婚約破棄前に、言質をとられました
夏シーズン最後の社交界。
いつもより煌びやかに着飾った貴族の人々が集まる夜会。その大広間に、レミシオン侯爵令息である婚約者ガルドバインの声が朗々と響き渡った。
「ルビア!貴様とは婚約を破棄する!」
「承知しました。では、ここで失礼します」
彼の対面にいた私は間髪入れずに淡々と即答した。
もっと泣き叫び、縋り付くとでも思っていたのだろうか。
婚約者は目を見開き、ポカンとした顔で止まっている。彼の隣に寄り添う噂の華やかな令嬢は、あまりのテンポの速さに口元を引き攣らせていた。
それらをすべて無視して踵を返し、正面玄関ではなく使用人用の裏口へと向かった。胸の中にあったのは怒りでも悲しみでもない。
ただ、三日前にかけられた『ある言葉』に対する、腑落ち感だった。
◇◇◇◇◇
婚約者であるガルドバインは、日常的に私に冷たかった。
屋敷を訪ねても『急用が入った』と数時間も部屋で待たせるのが日常風景。
伯爵家である我が家は、格上の侯爵家に逆らえない。過去の天災で傷ついた領地と領民を立て直すため、我が家は侯爵家からの資金援助を受け入れた。
その見返りが『放蕩息子の守り役』である私との婚約だ。
実家を責めるつもりはないが、お金で買われたような存在の私を、婚約者は心底疎ましく思っていたらしい。
婚約破棄を言い渡される三日前。
その日も世間体のためだけにレミシオン侯爵家へ訪れていた。
冷めた紅茶を前にじっと耐えていた私のもとへ、パタパタと軽い足音が近づいてくる。
やってきたのは、婚約者の異母弟である十四歳の少年——ルオラスだった。
「お義姉さま……!」
4つ年下である彼はいつも『お義姉さま』と慕ってくれる。母親譲りの柔らかな金髪と大きな瞳を持ち、少し笑うだけで誰もが警戒心を解いてしまうような愛らしい少年だった。
ルオラスは周囲を気にしながら部屋へ忍び込むと、私の隣にちょこんと腰掛けた。
「お兄様が、また悪巧みしてるみたいなの」
声をひそめて教えてくれる。
ルオラスはとても賢く、こうした婚約者の嫌がらせからコッソリ私を助けてくれるのだ。
「お兄様、三日後のパーティーで……婚約破棄をみんなの前で言うって。だから……」
「わかったわ、ルオ様」
心配して悲しそうな顔をするルオラスに、私は優しく微笑んだ。
「いつもありがとう。とっても助かるわ」
「えへへ、褒めてもらえて僕、嬉しいな」
そして「お義姉さま、大好き」と袖を掴んで甘えてくれる姿は、ただただ可愛らしかった。
こちらの都合で破棄すれば支援金の返還を求められる。だが、侯爵家側から「婚約破棄」を言い渡してくれるなら話は別だ。返還義務は生じない。
(……まあ、復興の目処も立ち始めたし。結婚して数年したら解消するつもりだったけれど)
お金をもらった以上、体裁だけでも整えないと社交界で後ろ指を刺されてしまう。
だから、三日後のパーティーで婚約破棄されると知ったとき、私は悲しむどころか「願ってもないチャンス」だとほくそ笑んでいたのだ。
「お義姉さま……あ、もう言えないんだ。……大好きなのに」
泣き出しそうなルオラスに胸が痛み、私は屈み込んでその頭を撫でた。
「ルオ様、悲しまないで……婚約破棄されても、ルオ様のことは私も大好きよ」
「……ほんと?」
ルオラスは私の手をぎゅっと握り返すと、上目遣いに私を見つめた。
「ねぇ……ぼくが、変わっても好きでいてくれる?」
ルオラスのいう『変わる』というのは、婚約が破棄されて義理の姉弟ではなくなった後の関係性のことだろうと、察した。家族ではなくなっても、慕ってくれる可愛らしさに胸が温かくなる。
「えぇ、もちろんよ」
私の言葉を聞いた瞬間、ルオラスは嬉しそうにパッと表情を輝かせた。
ルオラスの母親は離縁されている。だから、母のように慕ってくれているのだと思う。
きっと、それも今だけ。
私より背が高くなる頃には、こんなことも言わなくなる。そうなれば、今の「お義姉さま大好き」も、きっと子供の頃の可愛い思い出になる。
そう思っていた当時の私は、その言葉の意味を知る由もなかったのだ。
◇◇◇◇◇
婚約破棄を言い渡された、その次の日の朝。
レミシオン侯爵の屋敷に、王都監察局の馬車が次々と横付けされた。
長年にわたる脱税、そして何より他国への国家機密の漏洩と、密約の締結の容疑。
侯爵と元婚約者は即座に捕らえられ、地下牢へと永久幽閉されることが決まった。
これで私は完全に自由の身……
そう安堵したのも束の間、信じられない報せが届く。
『婚約破棄の手続きが、家宅捜索の混乱により正式に受理されていませんでした』
そして——
『混乱の収束と新伯爵家の立て直しのため、手続き中だったレミシオン侯爵家との婚約をそのまま継続・再締結とする』
……はい?
提出された婚約破棄の書類に小さな不備が見つかり、手続きが却下されたのだ。
本来なら再提出になるところだが、直後に当事者たちが捕まったため手続きは完全に凍結。
そして、今回の事態を重く見た王室は、大失態を犯した侯爵家を解体。
国家の危機を未然に防いだ功績のある弟ルオラスへ新たに王室直轄の支援を伴う特別な伯爵位を与え、家名を再興させることを決定した。
新伯爵家の後見と領地運営を担うため、すでに婚約関係にあった我が家との縁を維持することが望ましい、と判断されたらしい。
つまり、私の新しい婚約者は、元婚約者の異母弟であるルオラスとなった。
◇◇◇◇◇
「……どういうことなの、ルオラス様」
新しく伯爵邸となった屋敷の執務室。
立派な伯爵の衣装に身を包んだルオラスが、優雅にお茶を飲んでいる。私の問いにキョトンと目を丸くした。
「どういうことって?」
「婚約破棄も、監察局も、再婚約も……全部、タイミングが出来過ぎているわ」
私がジト目で睨みつけると、ルオラスはくすりと可愛らしく笑った。
「あはは、バレちゃった? うん、僕が仕組んだんだよ。お兄様に『お姉様は冷たい女だ』って悪口を吹き込んでね」
「なっ……」
驚く私を尻目に、悪戯を成功させた子供のようにご機嫌そうだ。ルオラスは可愛らしく小首を傾げ、内緒話をするように種明かしを始めた。
「実はね、あの女は他国のスパイなんだ。『あんな子、憧れるなぁ。奥さんならみんなに羨ましがられるのに』って囁いたら、簡単にコロッと転がされてさ。自分から密約に首を突っ込んでくれたの。本当に単純だよね」
あどけない笑顔で語られる身の毛のよだつ謀略に、私は絶句する。ルオラスは楽しそうにクスクスと笑い続ける。
「やっぱりお兄様、母親に似たのかな? 見た目だけで頭が残念なのが。『女の子は騎士に憧れるから、カッコいいところ見せなよ!』って乗せたら喜んでやるんだもん。チョロすぎない?」
「あ、あなた……自分の父親と兄を……」
「だって邪魔だったし。落ちる運命ならお義姉さまを巻き込まないで欲しいよねぇ」
あっけらかんと言い放つと、ルオラスはトントンと自分の顎に指を当て、思い出したように言葉を継いだ。
「そうそう、書類の不備だけどね?婚約破棄の書類を書かせるときに『お兄様の個人印で十分ですよ、だって当事者は二人なんですから』って教えてあげたんだ。だって、当主印を使われたら本当に破棄が受理されちゃうじゃない?」
「……ッ、最初から、却下させるつもりで……」
「もちろん。派手に捨てられたフリをして、さっさと帰ってもらうのが一番安全でしょ? ガサ入れ前の方が、体裁もいいし」
言葉が出ない。あまりの計算高さに足がすくみ、一歩後退る。そんな私を見て、ルオラスは嬉しそうに目を細めた。
「でもね、再婚約に持ち込めたのはちょっと賭けだったんだ。普段から周りに『お義姉さま大好き』アピールをしておいてよかった! 王妃様が同情してくれてね、『まだ幼いですし、せっかくなら好いた相手が良いですわ』って助言してくれたんだよ。優しいよねぇ」
「な、んで……そんなことまで……」
「なんで?……それはねぇ」
ルオラスは椅子から立ち上がり、ゆっくりと歩み寄ってくる。するりと優しく、私の手を両手で包み込んだ。
「お兄様なんかに、渡したくなかったんだ。……僕、ずっとお義姉さまと結婚したくて頑張ったんだよ?」
ねぇ、褒めて?と可愛らしく上目遣いをして、いつものようにルオラスは甘えてくる。
(……正気じゃない。最初から、全部…!)
猛烈な恐怖が私を襲い、背筋に冷や汗が吹き出す。
(この子は、だれ…?)
父親も兄も潰し、国家の動向すら利用して私を手に入れた十四歳の怪物。後ずさろうとした私を逃がさないように、小さな手が私の指先にぎゅっと絡みつく。
「ねぇ、約束したよね?」
「え……?」
「『僕が、変わっても好きでいてくれる』って。お義姉さま、もちろんよって言ってくれたじゃない」
(——あ)
あのときの『変わる』という言葉は、関係性のことではなかった。
優しくて健気な義弟という仮面を捨てて、『この狂った本性を現しても』という意味だったのだ。
私が自分で与えてしまった言質。逃げられない鎖。
引きつった顔で完全に固まる私を見上げ、ルオラスは首をちょこんと傾げた。
「あのね、実はボク、人生二回目なんだ」
「え…? なに言って…」
「えへ。もう手を繋いでも怒られないんだ! 嬉しい」
今度は一緒に幸せになろうね、と微笑むルオラスの顔は、私が知っている、あの可愛い義弟のままだった。
◇◇◇◇◇
――ルオラス、一度目の人生――
「なんて、損な義姉なのだろうか」
それが、一度目の人生で、当時の僕が彼女に抱いていた印象だった。僕は、昔から周囲の人間の顔色を読むことだけは上手かった。
――正確には、母から学んだ。
母は、とても綺麗な人で、人に好かれるのが上手かった。
少し伏せた目、相手を安心させる柔らかな笑顔。いつも、心から嬉しいと伝えるように頬を綻ばせる。思ってないくせに。
父に何かをねだるときも、決して「買って」とは言わなかった。母親が微笑めば、父は決まって「遠慮するな」と財布を開いた。
けれど、そんな母は侯爵家そのものには執着していなかった。
侯爵家の都合で離婚を提示されたら、あっさり承諾した。十分な慰謝料と財産分与を受け取り僕に「元気でね」とだけ告げ、さっさと屋敷を出て行った。
最後まで、母は強かな人だった。
家名にも、夫にも、侯爵夫人という立場にも執着しない。自分が欲しいものだけを手に入れたら、それ以上はいらない。僕はそんな母を見て育った。
だから、お義姉さまが要領が悪く見えた。
「お義姉さま、またお兄様に頼まれたの?」
ある日、廊下で彼女が大量の書類を抱えているのを見かけた。
「ええ。今日中に整理してほしいそうなの」
「断ればいいのに」
「そうね。でも、急ぎみたいだから」
彼女はそう言って笑った。
馬鹿だ。本当に、損な人だと思った。
誰かに嫌なことを言われても怒らない。
無理な頼みをされても断らない。
相手が困っていれば手を貸す。
そんなことをして、何になるのだろう。
母のように、適当に笑ってれば誰かがやってくれるのに。
彼女が理解できなかった。
けれど——その数日後。
僕は重い流行病に倒れた。
最初は、少し熱があるだけだと思っていた。
けれど熱はどんどん高くなり、身体が重く、喉が焼けるように痛い。息をするだけで胸が苦しかった。
医師が何人も呼ばれ、屋敷中が騒がしくなった。
そして、病状が思わしくないと分かった途端、皆の態度が一変した。
兄も父も、優しくしてくれた使用人も、最初のうちは顔を見せていたのに、姿を見せなくなった。
仕方がない。
誰だって、死ぬかもしれない人間のそばにいたくなんてない。
けれど、熱くて、息苦しくて。
喉が渇いても起き上がることすらできない。眠りに落ちるたび、「このまま目が覚めなかったら」ということばかり考えた。
ある夜。
意識がぼんやりと浮かんだとき、誰かが僕の額に触れていた。
「……まだ熱いわね」
「お義姉さま……?」
「起きたの? お水、飲める?」
ルビアお義姉さまだった。
どうして、と思った。どうしてこの人がここにいるのだろう。
「どうして……お義姉さまがいるの?」
「だって、ルオ様は病気でしょう?」
それだけ言って、彼女は僕の身体を起こし、水を飲ませてくれた。
「……うつるかもしれないよ」
「知ってるわ」
「死ぬかもしれない」
「そうね」
「怖くないの?」
「怖いわよ。でも、怖いからって病気の人を一人にするのは違うでしょう?」
意味が分からなかった。
僕なら、絶対にそんなことはしない。損だし、得るものなんて何もない。
それなのに、彼女は翌日も、その次の日も来た。
熱が下がらない僕のそばで、薬を飲ませたり、眠れない夜にはくだらない話をしてくれた。
「どうして、そこまでするの?」
「どうしてって……あなたは私の義弟でしょう?」
その答えを聞くたびに、胸の奥が痛んで泣きそうになった。
やがて、僕は奇跡的に回復した。
病が治ったと分かると、屋敷にはまた人が集まってきた。
優しい言葉をかける人々。けれど僕は知っていた。僕が本当に死にそうだったとき、誰もいなかったことを。
ただ一人、彼女を除いて。
「元気になってよかったわね、ルオ様」
彼女は以前と何も変わらず、それだけのことだったかのように笑った。僕はそのとき初めて思った。
——この人を、失いたくない。
誰かに固執するなんて、弱味で損である――なんて価値観があっさり覆された。
けれど、一度目の人生は最悪の結末を迎えた。
愚かな父と兄は他国のスパイに易々と騙され、国家叛逆の罪で侯爵家は破滅。
当時、成長して外交官として他国の視察に赴いていた僕は運良く難を逃れたが、本国に残され、巻き込まれた彼女は冷遇の末に不幸な死を遂げた。
秘密裏に彼女の亡骸と対面させてもらったときには、苦しくて、ただ泣き崩れた。
だから、二度目の人生では誰にも邪魔させない。
父も、兄も、国も、運命でさえも。
全部、僕が先に潰して動かしてしまえばいい。
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