邪悪な存在の正体は……私の前世。夫のお陰で、今は私が操っている」
「どうして、そんな事って何で……」
織々は、生まれた時から吐き気を感じるほど邪悪な存在を身近に感じていた。
姿の見え無いそれは夫が肉体を失ってから更に強くなり、
揚句の果てには自分に宿っている新しい命からになった。
私のお腹の中と言う、
この狭い空間で脆弱な新しい命を虐待しようとしている、女の存在を感じる。
ある夜、気がつくと側に黒い人影が立っていた。
全身が朽ち果て目と口が無く、闇のようだった。
『我が子の悲鳴を感じるか?』
か弱い何かを惨たらしく引き裂くような気配。
「あなたの目的は何?この子達を苦しめるな!」
『とりあえずはお前の子達が死ぬ事よ。お前は私の来世。分裂した私の汚れなき善魂。
私を封印した相いれぬ半身。満たされたお前の美しい体を奪う……魂は要らない』
殴られる!織々は咄嗟にお腹を庇った。姿の見えない存在に攻撃される、その恐怖。
突然、違う黒い人影が現れ、織々を庇う。
『頭に血が上ったな?最悪の対応だぞ、悪霊を挑発してはいけない』
「あなた……」
夫の気配は感じていたが、姿を見るのは久しぶりだった。
『あぁ織々、俺は変なんだ……ずっと体がある気がしない。痛みも感じないし……』
織々は落ち着きを取り戻した。
「あなた。霊が、生きている人と同じ感覚なわけないでしょ」
花久は渋い顔をして唸る。
『それより、君の力はあの女の一部だったんだな?
ならばそれは、あの女を追い払う役に立たない。風と鳥の神に強く祈れ。約束する。
全力で守るから』
織々の目が潤む。
「相変わらず、一生懸命私や子ども達を守ろうとしてくれるのね」
強い愛情は悪しき霊的な力を中和する事が出来る。
女の気配がいつの間にか消えていた。
花久は、妻の胎内の一角が女の隠れ場所だと直感する。
『誰にも触れられないよう、あいつは君の胎内へ帰った。
女性の胎内は幾つかの異なった世界に通じているそうだ。
だからそこからこの世にやって来る。手下を集めている』
織々は焦り、自分の腹からあの女を引きずり出したいと言う欲求を感じる。
胎内に夫と言う光を入れて女の隠れ場所を奪えないか、などと考えた。
「あの女が子供達の魂を奪いに来るわ、私だけじゃなくて子供達の身体まで吸収する気ね。
夢であの女の行動が見えるんだもの、
今日はミラータラ・ドレアル(マコーニョ地方の神話に出て来る、災を招く鳥)
の姿をして奪おうとしたのを、貴方が庇ってくれた」
女が頻繁に現れるにつれて出産の時期が近いのを感じる。
『引越しは無駄だしな』
夫の言葉に、織々は息を吐く。
「ですね。この子達にとりついているからついて来ます」
『あいつを子ども達と一緒に外へ出してはいけない』
もちろん、と織々は頷く。
「聞こえる?我が子達よ。私はあなた達の味方。安心して出て来る準備をしておいて」
すると子ども達が応じてくれた気がした。
気付いたら布団にいた。その後も変わらず、夫の存在を強く感じる。
織々が歩いていると、彼が呼び掛けてくる。
ある時、観光地になっているような場所には地縛霊が多いと教えられた。
「地縛霊は可哀相だわ。ただ、その場にいるしかないんだから」
言って、織々は沈黙した。
自由に動けるあの女の存在を考えると、失言をしたような気分になる。
ある日、夫の知り合いと言う初老の男が訪ねて来た。
「あの、あなたは?」
織々の視線が、男が持つ杖から生えた美しい白い翼に集中する。
「邪悪なものが実在するのは事実。
前世と名乗る女が他の悪霊を呼び寄せ、集団で攻めて来ようとしている……助けてくれ、
と言われましてな」
織々は不安に青ざめた。
「私も子供達も狙っている、貴方の事も怒っている」
「えぇ。だから戦いを始めたら勝つまで。途中でやめてはいけない」
「笑っているわ。苦しめって」
部屋に通された風の司祭が目を閉じ、杖を掲げた。
杖が纏う翼が開き、
聖なる風を起こすとどこからか様々な形や色の光が風に混じり不気味な叫び声があがる。
「光の色や方向に注意しなくては。縦に光が入ってるのはいい」
「司祭様、この光は!?」
織々は目を細め、なびく髪を押さえた。
「光は新しい命の象徴だ!」
司祭には女が生まれてから死ぬまで、
更に死後どのような災いをもたらして来たのかが見えた。
前世からの悪行せいで魂までも歪んでいる。
「風へ!風の導く方へ行け!!」
司祭の言葉を聞いた途端、織々は異常な眠気に襲われ、その場にゆっくり倒れ込む。
「司祭様は……次はどこへ」
「私はこの世界の者以外の者と主に付き合っております。
一旦この世界の者以外の者と関わると元の生活に戻れないのです。
向こうが離してくれ無いのですから」
遠ざかる意識の中、現実世界と異界の境目を越える際に水流を感じる。
『大きい峰と小さい峰の間にある湖はわかるか?』
花久の声だ。
「えぇ、彼女はあの水の中に溶けて行ったの?」
『あぁ、透明な水の中に……』
「いい風は吹いている?」
『あぁ、水に幾筋も波が立っていたから』
はっと気がつくと病院だった。
あまりに不思議な話しに、智野は返す言葉が無かった。
「そうそう、私と旦那にしかわからない事だけど、
あなたに来てくれてありがとうと言いたいわ。
だって妹さん……あなたも、会話出来ないままで寂しかったでしょうから」
織々は智野を優しく見つめた。
「妹の事……何故わかる?」
「私には見えるの。この前も部屋に現れて話したわよ。
道に迷った人間や霊は何かにしがみつくの。あなたや妹さんは私に」
智野は身を乗り出した。
「妹は何て……言っていたの?」
「生まれる事が出来なかった私の事を、
私の分まで生きるっていい方向に考えてくれるのはあなただけ。あなたが大好きって。
あなたは彼女にとって優しい希望の光。彼女を孤独から解放出来る温かい海なの」
智野の胸に痛みが走る。
「妹にとっては俺だけが世界だったんだ」
父も兄も、そして母も妹の事は悲しみの余り考えないようにしているようだった。
「えぇ。でも、ちゃんとご両親やお兄さんの悲しみを分かって。
悩んでいたのはあなただけじゃないのよ。
それに、妹さんに感情移入すればする程自分が自分で無くなってしまうわ。
あくまで妹さんに与えられた運命だったの。妹さんの事で、あなたに悪影響が出そうなら」
「あの子を払わないでくれよ?」
智野は織々の言葉を遮った。
「夕緒菜には…妹には俺しかいないんだ」
織々は暫く何かを考えていたようだった。
「大丈夫。彼女を正式にあなたの守護霊として呼ぶわ。私の手を離さないでちょうだい」
織々の手に触れた途端、一瞬目の前が暗くなって。
「気持ちは落ち着いた?」
「あぁ、今はとても……」
智野は頷いて、深く息を吐いた。
妹(双子だった)が死んだと知った時、
ショックを通り越してどうしたらいいかわからなくなった。
ずっと、触れ合いたくても触れ合えない寂しさが襲って来ていたと言うのに。
「俺さ、迷って……ずっと迷っていたんだ。
妹は生まれる事ができなかったけど、あなたを信じてよかった」
織々は慰めるように彼の肩を軽く叩いた。
「あなたが望んでいた一番の結果、あなたの妹として再び生まれて来る、は残念だけれど、
少しは役に立ててよかった……」
智野は玄関に腰掛け、靴を履いた。バス停まで織々が送ってくれた。
「気をつけてね。お母さんによろしく」
バスに乗る際、智野が織々を振り返った。
「どうして瀬音瞳子って名前に?」
彼女はあの前世と名乗る女の事件以降、依頼者に瀬音瞳子と名乗るようになったと言った。
彼女は苦笑し、智野に手を振りながら答えた。
それは彼女が解放した、彼女の前世の名前だった。