第6話 嗅がなくても見抜ける人
雨宿りの食卓を始めて五日目、ポラがひとりの来客を連れてきた。
背の高い女だった。外套の裾には旅の埃が積もり、帽子のつばには王都で降られたらしい雨の跡が乾いて残っている。年はアリエルより少し上だろうか。目元は疲れているのに、視線だけは妙に鋭かった。
「レンノンと申します」
彼女は礼をしたあと、朝の間に並んだ焼き菓子を見て、ほんの少し困ったように笑った。
「最初に申し上げておきますが、わたしは匂いの感想役には向きません」
その言い方が妙に正直で、アリエルは席を勧める手を止めなかった。
「向かなくても結構です。今日は話を聞きたいので」
「助かります。鼻の話になると、先に気をつかわれることが多いんです」
ケイリンが出しかけていた香草茶の説明をのみ込み、代わりに湯気の柔らかい白湯を置いた。そういうところが気が利く。
同席していたアルヴァが言う。
「レンノンは王都と北辺を行き来しながら、市場の流れと荷の出入りを見ている」
「見ているだけでは食べていけないので、ときどき人に教えます」
レンノンは椅子へ腰を下ろした。
「ただし、鼻はもう役に立ちません。昔は香料店で働いていましたが、熱を出したあとから戻らなくなりました」
さらりとした口調だったが、そこへ至るまでの面倒は、きっとさらりでは済まなかっただろう。
「それでも続けたんですね」
アリエルが言うと、レンノンは片眉を上げた。
「食べるために」
「だけですか」
「……半分は。あとの半分は、悔しかったので」
その半分が聞ければ十分だと、アリエルは思った。
「では、本題を」
アルヴァが卓上へ写しを二通置いた。ひとつは北辺市場の荷受け記録、もうひとつは王都側で回収された商会の売付帳だった。
「アリエルが食卓で拾った話と、レンノンが持ち帰った記録を照合したい」
レンノンは紙へ視線を落とした瞬間、顔つきが変わった。疲れが消えるわけではない。ただ、目の焦点が一気に鋭くなる。
「この束ね方」
彼女は売付帳の欄外を指した。
「青い紐の荷と、灰色の紐の荷が同じ筆で処理されていますね」
「紐の色で何か変わるんですか」
アリエルがたずねる。
「表向きは仕分け区分です。でも、まともな商人なら色分けだけで終わらせません。荷札にも記号を入れる。なのにこの帳面では、青紐の荷だけ記号がない」
「省略ではなく?」
「省略ではなく、混ぜ物の印です」
断言が早い。だが感覚で言っているのではないとわかる落ち着きがあった。
「どうしてそう思うんです?」
「王都南門で似た処理を三度見ました。一度目は香料、二度目は乾燥茶葉、三度目が薬草。まともな荷と、急いで見た目だけ揃えた荷を同じ書式に押しこむとき、帳面はこういう怠け方をするんです」
レンノンは次に、北辺側の荷受け記録へ指を移した。
「それと、ここの数字」
彼女が示したのは、月ごとの入荷量ではなく、受領印の間隔だった。
「同じ担当が押しているように見えて、二十日以降だけ紙を押さえる癖が違う。親指の位置が左へずれている」
「担当が変わった?」
「あるいは、本物の担当名を借りた別人が押した」
アリエルは息をひそめた。匂いではなく、紙の押さえ方でそこまで拾うのか。
「鼻が利かないぶん、目が暇なんです」
レンノンが何でもないことのように言う。
「会話でも同じです。言い淀み、視線、筆跡、靴の泥。香りが消えたら、他のものがうるさく見えるようになりました」
その言い方に、自嘲はなかった。ただの事実だった。
「好きです、その見方」
アリエルが言うと、レンノンは少し驚いたようにまばたいた。
「珍しいですね。たいていの人は気味悪がるのに」
「役に立つ観察を気味悪がるのは損です」
「それも珍しい」
ケイリンが焼きたての塩味の薄焼きを運んできて、卓の空気が少しやわらぐ。
「ところで」
レンノンは薄焼きを一枚手に取りながら言った。
「王都の薬材商会を全部洗うのは骨が折れます。ですが、北辺へ流れてくる荷だけに絞るなら、三つに減ります」
「どこですか」
「クラフト商会、ヴァレル商会、あと名前だけ新しいマーディン商会。新しいといっても、帳面の癖は古い商会のものです」
アリエルはすぐに記録した。
「その中で、継母セラフィナとつながりそうなのは」
「今のところヴァレル商会が濃いです」
レンノンは答える。
「ハーグレイヴ伯爵家の使用人に酒を奢って情報を抜いていた男を、二度見ています。香水ではなく、金具の傷で覚えました。鼻が利いたころより、今のほうが忘れません」
卓の向こうで、アルヴァの指が静かに組まれた。
「証言にできるか」
「すぐには無理です。ですが、荷の流れと人の出入りを重ねれば、帳面より先に逃げ道を塞げます」
「十分だ」
打ち合わせが一段落すると、アリエルはレンノンへ向き直った。
「お願いがあります」
「報酬しだいです」
即答に、アリエルは少し笑った。
「気に入りました。報酬は用意します。お願いしたいのは、北辺で働いてほしいんです」
レンノンの目がわずかに細くなる。
「匂いの利かない情報屋を?」
「嗅がなくても見抜ける人を、です」
アリエルは言った。
「雨宿りの食卓にも、森の再建にも、帳面と人の綻びを拾える人が要ります。匂いが戻るまでの仮置きではなく、その見方そのものに仕事をお願いしたい」
言い終えると、部屋がしんとした。
ポラがそっと茶を注ぎ足す音だけがする。
レンノンはしばらく何も言わなかった。いつもの観察の目ではなく、言葉をどう受け取るか迷っている目だった。
「……そういう誘われ方は、久しぶりです」
やがて彼女は低く言った。
「だいたいは、仕方なく使うか、情けで置くか、そのどちらかでした」
「どちらも違います」
アリエルはきっぱり答えた。
「あなたに見えるものが必要なんです」
レンノンは手の中の薄焼きを見つめ、それから小さく息を吐いた。
「では引き受けます。北辺の荷を洗いながら、王都側の綻びも拾いましょう」
「助かります」
「ただし」
彼女は少しだけ口元を上げた。
「面倒ごとは多いですよ」
「こちらも似たようなものです」
「でしょうね」
そのあと三人で、荷の流れ、定期市の配置、商人の常宿、帳面の写しをどこまで集めるかを詰めた。話せば話すほど、北辺の森と王都の商会が別々の出来事ではなく、ひとつの利権網でつながっている輪郭が濃くなる。
手記に残された母の疑い。食卓で拾った生活の違和感。レンノンが持ち帰った市場の綻び。
点だったものが、線になった。
打ち合わせが終わって朝の間を出るとき、レンノンがふと立ち止まった。
「公爵夫人さま」
「アリエルで結構です」
「では、アリエルさま」
彼女は廊下の窓から見える曇り空を見た。
「わたし、雨の匂いはもうわかりません。でも、雨の前の人の動きなら見えます。荷は隠せても、焦り方までは隠せません」
「心強いです」
「ならよかった」
レンノンが去ったあと、アリエルは廊下にしばらく立っていた。
奪われたものを数えるだけでは、前へは進めない。だが、失ったあとに残った力を見つけ、それを仕事へ変える人がいる。レンノンも、カラニも、たぶん自分もそうだ。
その日の夜、アリエルは母の手記の余白に小さく書きつけた。
――嗅がなくても見抜ける人が味方になった。森を壊す手は、人の綻びを隠しきれない。
母の記録の続きを、自分の文字で書く。
その感触が、ようやく少しだけ手になじみ始めていた。




