第9話 泣き顔はまだ知らない
偽薬草の被害が、紙の上の話ではなくなったのは、暑気の入り始めた午後だった。
雨上がりの森に近い北の村から、息を切らせた使い走りの少年が公爵邸へ駆けこんできた。入口でファビーニョに止められかけ、半泣きの顔で叫ぶ。
「薬だと思って飲ませたら、弟の息がおかしくなったんです!」
朝の間にいたアリエルは、返事を書いていたペンをすぐに置いた。
「何を飲ませたの」
「咳止めだって、市で買った束を煎じて……母さんが、いつもの匂いと違うって言ったのに」
「束は残ってる?」
「少しだけ」
「持ってきて」
言いながら、彼女はもう立ち上がっていた。
「ポラ、医師を。ユーソフ、北の村まで馬を二頭。レンノンがいれば呼んで。ケイリン、温めるだけで飲める麦湯を多めに。あと、吐き気があっても口に入れやすいもの」
「はいっ」
返事が一斉に飛ぶ。
アルヴァが廊下の向こうから現れたのは、その指示が半分出そろったころだった。状況を一言で聞き取り、彼はそれ以上問わない。
「私も行く」
「領主が動いたほうが早いです」
アリエルは頷いた。
「市場側の販売停止命令も必要になります」
北の村へ向かう馬上で、風が頬を叩いた。夏に近い光なのに、胸の内側だけが冷えている。
少年の家は、村はずれの細い水路のそばにあった。戸を開けた瞬間、乾いた咳と苦い煎じ薬の匂いがぶつかる。寝台の上には、七つか八つほどの男の子が横たわっていた。額には汗、唇は少し青い。母親は鍋を抱えたまま真っ青になっている。
「ごめんなさい、ごめんなさい、安かったから、効くって言われて」
「今は謝らなくていいです」
アリエルは真っ先に子どもの脈を取った。速いが、まだ拾える。
「飲ませた量は」
「茶碗に半分ほど」
「いつ」
「一刻も前です」
「吐いた?」
「少しだけ」
到着した医師へ状況を引き渡しながら、アリエルは残っていた薬草束を受け取った。青い紐でまとめられ、見た目だけは整っている。だが近くで見ると、葉先の乾き方がそろいすぎていた。色も妙に明るい。押せば砕けるはずの部分が、妙な湿りを残している。
「レンノン」
振り向くと、いつの間にか彼女は土間の入口まで来ていた。
「見て」
レンノンは束を受け取り、鼻ではなく目で一枚一枚を追う。
「乾燥工程が違います。混ざってますね。咳に使う葉の間へ、喉を焼く雑草が少量」
「故意に?」
「安くかさ増しするときの混ぜ方です」
彼女はすぐに断じた。
「しかも急ぎ。切り口の向きが揃っていない」
アルヴァは家の外で、すでに村役人へ命を出していた。
「今日の定期市で売られた薬草束を回収しろ。青紐のものはすべてだ。代金は公爵家が立て替える。売り手は逃がすな、ただし村人を脅すな」
短い指示なのに、迷う余地がない。
家の中では、アリエルが母親の肩へ手を置いた。
「坊やは医師が診ます。いま必要なのは、何をどこで買ったか、誰が売っていたかを思い出すことです」
「北門の市で……若い男で、ひげが薄くて、やけに口が上手くて」
「荷札は」
「見てないです。でも、同じ青い紐でした」
「ありがとう。それだけで十分役に立ちます」
泣き崩れそうな母親へ言うとき、アリエルの声は不思議なくらい落ち着いていた。
落ち着いていなければならない、と体が先に覚えているような声だった。
日が傾くころ、子どもの呼吸はようやく少し整った。命に別状はなさそうだと医師が言ったとき、家中の空気が一斉にゆるむ。母親はその場でしゃがみ込み、何度も床へ額をつけた。
「助かって、よかった」
アリエルはそれだけ言った。
「でも終わりではありません。同じ束がまだ町に残っているかもしれない。だから今日のことを、恥だと思わないでください。知らせてくれたのは正しいことです」
村を出る前に、アルヴァが彼女へ声をかけた。
「市場側は押さえた。青紐の束は二十三。うち九束がすでに売れている」
「多いですね」
「思ったより早く広がっている」
彼は彼女の顔を見た。
「戻ったら休め」
「その前に帳面を書きます。回収先、症状、売り手の特徴。今日のうちに整理しないと」
「医師の報告を待ってからでも」
「待っている間に抜けます」
声が硬かった。
アルヴァはそれ以上言わなかった。言えば、たぶん彼女はさらに硬くなる。
公爵邸へ戻るころには、空はすっかり夜の色だった。ケイリンが用意していた麦湯は、ぬるくならないよう布で巻かれている。ポラは何も聞かず、泥を落とす湯だけ先に用意した。
それでもアリエルは、自室へ寄る前に書庫へ向かった。
長机の上へ、青紐の束の写し、売買記録、回収先一覧を並べる。手が休まない。インク壺のふちにペン先を打つ音が、やけに乾いて響く。
――安かったから。
――匂いが違うと思ったのに。
――ごめんなさい。
母親の声が、まだ耳の内側に残っている。
アリエルは一度だけ目を閉じた。もし間に合わなかったら。もし今度は遅れたら。母のときも、こうして誰かが、少しだけ妙だと思いながら手遅れになったのではないか。そんな想像が喉のあたりに刺さる。
けれど泣くより先に、指が動く。売り手の髭の薄さを書く。荷車の車輪幅を書く。青紐の結び目の位置を書く。
泣いている場合ではないと、いつからか自分に言い聞かせるのが癖になっていた。
「まだやっていたのか」
いつの間にか、書庫の入口にアルヴァが立っていた。上着は脱いでいるが、まだ執務の顔のままだ。
「報告書にする前の整理です」
「それは見ればわかる」
彼は机へ近づき、麦湯の入った杯を置いた。
「飲め」
「あとで」
「今だ」
その言い方に、アリエルは少しだけむっとした。
「命令ですか」
「提案だ」
「口調が命令です」
「君が提案を後回しにするからだ」
渋々、杯を取る。温度が手に移る。飲んでみると、麦の味しかしないのに、喉の奥がようやく人間のものへ戻る気がした。
「子どもは助かる」
アルヴァが言う。
「医師がそう言っていた」
「はい」
「売り手も押さえる」
「はい」
「だから」
そこで彼は少しだけ言葉を選んだ。
「今日のすべてを、君ひとりの責任にするな」
アリエルは返事をしなかった。
できなかった、のほうが近い。
責任ではないと言われても、目の前で苦しむ子どもを見れば、もっと早く止められたかもしれないと考えてしまう。食卓の紙で気づけたのに。北門の裏口の話で、もっと早く。
「わたくしは」
ようやく声を出す。
「大丈夫です」
「そうか」
「ええ」
「なら、なおさら厄介だな」
アリエルは眉を上げた。
「どういう意味ですか」
「大丈夫な顔のまま、限界を越える」
アルヴァは淡々と言う。
「そういう人間を、私は何人か見てきた」
責めているのではない。ただ事実を言っているだけだとわかる声だった。
そのせいで、かえって胸が痛む。
「泣けばよかったですか」
気づけば、少し尖った言い方になっていた。
「そうは言っていない」
「取り乱したほうが人間らしいと?」
「言っていない」
「では」
「泣かなくて済むなら、そのほうがいい」
短く切られたその言葉に、アリエルは息を止めた。
アルヴァは机上の青紐の束を見たまま続ける。
「君の泣き顔を、私はまだ知らない」
その声音は静かだった。
「知らないままで済むなら、たぶんそのほうがいいと今日わかった」
書庫の灯りが、紙の端をやわらかく照らしている。
アリエルは杯を持つ手に少しだけ力を込めた。泣きたくなったわけではない。むしろ逆だ。泣く隙があるなら書くべきことがある。やるべきことがある。そう思っている。
なのに、そう言われると、どこか硬い場所へひとつ布を掛けられたみたいに、急に息がしやすくなる。
「……知る日が来ないように、働いてください」
やっとのことでそう返すと、アルヴァは小さく頷いた。
「もちろんだ」
「わたくしも働きます」
「知っている」
「なら結構です」
それで話は終わったはずなのに、アルヴァは机を離れなかった。代わりに、彼女が書いた回収先一覧の端へ、空いている欄を見つけて言う。
「ここに、売り手の立ち位置も入れろ。入口から近いか、逃げ道を背にしていたか」
「……たしかに、そのほうが動線を追えます」
「レンノンも使いやすい」
「はい」
並んで帳面を覗き込む形になる。肩が触れる距離ではない。それでも、同じ机の上で同じ被害を止めるために字を足していく時間は、妙に静かで、妙に濃かった。
夜半近く、ようやく書き終えたころには、外で風が変わっていた。
アルヴァは先に書庫を出たが、廊下の曲がり角で一度だけ立ち止まり、振り返って言った。
「明日の朝食には出ろ」
「契約条項ですね」
「それもある」
「ほかには」
「君がちゃんと食べるか見たい」
言い終えてから、自分で少しだけ面倒そうな顔をしたのが見えた。たぶん、言うつもりのなかった本音が混ざったのだろう。
アリエルは、その顔を見て、ほんのわずかに目を細める。
「では、出ます」
「そうしてくれ」
彼が去ったあと、書庫には紙とインクの匂いだけが残る。
泣き顔はまだ知らない。
その一文が、夜の奥で静かに沈んでいく。沈みながら、どこかで灯りのようにも残った。
アリエルは報告書の最後に、いつもより少しだけ強い筆圧で書き添えた。
――北門定期市、青紐の薬草束。偽薬草による実害、確認。
泣くより先に書く。
けれど今夜だけは、その文字の隣に誰かの手があったことを、忘れずにいられそうだった。




