第1話 罪を着せられた令嬢は、白い結婚を選ぶ
評議会の広間は、雨上がりの石畳のように冷たかった。
天窓の向こうには、早春の雲の切れ間がのぞいている。ついさっきまで王都を濡らしていた雨はやみ、窓辺の鉢植えにだけ、まだ小さなしずくが揺れていた。あのしずくに残る痕跡をたどれば、誰がどんな手で触れたのか、どんな感情で近づいたのかまで、読み取れることがある。ハーグレイヴ伯爵家に伝わる雨紋読解は、そういう技だ。
けれど今日、この場にいる誰一人として、アリエルにその力を使わせる気はないらしい。
長机の向こうで、継母セラフィナが白い手袋の指先をそろえ、いかにも心を痛めている顔を作っていた。
「なんということでしょう。亡き前伯爵夫人の研究を預かる立場にありながら、薬草の帳簿を書き換え、流通分を横流しするなんて」
ため息まで、よく通る声だった。
「わたくしは家名を守るためにも、ここで身内に甘い判断をしてはならないと思っておりますの」
その声に合わせるように、ざわ、と広間が揺れた。
アリエルの前には、革表紙の帳簿が三冊積まれている。どれも見覚えのある帳簿だった。けれど、中の数字は違う。文字の傾きも、行間の癖も、薄く残るインクの重なりも違う。
書き換えられている。
それも、急ごしらえで。
「異議があります」
アリエルははっきり言った。広間の空気が少し止まる。
「その第三帳簿の五月十四日分。乾燥前重量と仕分け後重量の差が不自然です。うちの温室で扱う青葉露草なら、ここまで目減りする前に腐敗臭が出ます。記録係が気づかないはずがありません」
評議会の年長の男が眉をひそめた。
「数字の不自然さを言い逃れに使うつもりか」
「言い逃れではなく、記録の整合性です」
アリエルは一冊目の帳簿を引き寄せた。
「こちらは母が管理していた年の同時期の記録です。保管庫の湿度、乾燥棚の使用回数、搬出先。全部が連動している。同じ畑、同じ天候で、今年だけこうなる理由がありません」
「あなたが横流ししたからでしょう」
セラフィナがやわらかく遮った。
「数字にお強いふりをしても、もう遅いのよ、アリエル」
ふり。
その言葉の薄さに、アリエルは逆に頭が冷えた。母の研究棟で夜更けまで帳簿を突き合わせ、指先がインクで黒くなってもやめなかった日々を、この人は何ひとつ見ていない。見ていないまま、奪ったのだ。
「では、雨紋を読ませてください」
広間の奥に置かれた鉢植えを見て、アリエルは言った。
「今朝、その帳簿を最後に持った人間の痕跡が残っているはずです」
ざわめきが、今度は露骨な動揺になって広がった。
セラフィナのまつげが、ごくわずかに震える。
その一瞬を、アリエルは見逃さなかった。
だが評議会議長は、すぐに咳払いをひとつして首を振った。
「その必要はない。家の内部不正を、まじないめいた技に頼って裁くわけにはいかぬ」
「まじないではありません。王立薬学審査でも補助調査として認められている家系技術です」
「今日はそこまでの場ではない」
「都合が悪いからでしょう」
言った途端、空気が凍った。
アリエルは一歩も退かなかった。ここで目を伏せたら、母の字まで奪われる。
「母の研究棟に出入りしていた鍵は、母の死後、継母殿がすべて管理していました。わたくしが帳簿を書き換えるなら、その前に研究棟の試料棚を自由に動かせなければ辻褄が合いません。ですがわたくしは、半年前から出入りを禁じられていました」
「自分で閉じ込められたように言うのね」
セラフィナは、あくまで気の毒そうに目を伏せた。
「問題を起こしてばかりの娘を、家から守るためでしたのに」
「家から守る?」
アリエルは笑った。乾いた、小さな笑いだった。
「研究棟からわたくしを遠ざけ、母の筆記具も標本箱も処分し、今度は帳簿改ざんの罪まで着せることが?」
広間の端で、誰かが息をのんだ。
セラフィナはすぐに表情を戻したが、隣に控えていた書記官が視線を泳がせた。そこへ畳みかけるように、別の声が入る。
「これ以上の押し問答は見苦しい」
ローデン侯子だった。
金の飾緒をいくつも下げた上着で、いかにも自分は価値のある男だという顔をしている。アリエルは彼を見るたび、磨きすぎた装飾品の匂いを思い出した。目に痛く、肌には冷たい類いのものだ。
「伯爵家の名誉をこれ以上傷つける前に、この娘の処遇を決めるべきでしょう」
彼は椅子にもたれ、口元だけで笑った。
「幸い、私は寛大だ。婚約の話を進めてもいい。私の家に入るなら、多少の傷は隠せる」
広間の何人かが、ほっとしたようにうなずいた。厄介な娘の口を、結婚で塞ぐ。簡単で、古くて、腹立たしい解決法だ。
「お断りします」
アリエルは即答した。
ローデン侯子の笑みが止まる。
「まだ選べる立場だと?」
「選べます。少なくとも、あなたに所有されるくらいなら」
「所有?」
彼は低く笑った。
「妻になる女を守ると言っているんだ」
「檻に入れて鍵を持つことを、守るとは申しません」
広間が再びざわつく。
セラフィナが、今度こそ困ったように唇へ指を当てた。
「やめなさい、アリエル。感情的になるから誤解されるのよ。あなたのためを思って、ローデン侯子が手を差し伸べてくださっているのに」
「わたくしのためなら、まず母の研究棟の鍵を返してください」
「その話は終わったでしょう」
「終わっていません」
アリエルは帳簿の端を指で押さえた。紙の繊維がざらりと返る。偽物だ。少なくとも、最後の数頁は。
そのときだった。
「その話は、たしかに終わっていない」
低く、よく通る声が広間の後方から落ちた。
ざわめきが左右に割れる。
王都からの監査立ち会いで来ていた北辺公爵アルヴァが、ゆっくり前へ進み出てきた。黒に近い濃紺の上着には余計な飾りがなく、胸元にあるのは北辺公爵家の紋章だけだ。大股でもなく威張ってもいないのに、人が自然と道をあける歩き方をする。
「公爵閣下」
議長が慌てて腰を浮かせた。
「これは伯爵家の内輪の」
「薬草流通の記録に関する話なら、内輪では済まない」
アルヴァは机上の帳簿を一瞥しただけで言った。
「北辺でも同種の薬草の品質低下が続いている。今この場の書類が偽造されている可能性があるなら、王国内の流通全体に関わる」
セラフィナが扇を閉じる音がした。
「偽造だなんて、ずいぶん物騒なお言葉ですこと」
「物騒なのは帳簿のほうでしょう」
アルヴァは感情を乗せずに返した。
「乾燥記録の罫線と、補記欄の圧痕が合っていない。差し替えがある」
広間がしんとする。
アリエルは思わずアルヴァを見た。そこまで見るのか、この人は。
アルヴァは彼女の視線に気づいても、得意げな顔ひとつしなかった。ただ、机に置かれた帳簿の背表紙を軽く指でそろえた。
「加えて、ハーグレイヴ伯爵家には雨紋読解の技がある。検証手段があるのに退ける理由は、調べられて困る者がいると受け取られても仕方がない」
議長は口を開いたり閉じたりした。ローデン侯子は露骨に不機嫌そうに足を組み替える。
セラフィナだけが、微笑みを崩さなかった。
「北辺公爵閣下ともあろうお方が、ひとりの娘の言い分に肩入れなさるのですね」
「肩入れではなく、判断材料の確保だ」
「まあ」
「もっとも」
そこでアルヴァは、ようやくアリエルを正面から見た。
「私は彼女の能力にも関心がある」
灰色の瞳だった。氷の色に似ているのに、不思議と見捨てる冷たさはなかった。必要なものを見落とさない種類の目だと、アリエルは思った。
その視線のまま、アルヴァは議長へ向き直る。
「この件を伯爵家の不祥事として雑に片づけるなら、北辺は今後の薬材契約を全面的に見直す」
数人が青ざめた。北辺公爵家は王国有数の大領地で、薬草も食糧も取引量が大きい。
「代わりに提案がある」
嫌な静けさが広間を包む。
そしてアルヴァは、信じがたいほど落ち着いた声で言った。
「アリエル嬢」
その呼び方に、アリエルの胸が小さく震えた。罪人でも、厄介者でもなく、名で呼ばれた。
「私の妻になってください」
広間の空気が、完全に止まった。
ローデン侯子が椅子を鳴らして立ち上がる。
「何を言っている!」
「聞こえなかったなら、もう一度言う」
アルヴァは目もくれない。
「私の妻になってください。ただし、一年限りの白い結婚で構いません」
今度こそ、誰かの持っていた羽根ペンが床へ落ちた。
アリエルは一瞬だけ息をのんだ。
結婚。
それも、北辺公爵と。
普通なら、青ざめて固まる場面なのだろう。だがアリエルの頭の中では別の計算が走っていた。白い結婚。一年。北辺。公爵家の後ろ盾。調査権。流通網への接続。母の研究資料を追う足場。実家から無理やり嫁がされるより先に、自分で条件を選べる余地。
逃げ道ではない。
踏み台にできる。
アリエルはゆっくり呼吸を整えた。
「その申し出を受ける前に、確認したいことがあります」
ローデン侯子が怒鳴る。
「貴様、何様のつもりだ!」
「今、求婚されている女です」
アリエルは振り返りもせずに言った。
広間のどこかで、吹き出しかけた息が慌てて飲み込まれた。
アルヴァの口元が、ごくわずかに動く。
「確認を」
「北辺での研究権限は」
「与える」
「独自予算は」
「必要額を精査のうえ確保する」
「契約満了後の離縁の自由は」
「保障する」
「わたくしの侍女の選定権は」
「認める」
「わたくしが母の研究手記と資料を捜索することに、公爵家は干渉しませんか」
「正当な範囲で協力する」
間を置かず返ってくる答えに、アリエルは少しだけ目を細めた。本当に、この人は考えてきている。思いつきで拾う気なら、ここまで即答できない。
ならば、こちらも遠慮はいらない。
「では受けます」
アリエルはまっすぐ言った。
「わたくしは、あなたの妻になります。ですが、一年後に残るのが義理だけなら、わたくしは迷わず去ります」
「構わない」
アルヴァは即答した。
「私も、あなたを飾り物にするつもりはない」
セラフィナが初めて顔色を変えた。
「お待ちください、公爵閣下。こんな真似、伯爵家への侮辱ですわ」
「侮辱かどうかは、罪をでっちあげてから言うべきではない」
「証拠もないのに!」
「では、調べればいい」
ローデン侯子は怒りで首筋を赤くし、議長は汗をぬぐい、書記官たちは帳面を抱えて目を白黒させている。
その混乱の真ん中で、アルヴァはアリエルへ右手を差し出した。
手袋越しでもわかる、無駄のない大きな手だった。
アリエルは一拍だけ迷った。ここで手を取れば、もう戻れない。伯爵家の娘として、継母の顔色をうかがって生きる日々には。
けれど、戻る理由もなかった。
母の研究棟に積もった埃を思う。鍵の向こうへ追いやられた標本箱を思う。森のしずくの中に、まだ残っているはずの母の手を思う。
取り戻す。
そのためなら、名だって借りるし、結婚だって使う。
アリエルはアルヴァの手を取った。
広間の高窓から差し込んだ薄い春の光が、二人の手袋を白く照らした。
白い結婚。
それが、失ったものを取り戻すための、最初の一歩になった。




