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白い結婚ですが、雨上がりの森と母の手記は取り戻します  作者: 乾為天女


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第11話 舞踏会で一歩、近づきすぎる

 秋の収穫祭の夜、北辺公爵邸の大広間は、いつもの石の冷たさを忘れたみたいにあたたかく見えた。


 梁には乾燥した麦穂と赤い実の蔓が巻かれ、壁際には新酒の樽が並び、窓辺の燭台には琥珀色の火が揺れている。雨上がりの森で採れた香草を細く束ねて吊るしたのは、ケイリンの案だ。扉が開くたび、青い香りがわずかに流れて、人の笑い声へ混じっていく。


 アリエルは支度部屋の鏡の前で、最後の手袋をはめていた。


 深い森色のドレスに、銀糸でしずくを散らした刺繍。派手に見せるためではなく、北辺の秋の色をそのまま布へ写したみたいな仕立てだ。ポラが後ろでリボンを整えながら、満足そうに息をつく。


 「お似合いです」

 「転ばないといいのですが」

 「そこを心配なさる方が珍しいです」

 「踊るより、帳簿をめくるほうが得意ですもの」

 「今夜は両方なさってください」

 「ひどい要求ですね」

 「公爵夫人ですから」


 そう言ったポラ自身が、少し楽しそうだった。


 大広間へ向かう途中、扉の前でアルヴァが待っていた。濃紺の礼装は軍服に近い線を残し、胸元の飾緒さえ少ない。けれど、その簡素さのせいで、かえって目が離せなくなる。肩の線も、白い手袋の指先も、必要なものだけでできている人の格好だった。


 彼はアリエルの姿を見るなり、一歩だけ動きを止めた。


 「何か変ですか」

 先に聞くと、アルヴァはすぐに首を振った。

 「いや」

 そこで一拍置き、

 「……よく似合う」


 それだけなのに、耳の奥が熱くなる。


 「ありがとうございます」

 アリエルは視線をそらし、手袋の縫い目を見た。

 「閣下も」

 「私は毎年同じだ」

 「毎年同じでも、今夜は少し違って見えます」


 言ってから、自分で何を言ったのかと思った。だがアルヴァは追及しなかった。ただ、扉を開ける係へ合図し、彼女へ肘を差し出す。

 「行こう」

 「ええ」


 夫妻として大広間へ入った瞬間、音楽が切り替わった。


 収穫祭の最初の曲は、領主夫妻が踊るのが慣わしだ。アリエルは知っていたし、知っていたから逃げなかった。けれど中央へ歩き出すたび、床に敷かれた絨毯の模様ばかり目に入る。緊張しているのだと自覚した途端、アルヴァの低い声が耳元に落ちた。


 「足を見なくていい」

 「見ないと踏みます」

 「踏まれても死なない」

 「でも笑われます」

 「私が先に踏んだことにすればいい」

 「それは公爵としてどうなのですか」

 「今夜は夫としてのほうが便利だ」


 ひどく平然と言うので、アリエルは思わず吹き出しそうになった。その小さなゆるみがちょうどよかったのか、曲が始まるころには肩の力が少しだけ抜けていた。


 アルヴァの手は、踊るあいだも変わらず正確だった。引くときは迷わず、近づけるときは急がない。無理に飾らない代わりに、転ばせないための気配りだけが行き届いている。契約条項に舞踏の心得までは書かなかったはずなのに、この人はいつだって、書かれていないところで手間を惜しまない。


 「練習されたんですか」

 顔を上げずに尋ねる。

 「昔に少し」

 「少しでこんなに踊れます?」

 「君が軽いからだ」

 「褒められた気がしません」

 「褒めている」


 周囲では拍手と笑い声が混ざり、若い貴族たちがこちらを見ている。白い結婚だの契約だのと陰で面白がっていた者も、今夜ばかりは簡単には口を挟めない。領主夫妻の踊りは、それだけで公の言葉になる。


 曲が半ばを過ぎたころだった。


 ひとつの回転のあと、アリエルは不意にアルヴァを正面から見上げる形になった。燭台の火が灰色の瞳へ映り、いつもより少し柔らかく見える。近い。想像より近い。手袋越しの指先が、必要以上に意識へ触れてくる。


 「……近いですね」

 「舞踏だからな」

 「そういう意味ではなく」

 「私も同じことを考えた」

 低く返され、今度こそ胸が跳ねた。


 次の一歩で距離は戻った。戻ったのに、さっきまでより遠く感じる。


 曲が終わり、拍手が起きる。二人は礼を返し、そのまま輪の外へ下がろうとした。そこで、聞きたくない声が横から割って入る。


 「見せつけるのが上手くなったじゃないか」


 ローデン侯子だった。


 秋色の会場に似合わないほど甘ったるい香油をまとい、口元だけを歪めて立っている。王都からの客として誰かに紛れ込んできたのだろう。アリエルの指先がほんの少し硬くなるのを、アルヴァは見逃さなかった。


 「侯子」

 アルヴァの声は静かだった。

 「今夜の客人名簿に、あなたの名は見当たらなかったが」

 「招かれたさ。北辺とも今後は親しくしたいのでね」

 ローデンは肩をすくめ、アリエルへ視線を滑らせた。

 「それに、昔なじみに挨拶くらいしたい。もとは私の家へ来るはずだった娘だ」


 アリエルは冷えた目で返した。

 「その予定は、わたくしが断りました」

 「女の気まぐれだろう」

 「意思です」

 「同じようなものだ」


 ローデンが半歩近づき、アリエルの手首へ触れようとした、その瞬間だった。


 アルヴァが間へ入る。速かった。けれど乱暴ではない。白手袋の手が、アリエルの肘をこちら側へ引き寄せるだけで、二人の位置関係が完全に変わる。


 「侯子」

 彼の表情から、いつもの薄い余白が消えていた。

 「私の妻に触れるな」


 周囲の空気が、わずかに張る。


 ローデンは鼻で笑った。

 「白い結婚のくせに、随分と夫らしい」

 「契約内容を、あなたに説明する義務はない」

 「飾りなら飾りらしく、黙って立たせておけばいいものを」

 「黙るべきなのはあなたのほうだ」


 アルヴァの声音は上がらない。だが、低く落ちる一言ごとに、大広間のざわめきが遠のいていく。


 「妻への無礼は、公爵家への無礼だ」

 彼は一語ずつ区切るように言った。

 「次に同じ口を利いたら、名誉毀損として正式に扱う」

 「たかが女ひとりで」

 「女ひとりではない。アリエルだ」


 その言い方に、アリエルは一瞬、呼吸を忘れた。


 名ではなく役割で扱われることに慣れさせられてきた身には、その一言が思いのほか深く入る。たかが妻でも、契約相手でも、伯爵家の厄介者でもなく、アリエルだと。


 ローデンは周囲の視線を気にしてか、ようやく口元を引きつらせた。

 「北辺公爵も物好きだな」

 「そうかもしれない」

 アルヴァは否定しなかった。

 「だが、だからといって譲る気はない」


 言い捨てるようでいて、最後の一線だけが妙に生々しかった。ローデンが舌打ち混じりに去っていくと、周囲に散っていた空気がようやく流れはじめる。音楽も、少し遅れて再開した。


 「失礼しました」

 アルヴァが彼女へ向き直る。

 「本来なら、入場の時点で止めるべきだった」

 「いえ」

 アリエルはかすかに首を振った。

 「助かりました」


 それ以上の言葉が出ない。助かった。嬉しかった。腹も立った。胸も乱れた。全部が一度にあって、うまく並べられない。


 アルヴァは一瞬だけ迷うように彼女を見たあと、窓辺の回廊を示した。

 「少し、人の少ないところへ」

 「賛成です」


 回廊には秋の夜気が入り、会場の熱を少しだけ冷ましてくれた。遠くで楽団の音がする。中庭の噴水には落ち葉が一枚浮かび、さっきまでの喧騒が嘘みたいに静かだ。


 「怖かったか」

 唐突に問われ、アリエルは立ち止まった。

 「……少し」

 嘘はつかなかった。

 「でも、それ以上に腹が立ちました」

 「そうだろうな」

 「わたくしを品物みたいに言う人が、本当に嫌いです」

 「知っている」

 「なら結構です」


 言ってから、少しだけ笑う。アルヴァもほんのわずかに口元をゆるめた。


 その沈黙は気まずくなかった。気まずくないことが、むしろ厄介だった。さっき大広間で近づいた距離が、いまになって別の形で迫ってくる。


 「先ほどの」

 アリエルが先に口を開いた。

 「アリエルだ、と」

 「ああ」

 「あれは、公の場での都合ですか」

 自分でも意地の悪い聞き方だと思った。


 アルヴァは夜気の中で少しだけ視線を落とし、それから正直に答える。

 「都合もある」

 「やはり」

 「だが、それだけなら、あんな言い方はしない」


 喉が鳴りそうになるのを、アリエルはぎりぎりでこらえた。


 「君は、君の名で守られるべきだ」

 アルヴァは回廊の外、暗い庭を見たまま言う。

 「少なくとも私は、そう思っている」


 近づきすぎたのは、舞踏の一歩だけではなかった。


 アリエルは手袋の上から自分の指を握る。契約はまだ白い。期限もある。なのに、その白さの中へ、少しずつ色が差してくる。


 「……戻りましょう」

 ようやくそう言うと、アルヴァは頷いた。

 「そうだな」


 並んで大広間へ戻るまでの短い距離が、妙に長かった。



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