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白い結婚ですが、雨上がりの森と母の手記は取り戻します  作者: 乾為天女


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9/12

第9話 泣き顔はまだ知らない

 偽薬草の被害が、紙の上の話ではなくなったのは、暑気の入り始めた午後だった。


 雨上がりの森に近い北の村から、息を切らせた使い走りの少年が公爵邸へ駆けこんできた。入口でファビーニョに止められかけ、半泣きの顔で叫ぶ。


 「薬だと思って飲ませたら、弟の息がおかしくなったんです!」


 朝の間にいたアリエルは、返事を書いていたペンをすぐに置いた。

 「何を飲ませたの」

 「咳止めだって、市で買った束を煎じて……母さんが、いつもの匂いと違うって言ったのに」

 「束は残ってる?」

 「少しだけ」

 「持ってきて」

 言いながら、彼女はもう立ち上がっていた。

 「ポラ、医師を。ユーソフ、北の村まで馬を二頭。レンノンがいれば呼んで。ケイリン、温めるだけで飲める麦湯を多めに。あと、吐き気があっても口に入れやすいもの」

 「はいっ」

 返事が一斉に飛ぶ。


 アルヴァが廊下の向こうから現れたのは、その指示が半分出そろったころだった。状況を一言で聞き取り、彼はそれ以上問わない。

 「私も行く」

 「領主が動いたほうが早いです」

 アリエルは頷いた。

 「市場側の販売停止命令も必要になります」


 北の村へ向かう馬上で、風が頬を叩いた。夏に近い光なのに、胸の内側だけが冷えている。


 少年の家は、村はずれの細い水路のそばにあった。戸を開けた瞬間、乾いた咳と苦い煎じ薬の匂いがぶつかる。寝台の上には、七つか八つほどの男の子が横たわっていた。額には汗、唇は少し青い。母親は鍋を抱えたまま真っ青になっている。


 「ごめんなさい、ごめんなさい、安かったから、効くって言われて」

 「今は謝らなくていいです」

 アリエルは真っ先に子どもの脈を取った。速いが、まだ拾える。

 「飲ませた量は」

 「茶碗に半分ほど」

 「いつ」

 「一刻も前です」

 「吐いた?」

 「少しだけ」


 到着した医師へ状況を引き渡しながら、アリエルは残っていた薬草束を受け取った。青い紐でまとめられ、見た目だけは整っている。だが近くで見ると、葉先の乾き方がそろいすぎていた。色も妙に明るい。押せば砕けるはずの部分が、妙な湿りを残している。


 「レンノン」

 振り向くと、いつの間にか彼女は土間の入口まで来ていた。

 「見て」

 レンノンは束を受け取り、鼻ではなく目で一枚一枚を追う。

 「乾燥工程が違います。混ざってますね。咳に使う葉の間へ、喉を焼く雑草が少量」

 「故意に?」

 「安くかさ増しするときの混ぜ方です」

 彼女はすぐに断じた。

 「しかも急ぎ。切り口の向きが揃っていない」


 アルヴァは家の外で、すでに村役人へ命を出していた。

 「今日の定期市で売られた薬草束を回収しろ。青紐のものはすべてだ。代金は公爵家が立て替える。売り手は逃がすな、ただし村人を脅すな」

 短い指示なのに、迷う余地がない。


 家の中では、アリエルが母親の肩へ手を置いた。

 「坊やは医師が診ます。いま必要なのは、何をどこで買ったか、誰が売っていたかを思い出すことです」

 「北門の市で……若い男で、ひげが薄くて、やけに口が上手くて」

 「荷札は」

 「見てないです。でも、同じ青い紐でした」

 「ありがとう。それだけで十分役に立ちます」


 泣き崩れそうな母親へ言うとき、アリエルの声は不思議なくらい落ち着いていた。


 落ち着いていなければならない、と体が先に覚えているような声だった。


 日が傾くころ、子どもの呼吸はようやく少し整った。命に別状はなさそうだと医師が言ったとき、家中の空気が一斉にゆるむ。母親はその場でしゃがみ込み、何度も床へ額をつけた。


 「助かって、よかった」

 アリエルはそれだけ言った。

 「でも終わりではありません。同じ束がまだ町に残っているかもしれない。だから今日のことを、恥だと思わないでください。知らせてくれたのは正しいことです」


 村を出る前に、アルヴァが彼女へ声をかけた。

 「市場側は押さえた。青紐の束は二十三。うち九束がすでに売れている」

 「多いですね」

 「思ったより早く広がっている」

 彼は彼女の顔を見た。

 「戻ったら休め」

 「その前に帳面を書きます。回収先、症状、売り手の特徴。今日のうちに整理しないと」

 「医師の報告を待ってからでも」

 「待っている間に抜けます」


 声が硬かった。


 アルヴァはそれ以上言わなかった。言えば、たぶん彼女はさらに硬くなる。


 公爵邸へ戻るころには、空はすっかり夜の色だった。ケイリンが用意していた麦湯は、ぬるくならないよう布で巻かれている。ポラは何も聞かず、泥を落とす湯だけ先に用意した。


 それでもアリエルは、自室へ寄る前に書庫へ向かった。


 長机の上へ、青紐の束の写し、売買記録、回収先一覧を並べる。手が休まない。インク壺のふちにペン先を打つ音が、やけに乾いて響く。


 ――安かったから。

 ――匂いが違うと思ったのに。

 ――ごめんなさい。


 母親の声が、まだ耳の内側に残っている。


 アリエルは一度だけ目を閉じた。もし間に合わなかったら。もし今度は遅れたら。母のときも、こうして誰かが、少しだけ妙だと思いながら手遅れになったのではないか。そんな想像が喉のあたりに刺さる。


 けれど泣くより先に、指が動く。売り手の髭の薄さを書く。荷車の車輪幅を書く。青紐の結び目の位置を書く。


 泣いている場合ではないと、いつからか自分に言い聞かせるのが癖になっていた。


 「まだやっていたのか」

 いつの間にか、書庫の入口にアルヴァが立っていた。上着は脱いでいるが、まだ執務の顔のままだ。

 「報告書にする前の整理です」

 「それは見ればわかる」

 彼は机へ近づき、麦湯の入った杯を置いた。

 「飲め」

 「あとで」

 「今だ」


 その言い方に、アリエルは少しだけむっとした。

 「命令ですか」

 「提案だ」

 「口調が命令です」

 「君が提案を後回しにするからだ」


 渋々、杯を取る。温度が手に移る。飲んでみると、麦の味しかしないのに、喉の奥がようやく人間のものへ戻る気がした。


 「子どもは助かる」

 アルヴァが言う。

 「医師がそう言っていた」

 「はい」

 「売り手も押さえる」

 「はい」

 「だから」

 そこで彼は少しだけ言葉を選んだ。

 「今日のすべてを、君ひとりの責任にするな」


 アリエルは返事をしなかった。


 できなかった、のほうが近い。


 責任ではないと言われても、目の前で苦しむ子どもを見れば、もっと早く止められたかもしれないと考えてしまう。食卓の紙で気づけたのに。北門の裏口の話で、もっと早く。


 「わたくしは」

 ようやく声を出す。

 「大丈夫です」

 「そうか」

 「ええ」

 「なら、なおさら厄介だな」


 アリエルは眉を上げた。

 「どういう意味ですか」

 「大丈夫な顔のまま、限界を越える」

 アルヴァは淡々と言う。

 「そういう人間を、私は何人か見てきた」


 責めているのではない。ただ事実を言っているだけだとわかる声だった。


 そのせいで、かえって胸が痛む。


 「泣けばよかったですか」

 気づけば、少し尖った言い方になっていた。

 「そうは言っていない」

 「取り乱したほうが人間らしいと?」

 「言っていない」

 「では」

 「泣かなくて済むなら、そのほうがいい」


 短く切られたその言葉に、アリエルは息を止めた。


 アルヴァは机上の青紐の束を見たまま続ける。

 「君の泣き顔を、私はまだ知らない」

 その声音は静かだった。

 「知らないままで済むなら、たぶんそのほうがいいと今日わかった」


 書庫の灯りが、紙の端をやわらかく照らしている。


 アリエルは杯を持つ手に少しだけ力を込めた。泣きたくなったわけではない。むしろ逆だ。泣く隙があるなら書くべきことがある。やるべきことがある。そう思っている。


 なのに、そう言われると、どこか硬い場所へひとつ布を掛けられたみたいに、急に息がしやすくなる。


 「……知る日が来ないように、働いてください」

 やっとのことでそう返すと、アルヴァは小さく頷いた。

 「もちろんだ」

 「わたくしも働きます」

 「知っている」

 「なら結構です」


 それで話は終わったはずなのに、アルヴァは机を離れなかった。代わりに、彼女が書いた回収先一覧の端へ、空いている欄を見つけて言う。

 「ここに、売り手の立ち位置も入れろ。入口から近いか、逃げ道を背にしていたか」

 「……たしかに、そのほうが動線を追えます」

 「レンノンも使いやすい」

 「はい」


 並んで帳面を覗き込む形になる。肩が触れる距離ではない。それでも、同じ机の上で同じ被害を止めるために字を足していく時間は、妙に静かで、妙に濃かった。


 夜半近く、ようやく書き終えたころには、外で風が変わっていた。


 アルヴァは先に書庫を出たが、廊下の曲がり角で一度だけ立ち止まり、振り返って言った。

 「明日の朝食には出ろ」

 「契約条項ですね」

 「それもある」

 「ほかには」

 「君がちゃんと食べるか見たい」


 言い終えてから、自分で少しだけ面倒そうな顔をしたのが見えた。たぶん、言うつもりのなかった本音が混ざったのだろう。


 アリエルは、その顔を見て、ほんのわずかに目を細める。

 「では、出ます」

 「そうしてくれ」


 彼が去ったあと、書庫には紙とインクの匂いだけが残る。


 泣き顔はまだ知らない。


 その一文が、夜の奥で静かに沈んでいく。沈みながら、どこかで灯りのようにも残った。


 アリエルは報告書の最後に、いつもより少しだけ強い筆圧で書き添えた。


 ――北門定期市、青紐の薬草束。偽薬草による実害、確認。


 泣くより先に書く。


 けれど今夜だけは、その文字の隣に誰かの手があったことを、忘れずにいられそうだった。



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