第10話 厨房で煮込まれる恋と証拠
翌朝の朝食に、アリエルはきちんと現れた。
昨夜の書庫で交わした約束を破る気はなかったし、なにより今日の台所では試したいことが山ほどある。焼きたての黒麦パン、薄く塩をした白身魚、半熟の卵。いつもなら考えごとをしながら機械みたいに口へ運ぶところだが、向かいに座るアルヴァの視線が妙に静かで、雑に済ませる気になれなかった。
「……見ていますね」
パンをちぎりながら言うと、アルヴァは平然と茶を飲んだ。
「契約条項の履行確認だ」
「便利な言葉ですね」
「昨日、自分で使っただろう」
「そうでした」
少し遅れて来たユーソフが、二人の間に流れる空気を見た途端、なぜか背筋を伸ばした。何も聞いていない顔をしながら、皿の上の燻製肉だけを見つめている。
ケイリンが厨房から顔を出す。
「奥様、朝のうちに来てください。昨夜の青紐の件で、北門の店がびびって値段を上げ始めました」
「上げた?」
アリエルは眉をひそめた。
「偽薬草が怖いから、本物も高くなると思いこんだのね」
「はい。だったら公爵邸で、冬まで香りが保つ保存食を出したほうが早いです」
ケイリンは腕まくりしたまま言った。
「食べてわかる形で、本物を出しましょう」
その言葉で、アリエルの頭の中のいくつかの線がつながった。
乾燥だけに頼らず、塩、油、酢、蜜。母の手記『上』にも、薬効だけでなく日々の食卓へ落としこむ工夫が、ところどころ余白に書き込まれていた。病人のための保存法は、そのまま領民の暮らしを支える知恵になる。
「台所へ行きます」
立ち上がると、アルヴァが言った。
「護衛を二人つける」
「厨房でですか」
「厨房だからだ。昨日の件で、何が混ざるかわからない」
言い方はいつもどおりそっけないのに、内容だけが過保護だ。
アリエルは一瞬だけ口を閉じ、それから素直に頷いた。
「では、鍋に口を出さない人をお願いします」
「それは難しいな」
アルヴァはごく薄く笑った。
「ファビーニョは塩を入れたがる」
「却下です」
朝の厨房は、どの戦場より湯気が多い。
大鍋では骨と香味野菜が煮え、窓辺では刻んだ葉をポラが布に広げていた。カラニが運び込んだ森の香草は、同じ緑でも香りの立ち方が違う。雨のあとに甘くなる葉、熱を通すと辛みが抜ける茎、塩へまぶすと苦味が消える花芽。アリエルは次々に手を動かし、ケイリンはそれを皿の上で料理へ変える。
「乾燥だけだと、冬には香りが痩せます」
アリエルは小鍋の前で言った。
「でも油に移してから火を止めれば、青い香りが残る」
「そこへ刻んだ木の実を足す」
ケイリンがすぐにつなぐ。
「パンにも塗れるし、煮込みの最後に落としてもいい」
できあがったのは、香草油と塩漬け葉の二種類だった。ひとつは熱いじゃがいもへ落とすだけで森の匂いが立つ。もうひとつは刻んで白い豆に和えれば、保存が利いて腹持ちもいい。
試食したポラが目を丸くする。
「冬の食卓なのに、窓の外が春みたいです」
「それです」
アリエルは指先を鳴らした。
「香りを売るのではなく、暮らしを売る。高い薬草を買えない家でも、ひと匙で食卓が楽になる形にするの」
昼前には試作品の小瓶が十本並んだ。木札には材料、使い方、産地、仕込み日。レンノンが字面を眺めて頷く。
「いいですね。ごまかしが入りにくい」
「だから真似されたときもわかる」
アリエルは答えた。
「木札の角を、右上だけ丸く落としましょう。公爵邸の正規品だと見分けやすい」
その日のうちに、北門の小さな市場で試しに三本だけ出した。
雨宿りの食卓へ来ていた洗濯女、子守りの娘、宿屋の女将が最初の客だった。焼いた黒麦へ香草油を落とし、じゃがいもに塩漬け葉を混ぜて出すと、三人とも顔を見合わせたあと、一口で表情が変わる。
「これ、冬に食べたい」
「病み上がりでもいけるわ」
「うちの宿で朝に出したら、商人が喜ぶ」
ケイリンが胸を張り、アリエルは内心でそっと息をついた。母の余白に書かれていた知恵が、きちんと生きている。
だが、うまくいった日の足もとは、ときどき妙に滑る。
夕方、邸へ戻った途端、ファビーニョが低い声で知らせた。
「裏門脇で、うちの瓶に似せた粗悪品が見つかった」
「早いですね」
アリエルは顔を上げる。
「まだ公爵邸でしか配っていない木札です」
「だからおかしい」
アルヴァもすでに執務室から出てきていた。
「今日の販売数も、出す場所も、朝の時点では限られた人間しか知らない」
粗悪品の瓶は、似せる気だけは十分だった。だが香草油に使うはずの若葉が古く、底には濁りが沈んでいる。木札の右上は丸くなく、無理に削って角が毛羽立っていた。
「焦って真似したんですね」
レンノンが瓶を光へかざす。
「向こうも慌てています」
アリエルは台所の配布表を思い返した。誰が何本持ち出したか、どの屋台へ出すか。書いたのは自分とケイリン。読んだのはポラ、ユーソフ、出納係ひとり、倉庫番ひとり。そこまで考えたところで、ポラが小さく息をのんだ。
「……奥様」
「どうしました」
「配布表そのものではなく、包装用の木札を数える役を、今日だけ代わった者がいます」
「誰です」
「下働きのミレナです。洗濯室の手伝いですが、昼前に倉庫前へ来ていました」
ポラは思い出すように眉を寄せた。
「しかも、木札を束ねる紐の結び方が、ハーグレイヴ伯爵家の古い留め方でした」
アリエルの視線が止まる。
「左留め三つ折り?」
「はい。奥様のお母上がご存命のころ、伯爵家の女中頭が使っていた形です。こちらでは見ません」
「よく覚えていましたね」
「包み物は、結び方で誰がやったか出ますから」
ポラの声はいつもどおり柔らかい。けれど、その柔らかさの下に、侍女として積み上げてきた観察の鋭さがあった。
アルヴァがすぐに言う。
「泳がせる」
ユーソフが頷いた。
「偽の配布先を書いた紙を何通りか作ります。誰にどれを見せたか分ければ、漏らした人間が絞れます」
「厨房からは、明日は西門へ出すと流してください」
アリエルは即座に乗った。
「本当は南の渡し場に出します」
「では、ミレナには西門の木札を数えさせます」
ポラがきっぱり言った。
罠は、その日のうちに張られた。
翌朝、西門の市場には開店前から粗悪品の商人が立ち、南の渡し場には誰も現れなかった。結果は、これ以上なくわかりやすかった。
正午前、裏門から抜けようとしたミレナを、ファビーニョが止めた。袖の内側から出てきたのは、今日の偽の配布表を写した紙と、王都の染物商を装った連絡先の札。だが裏に押されていたのは、薄く削ったハーグレイヴ伯爵家の古い封蝋印だった。
「染物屋、ね」
アリエルはその札を見下ろした。
「うちの継母は、色と香りと帳簿を一緒にいじるのが好きでした」
ミレナは最初こそ強がったが、アルヴァが同席し、ポラが淡々と「洗濯室の持ち場へ戻るふりをして倉庫前へ三度来ました」と言い、レンノンが「筆跡の写し方が雑です」と重ねると、とうとう肩を落とした。
「だって、あっちのほうが金払いがよかったんです」
「どこから」
アルヴァが問う。
「王都の女主人から……名前は聞いてません。でも、紫の香粉を使う人で」
アリエルは目を細めた。セラフィナは、季節を問わず甘い紫の香粉を使う。雨の日だけ少し重くなる、あの鼻につく香りは忘れようがない。
取り調べが終わり、ミレナが連れて行かれたあと、厨房には妙に重い静けさが残った。
ケイリンが腕を組む。
「せっかくおいしいもの作った日に、腹立つ話です」
「でも証拠は取れました」
アリエルは小瓶をひとつ持ち上げた。
「向こうが焦るほど、こちらのやり方が効いているということです」
そのとき、ケイリンがふっとにやけた。
「ところで奥様」
「なんですか」
「さっき旦那様、取調べの前に、粗悪品の瓶を見てすごく嫌そうな顔しました」
「偽物が嫌いなのでは」
「いえ。奥様の考えた瓶を真似されたのが嫌そうでした」
「ケイリン」
「はい」
「鍋を見てください」
「図星ですか」
「鍋を」
「はーい」
笑いが起きる。重さが少しだけ持ち上がる。
アリエルは手元の香草油を見つめた。台所で煮込んだのは、保存食だけではない。人の暮らしを守る知恵と、継母の手がどこまで伸びているかを示す新しい証拠もまた、ゆっくり火にかけられているのだと思った。




