壊れた時計
時計が壊れてしまった。
お父さんから貰った大事な大事な時計が動かない。少し前に器用な兄に電池を替えてもらったばかりなのに、今朝の九時三十七分から針が進まない。振っても叩いてもうんともすんとも言わない。
十何年も前のものではあるけれど、時計とはそんなに寿命の短いものなんだろうか。詳しくないから分からない。
とにかく、時計は壊れてしまったみたいだ。
昼、僕は商店街の時計屋を訪れた。
どっしりとした趣のある店だった。店主もまたどっしりとした職人めいた人だった。
「この時計、直りますか?」
店主は差しだした時計を愛想なく受け取り、慣れた手つきで蓋を外した。大小様々の歯車が見えた。
黙ったままの店主はルーペで歯車達を覗くと、数分もしないうちに嫌な顔をして蓋を閉めた。
「これは駄目だ、壊れてる」
苛立ち混じりにそう言うと、店主は投げやりに時計を返した。
僕は予想外の展開に焦りながら曖昧に時計を受け取った。時計屋にさえ持っていけば直るものだと思っていたのだ。
「な、直らないんですか」
思わず弱々しい声が出た。それでも僕は、直らないなんてそんなのは困る。これは大事な時計なのだと必死に言い募った。
「ここでは無理だ。他へ行け」
店主はつっけんどんにそう言い、暗い店の奥に消えていってしまった。
僕はひどく落胆して店を出た。
電話帳で調べてみると、隣町に二軒とその隣町に一軒あるようだった。
いちばん近い店に電話をかけると、どうやらその店は先ほどの店と馴染みがあるようで、そこで無理ならこちらじゃあとても直せないと言われた。聞くに、先ほどの店主はなかなかの腕を持っているらしかった。けれど、僕の時計を直せないなら意味がない。僕はまた、ひどく落胆して電話を切った。
残りの二軒のうち、一軒は留守電になっていた。どう言えばいいのか分からなかったので何も言わずに受話器を置いたもう一軒には見てみないと分からないと言われた。今日は定休日だと言われたので明日向かうと伝えた。
夕方になってもう一度、留守電だった店に電話をかけてみた。また留守電だった。
その日の夜、仕事から帰って来た兄に時計のことを離した。兄は僕が時計をとても大事にしていたのを知っていたからか、自分の事のように心配してくれた。時計を見せると途端に悲しそうな顔をした。
「父さんのくれた大切な時計だもんな」
「うん。明日隣の隣の町の時計屋まで行くんだ」
「そうか、直してもらえるといいな」
僕はその日、大事な時計を抱きしめて眠った。針の音のしない時計がとても寂しかった。
次の日、電話をした店が開く時間に合わせて家を出た。部屋の壁掛けは動くのに手の中の時計はやっぱり黙ったままだ。慣れない道で少し迷ったけれど、昼前には店に着く事ができた。
そこは小奇麗なショップといった風な店だった。店主は人のよさそうな人だった。
「この時計、直りますか?」
店主は差しだした時計を愛想良く受け取り、慣れた手つきで蓋を外した。昨日と同じ大小様々の歯車が見えた。真面目な顔で店主は歯車達を覗くと、数分もしないうちに困った顔をして蓋を閉めた。
「これは難しいですね、ここじゃ無理でしょう」
申し訳なさそうにそう言うと、店主は汚れをふき取ってから丁寧に時計を返した。
僕は時計を受け取り、ひどく落胆して店を出た。
最後に僕は、藁にもすがる思いで電話をかけてもずっと留守電だった時計屋に向かった。
着いてみればそこはなんとも寂れた店だった。しかし店主は意外にも若く、同じか少し上に見えた。
「この時計、直りますか?」
「……直せると思う」
店主は差し出した時計を受け取る前に答えた。若いからだろうか、無責任にも聞こえる言い方に不安を覚える。しかし、もし本当に直せるのならそれに越したことはない。僕は店主に時計を渡した。
「どうですか? 直りそうですか?」
店主は他の時計屋と変わらない手つきで蓋を外すと、中の歯車達を覗いた。
「ああ、これは直せるよ」
自信の感じられるはっきりとした答えにほっと胸を撫で下ろす。
店主はそんな僕の様子を見ながら少し悲しそうに言った。
「でも、直ったとしてもこの時計はもう動かないよ」
「え?」
どういう意味だろうか。直っても動かないなんてそんなのおかしいだろう。店主の唐突な言葉に僕はひどく混乱した。
電池が切れてしまっているのだろうか。欠けてしまったパーツがあるのだろうか。どの問いにも店主は首を横に振るばかりだ。
「そうじゃない。動かないんだ、これは。誰がどうしたって動かない」
店主は重ねて言った。
昨日の兄と同じ、悲しい顔をしている。でたらめを言っているようには見えなかった。
それでも僕に納得なんてできるわけがない。だって僕には彼の言っている意味がさっぱり分からないのだから。
「……そんな、この時計は、ほんとに、大事なんだ。直るのに、動かない、なんて」
どう言えばいいのか分からず、途切れ途切れの言葉が零れる。これでは小さな子供が駄々をこねているみたいだ。店主は小さく疲れたような溜息を吐き、時計に小さな工具をあて始めた。
僕は泣きそうな気持で黙ってそれを見つめた。
僕は店主が勧めた椅子にも座らず、修理の様子をずっと見ていた。
どれくらい経っただろうと店内に無数にある時計達にちらりと目を向けた時、店主は工具を置いた。
店主はおもむろに時計の蓋を閉めると、それを僕に渡した。そっと受け取った時計は相変わらず九時三十七分のままで、やはり何の音もしない。何の音もしないのだ。
店主の修理は手際よく、きちんと直されたのが素人の僕でも分かった。けれど時計は動かない。
僕は、この針はどうしたって進まないんだろうと意識の外で感じた。
それでもまだ、諦めきれずに口を開く。
「どうして――」
動かないのかと尋ねる声は音にならず、抑えられない嗚咽に遮られた。悲しくて悲しくて仕方なかった。
言葉にならない嗚咽が周りの時計達の針音に重なる。それでも手の中の大事な時計は冷たく、いつまでも黙ったままだった。
本当は分かっていたのかもしれない。分かっていたのに認めてしまうのが怖くて、ずっと分からないふりをしてたんだ。
店主は何も言わずに背を向けると、暗い店の奥に消えていった。
ああ、僕の大事な時計は、もう本当にこわれてしまったんだ。