第23話 契約書を破る日
再開園式の余韻が邸へ戻っても、なかなか消えなかった。
下働きの娘たちは温室棟の前で記念の板を磨き、騎士たちは運び込んだ木箱の数を数え直し、厨房ではケイリンが「祝い菓子は正義!」と叫びながら焼き型を増やしていた。雨宿りの食卓の常設相談室へ使う部屋には、王都から送った机と椅子が並べられ、ポラが窓辺へ新しい白布をかけていく。
皆が忙しい。
それなのに、アリエルの胸の内だけが妙に静かだった。
契約満了は、今日だ。
朝のうちに王都から正式書類が届いた。審問後の暫定処分通知、旧森区画の管理回復決定、研究棟資料移管の許可。どれも欲しかったものばかりだ。そこへ薄い一枚、契約期日確認の通知まで丁寧に挟まっていた。法は親切だ。人の心を待ってはくれないほどに。
昼すぎ、アリエルは相談室になる予定の部屋で、新しい帳簿棚の寸法を確かめていた。窓を開けると、雨上がりの土の匂いがまだ残っている。机の上には雇用希望者の名簿、午後の識字講習案、保存食試作会の日程案。手を動かしている限り、余計なことを考えずに済む。
「奥様」
ポラがそっと入ってきた。
「公爵様がお呼びです」
その声がいつもより少しだけ柔らかい。
「今、ですか」
「はい。東の庭へ」
アリエルはペン先を置いた。
「何か聞いている?」
「いいえ。でも……」
ポラは言いかけて、口元をきゅっと結ぶ。
「でも、たぶん、今日は背筋を伸ばして行ったほうがよろしいかと」
「それ、慰める場面で言う台詞じゃないわね」
「慰める必要がない日かもしれません」
そう言って、ポラは小さく頭を下げた。
東の庭は、邸の中でも静かな場所だった。観賞用の花壇ではなく、薬草を休ませるための小さな試験区画が並ぶ庭で、午後になると日差しが斜めに差し込む。人目を避けたいとき、アルヴァがよく資料を読みながら歩いている場所でもある。
そこに彼は立っていた。
黒の上着を脱ぎ、いつもの仕事着に近い格好で、片手に何か書類を持っている。風が吹くたび、その紙がかすかに鳴った。
「呼び立てて悪い」
「いいえ」
アリエルは数歩手前で止まる。
「何か書類ですか」
「ああ」
アルヴァが一度だけ目を伏せる。
「正確には、今日で役目を終える書類だ」
胸の奥で、何かが静かに沈んだ。
予想していたはずなのに、実物を前にすると息がうまく入らない。
「……そうですか」
「アリエル」
「大丈夫です」
自分でも驚くほど、声は平坦に出た。
「もともと約束していたことですもの。わたくしは研究と森を取り戻し、あなたは王命の婚姻問題をやり過ごした。互いに得るものは得ました」
「互いに、か」
「はい」
言えば言うほど、言葉が紙みたいに薄くなる。
安全な男。利用価値のある協力者。白い結婚の相手。
最初はそうだった。
でも今もそうだと言い切るには、朝食の記憶が多すぎた。雨の森で拾った手記が重すぎた。豪雨の夜に抱き上げられた腕の感触が、まだ体に残りすぎていた。
「離縁届なら」
アリエルは息を整えて続ける。
「署名はすぐに――」
「違う」
低い声が、言葉を断ち切った。
アルヴァはその場で書類を開き、アリエルへ見せる。
見慣れた紙質。見慣れた条項。第一条、第二条、第三条――結婚直後の馬車で、彼女が赤字だらけにしたあの契約書だ。研究棟への立ち入り、独自予算、相談室の設置、離縁の自由。すべてがそのまま残っている。
「離縁届ではない」
彼は言う。
「白い結婚の契約書だ」
次の瞬間、紙が裂ける音がした。
驚くほどあっけない音だった。
国と家と体面と理屈を一枚に押し込めていた紙が、彼の手の中でまっすぐ破かれていく。縦に一度、横にもう一度。風にあおられ、白い切れ端が午後の光の中で小さく揺れた。
アリエルは、ほんの一歩ぶん息を忘れた。
「今度は条件ではなく」
アルヴァの声が、少しだけ掠れていた。
「私の意思で言う」
彼はいつものように滑らかな男ではない。むしろ不器用なくらい真っすぐに、彼女の目を見る。
「あなたの明日を、一緒に守りたい」
その一言のあと、わずかな間が落ちる。
「契約の都合でも、王命の穴埋めでもない。北辺の森を立て直した公爵夫人だからでも、評議会で戦い抜いた伯爵令嬢だからでもない。朝食の席で、熱い茶を冷ます前に一言多いあなたと、相談紙の文末に余計な優しさを残すあなたと、泣いたあとでも次の日は机へ向かうあなたと、暮らしたい」
胸の奥で何かがほどけていく。
ほどけて、ほどけすぎて、うまく立っていられない。
「私は」
アリエルは唇を開いたが、言葉が続かない。
こんな場面の台詞を、相談紙ならいくらでも書けただろうに、自分のことになるとまるで役に立たない。
「断ってもいい」
アルヴァが言う。
けれどその手は、断っていいと言いながら震えていた。
「あなたが自由であることは、最初に約束した。だから、ここで返事を急がせるつもりはない」
「そんな顔で、急がせるつもりはないと言われても困ります」
「どんな顔だ」
「とても……」
アリエルはつい笑ってしまう。涙が先に落ちたのに、笑いも一緒に出る。
「とても置いていかれたくない顔です」
アルヴァが言葉を失った。
その隙に、アリエルは一歩近づく。
「わたくし、最初はあなたを安全な人だと思っていました」
「それは知っている」
「利用価値もあると」
「それも知っている」
「いま思うのは、全然違うことです」
彼の前で立ち止まる。
「朝、同じ席で茶を飲みたいとか。相談室で嫌なことがあった日に、無言で紅茶を差し出されたいとか。森の苗がうまく育った日に、先に見せたいとか。そういう、すごく細かいことばかり」
アルヴァの喉がかすかに動いた。
「だから」
アリエルは、彼の破いた契約書の切れ端を一枚拾い上げる。
「わたくしも、条件ではなく、わたくしの意思で答えます」
風が止み、庭の草が静かになる。
それはまるで、森のほうまで耳を澄ませているみたいだった。
「はい」
アリエルは言う。
「あなたと、明日も笑って食卓につける暮らしを選びます」
次の瞬間、アルヴァが目を閉じた。
安堵したのか、信じられなかったのか、その両方かもしれない。彼は一度だけ深く息を吐いてから、そっとアリエルの手を取る。握り方は慎重なのに、触れた途端わかる。ずっと離したくなかった人の手だ。
「抱きしめても」
彼が尋ねる。
「今さら許可を取るんですか」
「大事なことだからな」
「では」
アリエルは涙を拭く暇もなく笑う。
「許可します。公爵閣下」
「もう閣下でなくていい」
「じゃあ、アルヴァ」
名前を呼ぶと、彼の表情がわずかに崩れた。
そのまま抱きしめられる。
豪雨の夜に救い上げられたときとは違う、失わないための腕だった。肩口へ顔を埋めると、革手袋ではない素手のぬくもりが背に回る。胸の奥で長く張っていた糸が、ようやく切れるのではなく、結び直されていく。
庭の端では、誰かが小さく息を呑んだ。
見ると、低木の向こうにユーソフの頭頂部が見える。隠れているつもりらしいが、そわそわしすぎて全然隠れられていない。その横でポラが腕を引き、さらに奥ではケイリンが口を押さえ、メンゼルが「賭けは私の勝ちだな」と囁いてファビーニョに脇腹を突かれている。
「全部見えてるわよ」
アリエルが言うと、低木の向こうで全員が固まった。
数拍おいて、ケイリンが飛び出してくる。
「だって! だって今日は祝い菓子を増やすべき日じゃないですか!」
「増やして」
「任せてください!」
彼女は泣き笑いの顔で厨房へ走っていった。
アルヴァが肩を震わせる。
「邸中に知られるのは早かったな」
「もともと皆さん知っていたのでは」
「私たちだけが遅かったのかもしれない」
「そうかもしれません」
午後の庭に、破れた白い紙片がまだ残っていた。
もう条件では縛れない。
その代わり、選び直した言葉だけが、これから先の二人をつないでいく。




