idle talk 2
わたしの最後の日について話すまえに、耕史が死んだときのことを話しておきましょう。
耕史がいつもの十倍の論破力を発揮しただけあって、ナノマシンによる終末医療の効果は劇的なものだった。がんが全身に転移したことによって内蔵の機能が低下していたわたしは、日々の食事にだって苦労していたのに、ナノマシンを体に入れて、動かし始めた途端、わたしは健康そのものになった。
人間の体を動かしているのは、脳ではなく、心臓でもない。なんて話を聞いたら、多くの人は首を傾げるでしょう。わたしだって、そうだった。この言葉を話したのは、ナノマシンによる臨床実験を担当していた先生で、それはこの終末医療の本質をよく表していた。
筋肉は脳や脊髄からの電気信号を元に、細胞から供給されるエネルギーによって動物としての機能、つまり運動を行うことができる。そして、細胞からエネルギーを貰っている、という点では人間の臓機能も同じなのだ。それが周囲の細胞からか、自身を構成している細胞からかの違いだけで。
わたしの体はがんによって、内蔵の機能が低下していた。腸は満足に食物から栄養を吸収することができず、肝臓は毒物を体内にのさばらせたままにする。
わたしの体に入れられたナノマシンは、その機能を代わりに行使するものだった。腸まで来た食物を分解し、肝臓だったものに居座って毒物を分解する。そして、体を構成している細胞に十分なエネルギーを供給する。
そして、そこにいるのは十分に健康な人間だ。
もちろん、副作用はある。わたしと耕史が最初にやったディベートの内容でもあった、ガン化のリスク。でもこの場合はそれだけではなくて、対象となった人間がナノマシンなくしては生きていけなくなってしまう。ただでさえ臓器の機能が低下しているわたしだから、そこをナノマシンに肩代わりされた途端、臓器は仕事をなくして、いつしか仕事のやりかた忘れてしまうのだ。そして、ナノマシンがその仕事を止めたとき、残っているのはなにもできないタンパク質の固まりというわけ。
そしてこの治療が終末医療と呼ばれている理由が、ここにある。
わたしに入れられたナノマシンには、寿命があるのだ。現在の技術で、丸一年。そして、その寿命は、そのまま当事者の寿命となる。
どの病気の余命宣告よりも、はっきりとしたタイムリミット。
わたしはその一年を、ごくふつうの高校生として過ごすことにした。特別な出来事はいらない。家族と、学校の友達と、恋人がいれば。
授業では寝たり起きたりしてた。みんなで誰かの家に集まって、勉強会をやった。カラオケに行ってバカみたい声を枯らした。母さんにねだって、ちょっとおしゃれな服を買ってもらった。それを着て、耕史と遊園地に遊びに行った。ディベートで、可愛いとはなんたるかを話し合った。
幸せだった。
不思議なぐらいに。
この世界と言えば、理不尽に満ちていて、政治家はみんな私欲を満たすろくでなして、どこかの国では半分以上の子供が満足に食べることすらできないと、声高に叫ばれているっていうのに。
今ならわかる。
それが、全部うそで、全部、ほんとうだってことが。
遊園地からの帰り道、わたしと「またね」という挨拶を交わした耕史は、トラックにひかれたんだから。
飲酒運転だった。罪状は、危険運転過失致死。アルコール漬けの脳味噌がアクセルペダルを踏む足とハンドルを握る手に送った信号が起こした結果。トラックは歩道に乗り上げ、たまたまそこにいた耕史をタイヤで蹂躙した。
かくして、耕史は少し疲れがにじんださわやかな笑みを浮かべた姿で、わたしの記憶に残ることになった。葬式には行ったけれど、その顔を見ることはできなかったからだ。
耕史をひき殺した相手を憎まなかったと言えば、嘘になる。けれど、わたしには彼を責めることはできなかった。もちろん、会うことはなかったし、わたしに対してはなんのコンタクトもなかった。それは怒ってしかるべきことなのかもしれないけれど、彼自身、未成年の未来を奪った以上、自分の一生を贖罪に捧げなければならない。
でも、あのできごとはわたしにとって、終わりでも始まりでもなかった。
ただ、わたしが半年もしないうちに死ぬのだということを、改めて確認させられた。それだけのことだったのだ。
目を開ける。
そこは、わたしがずっと過ごしてきた、わたしの部屋。時刻は、朝の九時。三連休最後の日。
身を起こす。
そして、失敗した。
わたしは呆然としたまま、天井を眺める。
自分のものだと信じられないぐらい、鉛みたいに重い体が、否応なく、その事実を指し示していた。
今日、わたしが死ぬということを。