第5話 雨宿りの食卓、はじめます
母の手記を見つけた日の夕方、アリエルは自室の机に紙を広げた。
読み進めるたび、胸の奥に火種のようなものが増えていく。怒りだけではない。悔しさだけでもない。母が最後まで諦めずに残した記録を、今度は自分が動かす番だという、前向きな熱だった。
だが記録だけでは足りない。
手記には土と水と温度のことが書かれている。けれど、暮らしている人の小さな違和感は、帳面には残りにくい。誰がどこで困っているのか。何を飲み、何を使い、何を我慢しているのか。そこを聞かなければ、森の異変は生活につながらない。
アリエルは紙の端に、ひとつ題を記した。
雨宿りの食卓。
「食卓、ですか?」
翌朝、その紙を見せられたポラが不思議そうに首をかしげた。
「茶会ではなく?」
「茶会だと、招かれる側が少し構えませんか」
アリエルは言った。
「でも、雨が降った日に少し寄って、お茶を飲んで、ついでに話していく場所なら、もう少し肩の力が抜けるでしょう。恋のことでも、仕事のことでも、家のことでも」
「愚痴でも?」
「もちろん」
「それは人気が出そうです」
ポラが笑うと、隣で菓子試作中だったケイリンが振り返った。
「人気が出るのは結構ですが、菓子は誰が作るんです?」
「あなた」
アリエルが即答すると、ケイリンは眉を寄せた。
「当然みたいに言わないでください」
「あなたのりんごの蜜煮、もう一度食べたいので」
「そういう言い方は少しずるい」
「断ります?」
「……断りません」
言いながら、彼はすでに粉の配合を考えている顔になっていた。
場所は大食堂の脇にある小さな朝の間に決めた。窓が大きく、庭へ面していて、人の出入りを見て圧迫されない。机は一列ではなく、小さな丸卓を三つに分ける。そうすると、深刻な話をしたい者も、ただ菓子を食べたい者も座りやすい。
「参加するのは侍女だけでなく?」
ポラが名簿を手に確認する。
「厨房、洗濯場、温室、村の食堂、希望があれば誰でも」
「奥方さま、自分で面倒を増やしていますよ」
ケイリンが言う。
「承知のうえです」
「知ってました」
最初の日、集まったのは七人だった。
ポラのほか、洗濯場の年上の女性、温室で苗の世話をする若い娘、食堂の手伝いをしている二児の母、裁縫部屋の見習い、そしてなぜかケイリン本人も席の端にいた。
「あなたも座るんですか」
アリエルがたずねると、ケイリンは平然と答えた。
「自分の菓子がどこで褒められるか確認したいので」
「正直ですね」
「正直じゃない料理人は危ないです」
その日の菓子は、蜂蜜を少しだけ利かせた黒麦の焼き菓子と、森胡椒をひとかけら混ぜた杏の煮込みだった。華やかではないが、もう一口ほしくなる味だ。香りがやわらかい分、部屋の空気まで和らいだ。
最初は皆、姿勢が硬かった。
公爵夫人が始めた集まり。話していいと言われても、どこまで話していいのかわからない。そういう慎重さが、茶碗の持ち方ひとつにも出ていた。
だからアリエルは、自分から失敗談を話した。
「昨日、森で足場の悪い斜面を強気に下りようとして、カラニに止められました」
「止めて正解です」
ポラが即座に言う。
「北辺のぬかるみは見た目より裏切りますから」
「そうらしいですね。靴のほうが先に学びました」
くすっと笑いがこぼれる。
そこからは少し早かった。裁縫見習いの娘が、婚約者の母に針目の細かさまで口を出されると愚痴をこぼし、洗濯場の女性が「それは結婚前に一度怒っておいたほうがいい」と真顔で言う。食堂の手伝いをしている女性は、夫が新しい保存食を嫌がるくせに体調を崩すと薬草茶だけは飲むのだと、半分あきれて半分笑って話した。
話題はころころ変わる。恋、仕事、姑、給金、寒さ、靴擦れ、眠れない夜。
アリエルは茶を注ぎ足しながら、そのどれもを軽く扱わなかった。些細に見える困りごとが、たいてい大きな歪みの入口になると知っているからだ。
「そういえば」
温室の若い娘が、焼き菓子のかけらをつまみながら言った。
「最近、匂いが変だって言う人が増えました」
部屋の空気が少しだけ変わる。
「匂い?」
アリエルがたずねると、娘は首をかしげた。
「変というか、わかりにくいんです。煮込みの焦げに気づくのが遅れたり、薬草を干しても香りが立たなかったり。わたしは平気なんですけど、うちの兄は前より鈍くなったって」
「市場でも聞きますね」
食堂の手伝いの女性が続ける。
「安い薬草束が王都からたくさん入るようになってから、頭痛がするって客が何人かいました。効きが悪いくせに、見た目だけは揃ってるやつ」
「見た目だけ揃ってる薬草、嫌ですね」
ケイリンが顔をしかめる。
「料理でもそうですが、見かけを先に整えたものは、だいたいどこかをごまかしています」
アリエルは手元の小さな記録帳へ、さりげなく書きつけた。
匂いがわかりにくい。王都から安い薬草束。頭痛。見た目だけ整う。
「どこの商人が持ち込んでいるかわかりますか」
彼女が聞くと、洗濯場の女性が「青い紐で束ねた荷が多い」と言い、食堂の女性は「北門の定期市に来る行商が、最近やけに羽振りがいい」と教えてくれた。
声は、やはり暮らしの中に落ちている。
集まりの終わりごろには、最初の硬さはかなり消えていた。ポラが二杯目の茶を配り、ケイリンが皿の減り方を見てにやりとし、温室の娘が「次は友だちも連れてきていいですか」と言う。
「もちろん」
アリエルは答えた。
「来たい人が来て、言いたいことを少し言って、帰るときに少し楽になっていたら、それで十分です」
皆が帰ったあと、朝の間には菓子の匂いと、ほどけた会話の余韻だけが残った。
片づけをしながら、ポラがしみじみ言う。
「不思議ですね。もっと気をつかう会になるかと思っていました」
「わたくしもです」
アリエルは記録帳を閉じた。
「でも、皆さん最初から話したいものを持っていたのでしょうね。置く場所がなかっただけで」
「それを作ったのが、アリエルさまです」
そこへ、片づけを手伝うでもなく皿の残り香を確かめていたケイリンが口をはさんだ。
「次は甘くない菓子も出しましょうか。話が長くなる人は、途中で塩気が欲しくなります」
「経験則ですか」
「厨房は長話の観察に向いているんです」
「では採用で」
その日の夕刻、アリエルはアルヴァへ簡単な報告をした。
「もう始めたのか」
書類から顔を上げた彼が言う。
「はい。思った以上によく話してくださいました」
「収穫は」
「匂いに関する違和感が、森だけでなく暮らしの中にも出ています。王都から流れてくる安価な薬草束の噂も」
アルヴァの目が細くなる。
「やはり市場か」
「たぶん。森の手記だけではなく、人の生活からも同じ線が見えてきました」
「続けてくれ」
「もちろんです」
その返事をしたとき、アリエルは自分の胸の内で、何かが確かに動き始めたのを感じていた。
復讐だけではない。母の研究だけでもない。
雨宿りの食卓は、森の異変を暴くための場であると同時に、ここで暮らす人たちの息を整える場所にもなり始めていた。
そしてその小さな食卓から、偽薬草の噂という次の糸が、静かに引き出されていった。




