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白い結婚ですが、雨上がりの森と母の手記は取り戻します  作者: 乾為天女


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23/24

第23話 契約書を破る日

 再開園式の余韻が邸へ戻っても、なかなか消えなかった。


 下働きの娘たちは温室棟の前で記念の板を磨き、騎士たちは運び込んだ木箱の数を数え直し、厨房ではケイリンが「祝い菓子は正義!」と叫びながら焼き型を増やしていた。雨宿りの食卓の常設相談室へ使う部屋には、王都から送った机と椅子が並べられ、ポラが窓辺へ新しい白布をかけていく。


 皆が忙しい。

 それなのに、アリエルの胸の内だけが妙に静かだった。


 契約満了は、今日だ。


 朝のうちに王都から正式書類が届いた。審問後の暫定処分通知、旧森区画の管理回復決定、研究棟資料移管の許可。どれも欲しかったものばかりだ。そこへ薄い一枚、契約期日確認の通知まで丁寧に挟まっていた。法は親切だ。人の心を待ってはくれないほどに。


 昼すぎ、アリエルは相談室になる予定の部屋で、新しい帳簿棚の寸法を確かめていた。窓を開けると、雨上がりの土の匂いがまだ残っている。机の上には雇用希望者の名簿、午後の識字講習案、保存食試作会の日程案。手を動かしている限り、余計なことを考えずに済む。


 「奥様」

 ポラがそっと入ってきた。

 「公爵様がお呼びです」

 その声がいつもより少しだけ柔らかい。

 「今、ですか」

 「はい。東の庭へ」

 アリエルはペン先を置いた。

 「何か聞いている?」

 「いいえ。でも……」

 ポラは言いかけて、口元をきゅっと結ぶ。

 「でも、たぶん、今日は背筋を伸ばして行ったほうがよろしいかと」

 「それ、慰める場面で言う台詞じゃないわね」

 「慰める必要がない日かもしれません」

 そう言って、ポラは小さく頭を下げた。


 東の庭は、邸の中でも静かな場所だった。観賞用の花壇ではなく、薬草を休ませるための小さな試験区画が並ぶ庭で、午後になると日差しが斜めに差し込む。人目を避けたいとき、アルヴァがよく資料を読みながら歩いている場所でもある。


 そこに彼は立っていた。

 黒の上着を脱ぎ、いつもの仕事着に近い格好で、片手に何か書類を持っている。風が吹くたび、その紙がかすかに鳴った。


 「呼び立てて悪い」

 「いいえ」

 アリエルは数歩手前で止まる。

 「何か書類ですか」

 「ああ」

 アルヴァが一度だけ目を伏せる。

 「正確には、今日で役目を終える書類だ」


 胸の奥で、何かが静かに沈んだ。

 予想していたはずなのに、実物を前にすると息がうまく入らない。


 「……そうですか」

 「アリエル」

 「大丈夫です」

 自分でも驚くほど、声は平坦に出た。

 「もともと約束していたことですもの。わたくしは研究と森を取り戻し、あなたは王命の婚姻問題をやり過ごした。互いに得るものは得ました」

 「互いに、か」

 「はい」


 言えば言うほど、言葉が紙みたいに薄くなる。

 安全な男。利用価値のある協力者。白い結婚の相手。

 最初はそうだった。

 でも今もそうだと言い切るには、朝食の記憶が多すぎた。雨の森で拾った手記が重すぎた。豪雨の夜に抱き上げられた腕の感触が、まだ体に残りすぎていた。


 「離縁届なら」

 アリエルは息を整えて続ける。

 「署名はすぐに――」

 「違う」


 低い声が、言葉を断ち切った。


 アルヴァはその場で書類を開き、アリエルへ見せる。

 見慣れた紙質。見慣れた条項。第一条、第二条、第三条――結婚直後の馬車で、彼女が赤字だらけにしたあの契約書だ。研究棟への立ち入り、独自予算、相談室の設置、離縁の自由。すべてがそのまま残っている。


 「離縁届ではない」

 彼は言う。

 「白い結婚の契約書だ」


 次の瞬間、紙が裂ける音がした。


 驚くほどあっけない音だった。

 国と家と体面と理屈を一枚に押し込めていた紙が、彼の手の中でまっすぐ破かれていく。縦に一度、横にもう一度。風にあおられ、白い切れ端が午後の光の中で小さく揺れた。


 アリエルは、ほんの一歩ぶん息を忘れた。


 「今度は条件ではなく」

 アルヴァの声が、少しだけ掠れていた。

 「私の意思で言う」


 彼はいつものように滑らかな男ではない。むしろ不器用なくらい真っすぐに、彼女の目を見る。


 「あなたの明日を、一緒に守りたい」

 その一言のあと、わずかな間が落ちる。

 「契約の都合でも、王命の穴埋めでもない。北辺の森を立て直した公爵夫人だからでも、評議会で戦い抜いた伯爵令嬢だからでもない。朝食の席で、熱い茶を冷ます前に一言多いあなたと、相談紙の文末に余計な優しさを残すあなたと、泣いたあとでも次の日は机へ向かうあなたと、暮らしたい」


 胸の奥で何かがほどけていく。

 ほどけて、ほどけすぎて、うまく立っていられない。


 「私は」

 アリエルは唇を開いたが、言葉が続かない。

 こんな場面の台詞を、相談紙ならいくらでも書けただろうに、自分のことになるとまるで役に立たない。


 「断ってもいい」

 アルヴァが言う。

 けれどその手は、断っていいと言いながら震えていた。

 「あなたが自由であることは、最初に約束した。だから、ここで返事を急がせるつもりはない」

 「そんな顔で、急がせるつもりはないと言われても困ります」

 「どんな顔だ」

 「とても……」

 アリエルはつい笑ってしまう。涙が先に落ちたのに、笑いも一緒に出る。

 「とても置いていかれたくない顔です」


 アルヴァが言葉を失った。

 その隙に、アリエルは一歩近づく。


 「わたくし、最初はあなたを安全な人だと思っていました」

 「それは知っている」

 「利用価値もあると」

 「それも知っている」

 「いま思うのは、全然違うことです」

 彼の前で立ち止まる。

 「朝、同じ席で茶を飲みたいとか。相談室で嫌なことがあった日に、無言で紅茶を差し出されたいとか。森の苗がうまく育った日に、先に見せたいとか。そういう、すごく細かいことばかり」


 アルヴァの喉がかすかに動いた。


 「だから」

 アリエルは、彼の破いた契約書の切れ端を一枚拾い上げる。

 「わたくしも、条件ではなく、わたくしの意思で答えます」


 風が止み、庭の草が静かになる。

 それはまるで、森のほうまで耳を澄ませているみたいだった。


 「はい」

 アリエルは言う。

 「あなたと、明日も笑って食卓につける暮らしを選びます」


 次の瞬間、アルヴァが目を閉じた。

 安堵したのか、信じられなかったのか、その両方かもしれない。彼は一度だけ深く息を吐いてから、そっとアリエルの手を取る。握り方は慎重なのに、触れた途端わかる。ずっと離したくなかった人の手だ。


 「抱きしめても」

 彼が尋ねる。

 「今さら許可を取るんですか」

 「大事なことだからな」

 「では」

 アリエルは涙を拭く暇もなく笑う。

 「許可します。公爵閣下」

 「もう閣下でなくていい」

 「じゃあ、アルヴァ」

 名前を呼ぶと、彼の表情がわずかに崩れた。


 そのまま抱きしめられる。

 豪雨の夜に救い上げられたときとは違う、失わないための腕だった。肩口へ顔を埋めると、革手袋ではない素手のぬくもりが背に回る。胸の奥で長く張っていた糸が、ようやく切れるのではなく、結び直されていく。


 庭の端では、誰かが小さく息を呑んだ。

 見ると、低木の向こうにユーソフの頭頂部が見える。隠れているつもりらしいが、そわそわしすぎて全然隠れられていない。その横でポラが腕を引き、さらに奥ではケイリンが口を押さえ、メンゼルが「賭けは私の勝ちだな」と囁いてファビーニョに脇腹を突かれている。


 「全部見えてるわよ」

 アリエルが言うと、低木の向こうで全員が固まった。

 数拍おいて、ケイリンが飛び出してくる。

 「だって! だって今日は祝い菓子を増やすべき日じゃないですか!」

 「増やして」

 「任せてください!」

 彼女は泣き笑いの顔で厨房へ走っていった。


 アルヴァが肩を震わせる。

 「邸中に知られるのは早かったな」

 「もともと皆さん知っていたのでは」

 「私たちだけが遅かったのかもしれない」

 「そうかもしれません」


 午後の庭に、破れた白い紙片がまだ残っていた。

 もう条件では縛れない。

 その代わり、選び直した言葉だけが、これから先の二人をつないでいく。



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