役割の剥離
第三章:役割の剥離
温泉宿での最初の朝。真尋は、極度の緊張状態から解放された反動か、泥のような眠りから覚めた。 時計を見ると、午前九時を回っている。 「……しまった」 反射的に跳ね起きようとして、ここが自宅ではないことを思い出し、再び布団の中に沈み込んだ。
いつもなら、この時間はとっくにデスクに座り、コーヒーを片手にメールの山と格闘しているはずだ。あるいは、ひかりを保育園に預け、駅まで全力疾走している頃だろう。 天井の木目をじっと見つめる。耳に届くのは、規則正しい波の音だけ。 静寂。それは真尋がもっとも欲していたものであり、同時に、今の彼女にとって耐え難い「空白」でもあった。
「何かしなきゃ……」
焦りが、指先から這い上がってくる。三十六歳の今日まで、彼女は止まることを自分に許してこなかった。 大学を卒業して広告代理店に入社してから、彼女の価値観は常に「どれだけのアウトプットを出せるか」に依存していた。チームリーダーという肩書きを得てからはなおさらだ。誰よりも早く出社し、誰よりも遅くまで数字と向き合う。それが「自立した女性」の証だと信じて疑わなかった。 結婚し、ひかりが生まれてからも、その強迫観念は消えなかった。 「子供がいるから仕事が疎かになった」とは、絶対に言わせたくなかった。だから、家事も育児も、仕事の延長戦のように「効率」と「完遂」を求めた。ひかりに読み聞かせをする時でさえ、頭の隅では明日のプレゼン資料の構成を練っていた。
真尋は、電源を切ったままのスマートフォンを手に取った。 一秒、二秒……。 電源を入れたい誘惑と戦う。私がいないことでプロジェクトが頓挫していないか、後輩の田中くんがパニックになっていないか。私がいないと、あの会社は、あの家は、崩壊してしまうのではないか。
「……うぬぼれね」
真尋は苦笑し、スマートフォンをカバンの奥深くに押し込んだ。 もし、自分がいなくても世界が平然と回り続けるとしたら。それは彼女にとって、救いであると同時に、自分の存在意義を否定されるような、恐ろしい事実でもあった。
宿の朝食を済ませたあと、真尋は目的もなく海岸線を歩くことにした。 冬の潮風は冷たく、頬を刺す。 砂浜に座り込み、寄せては返す波を眺めていると、ふと数日前のミスを思い出した。 あの時、なぜ数字を間違えたのか。 単純な疲労だけではない。どこかで「これでいい」と妥協した自分がいなかったか。あるいは、あまりにも多くの役割を背負いすぎて、どれもが「中途半端」になっているのではないかという、根源的な恐怖。
――「真尋さんは、もっと肩の力を抜けばいいのに」
かつて、憧れていた先輩女性社員が、退職する際に残した言葉が蘇る。 当時の真尋は、その言葉を「弱者の逃げ道」だと切り捨てた。肩の力を抜いて、どうやってこの男社会の競争を生き抜くというのか。どうやって、母として完璧であり続けられるというのか。
歩き疲れた真尋は、宿の近くにある古びた喫茶店に立ち寄った。 客は自分一人。店主と思われる老婦人が、ゆっくりとした手つきで豆を挽いている。 店内には、古い文庫本がぎっしりと並んだ棚があった。何気なく手を伸ばすと、その中に一冊、ボロボロになった海外の詩集を見つけた。
ページをめくると、栞代わりに、誰かが書き置きしたようなメモが挟まっていた。 『頑張るのをやめるのは、諦めることじゃない。自分を守ることだ。』
その文字を見た瞬間、喉の奥が熱くなった。 自分は、自分を守ってこれただろうか。 会社での評価を守り、家庭の平穏を守り、娘の笑顔を守ってきた。けれど、その中心にいる「私」は、ボロボロに擦り切れて、誰からも守られることなく放置されていたのではないか。
「お嬢さん、コーヒー。熱いうちにどうぞ」
店主が置いたカップから、香ばしい湯気が立ち上がる。 真尋は、震える手でカップを包み込んだ。 和真は今頃、ひかりの夕飯をどうしているだろう。仕事と育児の両立の厳しさを、今まさに肌で感じているだろうか。それとも、案外うまくやっているのだろうか。
――もし、彼が「一人で大丈夫」だと言ったら? ――もし、ひかりが「パパがいれば寂しくない」と言ったら?
それは本来、喜ぶべきことだ。けれど、真尋の心には、冷たい寂寥感が広がった。 必要とされたい。けれど、解放されたい。 働く女性として、母として、妻として、彼女が抱えていた葛藤は、そんな矛盾した二つの感情が複雑に絡み合ったものだった。
夕暮れ時、宿に戻った真尋は、大浴場へ向かう廊下で、一人の若い女性とすれ違った。 二十代半ばだろうか。リクルートスーツに身を包んだ彼女は、どこか疲れ切った表情で、スマートフォンの画面を食い入るように見つめていた。 その姿は、十年前の自分そのものだった。
真尋は思わず、声をかけそうになった。 「大丈夫よ。世界は、あなたが思っているよりずっと広いから」 けれど、言葉は出なかった。今の自分が、その言葉を証明できていないからだ。
部屋に戻り、再び窓の外を見る。 空は深い紫に染まり、地平線は夜の闇に溶け込もうとしていた。 真尋は、スーツケースから持ってきたシルクのパジャマを取り出した。 誰に見せるためでもない、自分の肌を慈しむための服。 彼女は、初めて「明日、何をしよう」と考えずに、深い眠りにつこうとした。
役割を脱ぎ捨てるということは、自分自身の「無力さ」を受け入れることでもある。 一週間の休み。まだ、二日が過ぎただけだ。 真尋の心の中で、止まっていた時計の針が、ゆっくりと、しかし確実なリズムで、これまでとは違う時間を刻み始めていた。




