第12話 壊れるまで愛して、なんてまっぴらです
収穫祭の数日後、雨宿りの食卓はいつもより少し騒がしかった。
昼すぎの公爵邸の小広間。窓の外では細かな雨が糸みたいに降り、湯気の立つ茶器のまわりに女たちの声が集まっている。今日は恋の相談が多い、と朝のうちにポラが笑っていたが、ふたを開けてみれば相談というより読書会に近かった。
「奥様、これです、これ」
洗濯女のマーヤが、紙の束を胸へ抱えたまま身を乗り出す。
「王都で流行ってるやつ。宿屋の娘が回してくれたんです」
表紙には大きく、墨で題が書かれていた。
――『壊れるまで愛して』
見るなり、ケイリンが顔をしかめる。
「題名がすでに物騒」
「でも続きが気になるんですってば」
子守りのエナが頬を染める。
「伯爵様が、主人公をどこにも行かせないよう屋敷へ閉じ込めて」
「だめでしょう、それは」
ポラが思わず口を挟んだ。
「ええっ、でもそこが盛り上がるんです」
「盛り上がってはいけません」
茶卓のあちこちで反応が割れ、アリエルは湯のみを置きながら目を細めた。紙面をのぞくと、確かに筆勢は上手い。読ませる調子もある。けれど、三頁めくったところで、主人公は泣きながら抱きしめられ、さらに二頁で気絶し、その次で「君は壊れるまで私のものだ」と宣言されていた。
「忙しい小説ですね」
「そこがいいんですよ!」
マーヤが真剣に言う。
「仕事終わりに読むと、現実を忘れられて」
「現実を忘れるにしても、もう少し骨の折れない忘れ方があると思います」
アリエルが返すと、笑いが起きた。
今日は相談紙の代わりに、「好きだと言われて困ったとき」「相手の親がうるさいとき」「結婚前に確認したいこと」の紙片がいくつも集まっている。ひとつ答えるたび、誰かが横から自分の話を足し、別の誰かが茶を注ぎ、ケイリンが焼き菓子を皿ごと押しつける。この雑多な温かさが、いまではもう公爵邸の一部になっていた。
「でも」
宿屋の女将が焼き菓子を割りながら言う。
「本当に好きなら、少しくらい乱暴でも許されるって考える男はいますよ。うちの弟なんて、恋文で三回も『逃がさない』って書いて振られたもの」
「三回も書いたんですか」
「ええ。一回で学べばよかったのに」
場がまた笑う。
笑いが落ち着いたところで、エナがアリエルへ尋ねた。
「奥様はどう思います? こういうの」
紙の束が差し出される。『壊れるまで愛して』の表紙が、いかにも答えを求めている顔だ。
アリエルは少しだけ考えた。窓の外の雨脚、湯気の向こうの女たちの目、皿の上で半分に割れた菓子。その全部を見てから、静かに口を開く。
「壊れるまで愛されるくらいなら」
一拍置く。
「明日も笑って食卓につける愛のほうが、ずっといいです」
誰かが小さく息をのんだ。
アリエルは続ける。
「相手を怖がらせるほど独り占めしたい気持ちを、愛だと言い張る人はいます。でも、怖くて眠れない夜を増やすものを、わたくしは愛だと思いたくありません」
湯のみのふちを指でなぞる。
「朝にきちんと起きて、腹が減ったと笑えて、困ったら相談できて、嫌なことは嫌だと言えて、それでも明日も同じ卓につける。それで十分すごいでしょう」
沈黙のあと、最初に「それがいい」と言ったのはポラだった。
「はい。それがいいです」
ケイリンも腕を組んだまま大きく頷く。
「壊されたら、台所に来られませんし」
「そこなんですか」
「大事です」
「大事ですね」
アリエルも頷いた。
気づけば、みんながそれぞれの「それがいい」を口にしはじめていた。夜中に鍵をかけられないこと。働くのをやめろと言われないこと。食べる量を笑われないこと。稼ぎを取り上げられないこと。小さな願いばかりなのに、聞いていると胸の奥へ静かに積もる。
そのころ、小広間の外の回廊では、アルヴァが足を止めていた。
本当は食卓のあとでアリエルへ見せるはずの、王都から届いた市場報告を持って来ただけだった。ノックをする前に、中から自分の名は出ていないのに、自分に刺さる話が聞こえてしまった。
壊れるまで愛されるくらいなら、明日も笑って食卓につける愛のほうがいい。
紙を持つ指へ、わずかに力が入る。
アルヴァはここ数日、収穫祭の夜会で自分がローデンへ向けた怒りを何度か思い返していた。あの場で間に入ったことに後悔はない。だが、守りたい気持ちが強くなりすぎれば、別の形で相手の自由を奪うのではないか。契約を盾に近づきすぎていないか。そんな考えが、夜更けの執務机でふと顔を出すことがあった。
だからこそ、今の言葉は思った以上に深く届いた。
彼女が望むのは、恐れで縛ることではない。
明日も笑って、同じ卓につけること。
それは、彼が心の底で望んでいた形と同じだった。
回廊の向こうから戻ってきたユーソフが、アルヴァが扉の外で立ち止まっているのを見てぎょっとした顔になる。
「旦那様、入らないんですか」
「いま入る」
「聞いてました?」
「少し」
「……少しでその顔ですか」
「どんな顔だ」
「自覚ないんですね」
ユーソフは何か言いたそうにしたが、結局やめた。
「いえ、なんでもありません」
アルヴァが扉を軽く叩くと、中の声が少し静まる。
「どうぞ」
アリエルの声だった。
中へ入ると、茶卓を囲んだ女たちの視線がいっせいに向く。ケイリンはあからさまににやけ、ポラは平然と茶を注ぎ足している。
「報告書が届いた」
アルヴァは書類をアリエルへ差し出した。
「北門と西門の価格差、先月比まで載っている」
「助かります」
受け取ったアリエルが表紙をめくる。
「今すぐ見たいですが、せっかくなので皆さんにも関係あるところだけ共有しますね」
「仕事の話を茶会で?」
マーヤが驚く。
「恋も暮らしも、だいたい帳面につながります」
アリエルが平然と言うと、また笑いが起きた。
アルヴァはその輪の少し外側に立ったまま、ふと卓上の冊子に目を落とした。『壊れるまで愛して』の題名が見える。ケイリンがすかさずそれを持ち上げた。
「旦那様も読みます?」
「読まない」
「即答」
「題名だけで十分だ」
「でも奥様、さっき名言を」
「ケイリン」
アリエルが制止する。
「余計なことは言わないで」
「余計じゃありませんよ。壊れるまで愛されるくらいなら、明日も笑って食卓に」
そこまで言ったところで、ケイリンが自分の足をポラに踏まれた。
「痛い」
「口が軽いです」
しかし遅かった。言葉はもう空気へ出ている。
アリエルは少しだけ気まずそうにアルヴァを見る。だが彼は、からかうでも問い返すでもなく、ただごく静かに頷いた。
「そのとおりだと思う」
短い一言だった。
「……そうですか」
「朝に食べて、夜に帰って、困ったら相談できる。それを守るためなら、手間はいくらかかってもいい」
小広間がしんとしたのは、今度は気まずさではなく、言葉がまっすぐ落ちたからだった。
エナがそっと頬を押さえる。
「なんか、そっちのほうがきゅんとします」
「でしょう?」
ケイリンが足をさすりながら胸を張る。
「壊すより、朝食のほうが強いんです」
「何の勝負なんですか」
アリエルは呆れたが、笑ってもいた。
茶会がお開きになったあと、窓の外の雨はだいぶ細くなっていた。女たちを見送り、アリエルが書類を抱えて立ち上がると、アルヴァが自然にその半分を受け取る。
「執務室まで持つ」
「重くありません」
「知っている」
「ではなぜ」
「私が持ちたい」
回廊へ出てから言われ、アリエルは足を止めかけた。けれど、止めるほどではないと思い直し、そのまま歩く。
「先ほどの言葉」
アルヴァが前を向いたまま言う。
「聞こえた」
「そうでしょうね」
「救われた」
あまりに率直で、アリエルは瞬きをした。
「何にですか」
「私が望んでいるものが、見当違いではないとわかった」
雨の匂いがする回廊で、二人の足音だけが並ぶ。
アリエルはしばらく考えてから、ほんの少しだけ口元をゆるめた。
「それなら、よかったです」
「君は」
アルヴァが続ける。
「いつも、必要なときに必要な言葉を言うな」
「たまたまです」
「いや」
「本当に」
「そうか」
「そうです」
押し問答みたいな会話なのに、不思議とやわらかい。執務室の前へ着くころには、さっきの茶会の湯気がまだ体のどこかに残っている気がした。
壊れるまで愛して、なんてまっぴらだ。
その代わり、明日も笑って食卓につけるような日々を守りたい。
アリエルは受け取った報告書の上へ指を置いた。帳面も証拠も仕事も、全部そこへつながっている。恋だけが別の場所にあるわけではないのだと、今日の雨は静かに教えてくれていた。




