第8話 白い結婚でも、妻の盾にはなる
初夏の視察は、花ではなく土の匂いから始まった。
北辺公爵領の南寄りにある試験畑では、雨上がりの森から移した苗が、列ごとに生育の差を見せている。高い畝では葉の色が濃く、低い畝では薄い。水路の幅を指で測るように見て回る職人たちの間を、王都から来た視察団が歩いていた。
アルヴァの隣を歩きながら、アリエルは裾を少しだけ持ち上げる。昨日の夕立で土がやわらかい。だが、こういう足元のほうが、見栄えだけ整えた畑より信頼できる。
「こちらが試験区画です」
彼女は案内役のひとりとして、視察団へ向き直った。
「同じ種でも、去年の流通品と母の旧記録に沿って育てたものでは、香りと効能の立ち方に差が出ます。乾燥工程に入る前の水分量も」
「ずいぶん熱心ですのね」
言葉を挟んだのは、王都から来たヴェルナール伯爵夫人だった。翡翠色のドレスの裾は一度も土を踏んでいないように見える。横に並ぶ娘は扇で日差しを避けながら、畑より人の顔色を見ている。
「熱心でなければ困ります」
アリエルは答えた。
「ここは北辺の薬草流通に直結する場所ですから」
「まあ。公爵夫人というより、雇われの管理人みたい」
娘のほうが笑う。
「白い結婚というのは便利ですわね。妻の仕事をしているのか、使用人の真似をしているのか、外からではわかりませんもの」
周囲の空気が一段だけ冷えた。
視察団の後ろを歩いていたユーソフが、すぐに何か言い返しそうな顔になる。だが一歩早く、アリエルが口を開いた。
「わからないなら、いま説明したばかりです」
「説明?」
「ええ。ここで何を育て、何を直しているか。聞く気がある方にはわかります」
伯爵夫人の娘は扇の陰で口元を動かした。
「怖い。やはり王都育ちの令嬢ではないのね」
「王都育ちですよ」
アリエルはにこりともせず返す。
「だからこそ、見た目だけ整えた説明がどれほど役に立たないか知っています」
少し離れた位置で見ていた商務官が咳払いをした。気まずさをごまかすような咳だ。
だが、伯爵夫人は引かなかった。
「公爵閣下も大変ですこと。期限付きの奥方にここまで好きにさせて」
「期限付きだからこそ、放っておいてもよろしいのでは?」
アリエルが言うと、伯爵夫人の目が細くなった。
「契約の妻は、契約が切れれば他人でしょう?」
「契約があるうちから他人扱いする方が、礼を欠いていると思いますが」
「礼?」
そのときだった。
これまで試験畑の土を見ていたアルヴァが、ようやく顔を上げた。
「その通りだ」
低い声は大きくないのに、場のざわめきを一度で止めた。
「礼の話をするなら、先に覚えていただきたい」
彼はアリエルのほうへ半歩寄り、その手を取った。
手袋越しでもわかる、しっかりした熱だった。
視察のために並んで歩いていただけなら、ここまで近くはない。だが今のそれは、誰の目にもはっきり“伴侶を庇う男”の距離だった。
アリエルの心臓が、ひどく不意を打たれる。
「私の妻への無礼は、公爵家への無礼だ」
アルヴァは伯爵夫人へ視線を向けたまま言った。
「白い結婚であろうと、別寝室であろうと、朝食の席で政治の話をしようと、彼女が私の妻である事実は変わらない」
視察団の数人が目を見開く。
「そしてこの試験畑の改良は、彼女の知見なしでは進まなかった。役割を知らずに侮るのは自由だが、その無知をこちらが愛想よく許す義理はない」
伯爵夫人の娘が、扇を下ろしたまま固まっている。
伯爵夫人は顔色を変えないよう努めているようだったが、耳飾りだけがわずかに揺れた。
「閣下、わたくしたちはただ」
「ただ、何だ」
アルヴァの声音は淡い。
「土を踏まずに畑を語り、帳面を見ずに流通を語り、妻へ向ける言葉の重さも量れない。それなら視察ではなく見物だろう」
「……失礼を」
「そう思うなら、次からは控えてほしい」
それで終わりだった。
怒鳴り声も、見せつけるような威圧もない。ただ、切れ味のいい刃で余計な布だけ裁ち落としたように、場の上下が一度で決まる。
アリエルは手を取られたまま、ようやく息をした。
嬉しい、と思ったのが先だった。悔しいくらい先だった。
そのあとで、これは公爵として当然の振る舞いだ、契約上の防御だ、見せ方の一部だ、と頭があわてて理屈を並べ始める。だが胸の速さは、その理屈を待ってくれない。
「続ける」
アルヴァが彼女だけに聞こえる程度の声で言った。
「歩けるか」
「……歩けます」
それだけ返すのに、少しだけ時間がかかった。
視察の後半では、誰も白い結婚を面白半分に口にしなかった。代わりに水路の傾斜、乾燥小屋の通風、薬草束の保管温度といった、ようやく本題らしい質問が飛ぶ。アリエルもそれに答えた。答えながら、手はいつの間にか離れていたのに、掌の感触だけが妙に残る。
区画の見回りが終わるころ、レンノンがひょいと現れた。視察団へ混ざるには不向きな服装だが、誰よりも荷車の轍を見ている顔だ。
「北門から来た荷車、ひとつだけ空荷のふりをしてました」
彼女はさりげなくアリエルへ告げる。
「見物客が多い日に合わせて、余計なものを動かしたいのでしょう」
「どこへ」
「乾燥小屋の裏手。夜になれば、もう少し見えます」
「わかりました」
アリエルが頷くと、レンノンは視線だけでアルヴァの手元を示し、ほんの少しだけ眉を上げた。見たのだろう。面白がっている。
その日の帰りの馬車は、行きより静かだった。
向かいの席で、アルヴァは視察の記録を書いている。窓の外を過ぎる草地は、夕方の風で波のようにうねっていた。アリエルは膝の上で手袋の指先をそろえる。
「先ほどは」
ようやく口を開く。
「助かりました」
「ああ」
アルヴァはペンを止めた。
「気にするな」
「気にします」
「なぜ」
「人前で、ああいうふうに庇われるのに慣れていないので」
答えたあと、自分で少しだけ困る。正直すぎたかもしれない。
だがアルヴァは、笑いもしなければ変に慰めもしなかった。
「慣れなくていい」
「え」
「慣れるほど、同じことを言わせたくない」
アリエルはまた言葉を失う。
白い結婚。契約。条件。期限。
それらの言葉はどれも、線を引くためのものだ。なのに今、線の内側へ入ってきたのは、理屈よりずっと体温のある言葉だった。
「公爵さま」
「何だ」
「そういうことを、あまり簡単に言わないでください」
「簡単ではない」
「なお悪いです」
アルヴァは少しだけ考えるように視線を落とし、それから窓の外へ向けた。
「今後は気をつける」
「本当に?」
「たぶん」
「またそれですか」
「君が婉曲表現を求めるからだ」
「求めましたけれども」
馬車が小さく跳ねた拍子に、二人の会話も少しだけほどける。
公爵邸へ戻るころには、夕焼けが石壁を赤く染めていた。降り際、アルヴァは自然な動きで彼女へ手を差し出す。つい数刻前の試験畑ほど見せつける形ではない。ただ、段差で裾を汚させないための、ごく当たり前の手だ。
それなのに、アリエルはその手を見るだけで、胸の奥が少し忙しくなる。
取った瞬間、契約だと言い聞かせる。
取ったあと、言い聞かせたこと自体が、もう遅い気がした。




