第7話 「いつもどこでどうやって書いてる?」
雨宿りの食卓を始めてから十日ほどで、朝の間の入口には、茶菓子の皿とは別の小さな籠が置かれるようになった。
つやのない柳で編んだ、手のひら二つ分ほどの籠だ。最初はポラが花びらでも入れるのかと思ったらしいが、今では誰もが用途を知っている。言いにくいことを書いて入れるための籠。名前はいらない。肩書きもいらない。紙の大きさも文字の上手さも問わない。ただ、困っていることを一枚に書いて折りたたみ、そっと置いていけばいい。
最初に入っていたのは、実に短い紙だった。
――婚約者が、わたしの話を最後まで聞きません。どうすれば途中で寝ませんか。
それを読んだケイリンが、朝の間で盛大にむせた。
「寝るんですか、途中で」
「寝るのでしょうね」
アリエルは紙を裏返した。
「相手がつまらないのではなく、食後で眠いだけの可能性もありますが」
「その可能性、慰めになります?」
「半分くらいは」
「半分しかならないですね」
返事には、まず夕食後ではなく歩きながら話してみること、どうしても聞かせたい用件は最初の三行で言うこと、寝たら毛布はかけずに窓を少し開けること、と書いた。最後の一行だけ、少しだけ意地悪に。
翌日、その返事を写した紙が市場のパン屋に貼り出されていた。誰が貼ったのかはわからない。だが、昼には洗濯場にも、夕方には南門の荷車小屋にも同じ文面が回っていた。
その次に来た紙は、もう少し切実だった。
――夫の家で何を話しても「前の家ではそうだったのか」と言われます。前の家の人間であることを、いつまで謝ればいいでしょう。
アリエルはしばらく返事を書けなかった。
謝らなくていい、とだけ書くのは簡単だ。だが、簡単な言葉は、ときどき一番届かない。
結局彼女は、便箋一枚を丸ごと使った。謝る回数ではなく、今日の家で何を増やしたかを数えること。湯を沸かした、帳面をつけた、子どもに上着を着せた、床を磨いた、何でもいい。今日の家で今日の自分がやったことを、自分の中で消さないこと。前の家を知っている人間であることは罪ではなく、むしろ比べて直せる強みになること。最後に、小さく書き添える。
――それでも腹が立つ日は、相手の靴紐をきれいに結び直してから、心の中で二回だけ悪態をついてください。三回目は癖になるので二回まで。
それが妙に受けた。
朝の間の籠には日ごとに紙が増えた。嫁ぎ先の母親の顔色が怖い、働きたいのに兄が笑う、弟が恋文の代筆を頼んでくる、店の隣の猫が看板の上で寝るので客が入りにくい、けれど猫は可愛いから困る、など、深刻さも可笑しみもばらばらだ。
アリエルは、夕方に紙を受け取り、夜に返事を書くようになった。食卓のあと、自室の小机へ向かう。ポラが灯りを整え、ケイリンが夜食と称して薄い焼き菓子を置き、返事の書き終わった紙は朝一番で朝の間へ運ばれる。
誰が書いているのか、はっきり知る者は少ない。だが、気づいている者はいるらしかった。
「最近、町の娘たちがやたら紙を持ち歩いてます」
ユーソフが朝食の席で、たいそう真面目な顔で報告した。
「恋文かと思いましたが、どうも違うようです。『二回まで』とか『塩をひとつまみ先に入れる』とか、断片だけ聞こえるので」
向かいのアリエルは、紅茶杯を置く手を止めない。
「料理の覚え書きかもしれません」
「恋文に塩を先に入れるんですか?」
「恋の味つけかもしれません」
「よくわかりません」
その隣で、アルヴァは何も言わなかった。ただ、薄く焼いたパンに蜂蜜を落としながら、紙束を一度だけ見た。アリエルはなぜか、その視線が少しだけ落ち着かない。
雨宿りの食卓は、今や茶の席というより、小さな回覧板みたいになっていた。返事の中でも特に評判なのは、切実な悩みにきちんと答えながら、最後の一行で肩の力を抜かせる書き方だ。
その日の相談紙には、こんなものが混ざっていた。
――兄が定期市の荷受けを手伝っています。最近、青い紐で束ねた薬草束だけ、夜明け前に裏口から運び込まれることがあるそうです。帳面に載る前に数が減る日もあります。これは普通ですか。
アリエルの目が細くなる。
ケイリンが皿を片づけながら気づいた。
「美味しくない紙でした?」
「ええ。舌に残る類いです」
アリエルはその一枚だけ脇へ避けた。
「あとでレンノンと見ます」
返事には、詳細を知るなら荷札の色と受領印の位置を確かめてほしいこと、ひとりで問い詰めないこと、危ないと思ったら紙を入れた本人も荷から離れること、と書いた。最後に少しだけ柔らかくする。
――普通ではありません。でも、普通ではないと気づけたのは立派です。気づける人が一人増えるだけで、不正はずいぶんやりにくくなります。
昼には、レンノンがその紙を読んでいた。
「北門定期市の裏口ですね」
彼女は返事の写しを机に置く。
「青紐の荷が帳面に載る前に減るなら、荷を抜いてから“まともに見える数”へ帳尻を合わせている可能性が高いです」
「相談紙からそこまでわかる?」
ケイリンが感心したように首を傾げる。
「わかります。誰かがわざわざ夜明け前の裏口と書いた。時間帯と場所が具体的すぎる」
レンノンは淡々と答えた。
「つまり、見た人がいる」
その夜、アリエルはいつものように自室で返事を書いていた。
灯りの下で紙を広げる。ペン先が乾かないように、ポラが小皿に水をひいてくれている。窓の外では、初夏の虫がまだ控えめに鳴いていた。
今日の相談紙は五枚。ひとつは恋。ひとつは家計。ひとつは義姉の無遠慮。ひとつは看板猫の続報で、どうやら客は減るどころか増えたらしい。最後の一枚は、字がやけに整っていた。
――返事を書く人へ。いつも助かっています。ところで、あなたはどうやってこんなに短く、人を怒らせず、でも誤魔化さずに書いているのですか。
アリエルはその紙を前に、しばらく止まった。
からかわれているのか、本気なのか、少しわからない。だが嫌な感じはなかった。むしろ、妙に見られている気がする。
「アリエルさま」
ノックのあと、ポラが顔を出した。
「公爵さまが、今少しよろしいかと」
「今?」
「はい。書庫へ来てほしいそうです」
嫌な予感というほどではないが、胸の奥がこそばゆくなる。
書きかけの返事を伏せてから、アリエルは書庫へ向かった。夜の書庫は、昼よりも紙の匂いが濃い。窓際の長机に、アルヴァがひとりで立っていた。その前には、帳面が二冊と、見覚えのある小さな紙が数枚並べられている。
「お呼びですか」
「ああ」
アルヴァは紙の一枚を指先で寄せた。
「確認したいことがある」
それだけ言われると、罪でも暴かれそうな気分になる。
「こちらは北門定期市の荷受けについての相談紙の返答だ」
「……はい」
「こちらは、昨日あなたがレンノンへ渡した覚え書きだ」
「はい」
「そしてこちらは」
彼は最後の一枚を持ち上げた。
「今朝、ユーソフへ渡した厨房用の塩漬け肉の改善案だ」
アリエルは、そこでようやく理解した。
三枚とも、行の折れ方が同じだった。句読点の後ろの余白、少し長めになる『て』の払い、文章の最後で一度だけ息を抜く癖。自分の文字は崩しているつもりでも、消えない骨格がある。
アルヴァはいたって真面目な顔で言った。
「いつもどこでどうやって書いてる?」
一拍、沈黙が落ちる。
次の瞬間、アリエルは吹き出した。
笑うつもりではなかった。むしろ、言い逃れの台詞を探していた。だが、あまりにも真顔だったのだ。秘密の見抜き方が、帳簿不正と同じ温度だったから。
「そんな聞き方がありますか」
「あると思った」
「ありません」
「では別の聞き方をすべきだったか」
「そうですね。せめて『もしやあなたですか』くらいの婉曲は」
「必要か」
「必要です。秘密の持ち主への礼儀として」
笑いながら言うと、アルヴァの口元がほんの少しだけ動いた。笑った、というより、笑い方を思い出した人の顔だった。
「礼儀を欠いたのは認める」
「素直ですね」
「事実だからな」
そのやりとりの端で、書庫の入口からごく小さな物音がした。見ると、扉の影でユーソフが本を抱えたまま固まっている。どうやら入るに入れなくなったらしい。
「ユーソフ」
アルヴァが呼ぶ。
「聞いていたか」
「き、聞いていません。いえ、少しだけ聞こえましたが、塩漬け肉の改善案のくだりまでです」
「十分聞いていますね」
アリエルが言うと、ユーソフは耳まで赤くした。
「申し訳ありません。ですが、その、朝の間の紙、とても助かっている者が多いので……」
「知っています」
アリエルは息を整えた。
「隠していたのは、大げさにされたくなかったからです。誰が書いているかより、中身が役に立つかどうかのほうが大事でしょう」
「その判断は正しい」
アルヴァは頷いた。
「だからやめろとは言わない」
「では、何を確認したかったのですか」
「紙が増えている」
「はい」
「負担ではないか」
その一言だけ、声の温度が変わった。
アリエルは少しだけ目を丸くした。
「……負担ではあります」
正直に言う。
「でも、嫌ではありません。むしろ、書いた返事が別の人にも回って、少しずつ役立っていくのが嬉しいんです」
「なら続ければいい」
「ただ」
アリエルは、机上の相談紙を見た。
「北門定期市のように、暮らしの悩みの形をしているのに、実際は荷の流れや不正につながる紙も増えています。だからこれからは、返事と別に、調査用の写しを残します」
「賛成だ」
「レンノンにも共有します」
「必要なら護衛をつける」
そこでまた、笑いの残りが胸の奥で揺れた。
相談紙の秘密を見抜かれたのに、責められた感じはしない。むしろ、机の幅が少し広がったような気がする。
「では公爵さま」
アリエルはわざと、少しだけ改まって言った。
「今後、同じような確認をするときは、もっと婉曲な聞き方を覚えてください」
「努力する」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんでは困ります」
「では、次は書面で提出する」
「余計に困ります」
また笑ってしまった。
そのときの笑いは、評議会を抜けた日にも、契約書へ赤字を入れた日にも出なかった種類のものだった。面白いと安心が、同じ場所でほどけた笑い。
書庫を出るころには、夜気が少しやわらいでいた。
廊下を歩きながら、アリエルは自分でも不思議に思う。契約の夫と、帳簿と相談紙の筆跡を並べて笑う夜が来るなんて、王都の広間に立っていたあの日には想像もしなかった。
そして書庫の中では、残されたアルヴァが一枚の返答紙を見つめていた。
――三回目は癖になるので二回まで。
彼はその一文を読み返し、ほんの少しだけ口元をゆるめる。
言葉で人を叱りすぎず、甘やかしすぎず、立たせ直す書き方だった。そういうものを夜ごと自室で書いている女が、目の前にいる。
白い結婚は、たぶん思ったより忙しい。




