逃亡の朝
第二章:逃亡の朝
有給申請のエンターキーを叩いたあとの夜は、驚くほど静かだった。 真尋は、眠っている和真を起こさないよう、暗闇の中で最低限の荷物をスーツケースに詰め込んだ。着替え、数冊の読みかけの本、そして一番お気に入りの、少し高価なシルクのパジャマ。普段の家族旅行なら、娘の予備の着替えや常備薬、夫のケア用品でパンパンになるバッグが、自分のものだけで埋まっていく光景は、どこか背徳的で、ひどく新鮮だった。
翌朝、熱が下がったひかりは、和真に抱かれてぼんやりとしていた。 真尋は二人に、用意しておいた朝食を出しながら、努めて冷静な声で告げた。
「一週間、休みを取ったの。今日から、少し一人で出かけてくる」
和真の箸が止まった。 「……出かけるって、どこに? 仕事はどうしたんだよ。昨日の今日だろ?」 「仕事は調整したわ。行き先は、決めてない。ただ、一人になりたいの」
和真の目に、戸惑いと、それから少しの苛立ちが混ざる。 「無責任じゃないか? ひかりだってまだ本調子じゃないし、俺だって今週は……」 「和真。あなたはいつも『手伝う』って言ってくれるわよね」
真尋は、和真の言葉を遮った。その声は、自分でも驚くほど冷たく、透き通っていた。 「今週は、あなたが『主導権』を持って。お願い。これは、私が私でいるために必要な時間なの」
ひかりが不安そうに真尋の裾を掴む。真尋はその小さな手を優しく包み込み、視線を合わせた。 「ひかり、ごめんね。ママ、少しだけ『心の洗濯』をしてくるわ。パパと仲良く待っていてくれる?」 五歳の娘は、母の瞳の奥にある「拒絶」ではない「切実さ」を感じ取ったのか、小さく頷いた。
家を出る瞬間、背中に向けられた和真の「いつ帰るんだ?」という問いかけには答えなかった。駅までの道、冷たい冬の空気が肺を満たすたびに、真尋の体から「妻」や「母」という皮が、一枚ずつ剥がれ落ちていく感覚があった。
特急列車に飛び乗り、向かったのは数年前に一度だけ雑誌で見かけた、海沿いの小さな温泉地だった。 車窓を流れる景色が、ビル群から茶褐色の山々へ、そして光り輝く冬の海へと変わっていく。真尋は、座席のテーブルに置いたスマートフォンを見つめた。 ひっきりなしに届く、仕事のチャット、保育園のママ友からの連絡、和真からの謝罪と困惑の混じったLINE。
真尋は、それらの通知をすべてオフにし、電源を切った。 画面が暗転し、そこに映り込んだ自分の顔を見る。 目の下には薄くクマがあり、唇は乾いている。この女は誰だろう、と思った。高橋真尋という名前を持ち、完璧な人生を歩んできたはずの、この空っぽな女は。
昼過ぎに到着した「海音閣」は、崖の上に建つ古びた、しかし手入れの行き届いた宿だった。 案内された部屋の障子を開けると、目の前には遮るもののない青い水平線が広がっていた。
「ブルー・ホライズン……」
思わず呟いた言葉が、潮騒に溶ける。 仲居が淹れてくれた茶を飲み、彼女が去ったあと、真尋は畳の上に大の字になった。 何も音がしない。 「ママ、お腹すいた」「高橋さん、至急確認を」「真尋、これどこにある?」 自分を呼ぶ声が一つもしない空間。
これだ。これを求めていた。 しかし、喜びよりも先に襲ってきたのは、猛烈な「罪悪感」だった。 今頃、ひかりは泣いていないだろうか。和真は夕飯に何を食べているだろうか。私の仕事のミスをカバーしてくれている後輩に、申し訳ないことをしたのではないか。 結局、体はここにあっても、心はまだ「役割」に縛り付けられている。
真尋はスーツケースから一冊のノートを取り出した。 それは、かつて彼女が「自分」として生きていた頃、いつか書きたいと思っていた企画や、好きな言葉を書き留めていた古い手帳だった。 パラパラとめくると、十年前の自分の筆跡が目に飛び込んでくる。
『誰かのための人生ではなく、私のための物語を。』
今の自分に、その言葉を綴る資格があるだろうか。 真尋は、逃げるように立ち上がり、宿の浴衣に着替えた。 何もしないためにここへ来た。自分を見つめ直すために。 浴室へ向かう長い廊下には、潮の香りが満ちている。 真尋は、自分の中に澱のように溜まった「何か」を洗い流すべく、ゆっくりと湯船に足を踏み入れた。 熱い湯が肌を刺し、凍てついていた心根を少しずつ解かしていく。 湯気の中で、真尋は初めて涙を流した。 悲しいのではない。悔しいのでもない。 ただ、自分を縛り付けていた「正解」という名の鎖が、あまりにも重かったことに、ようやく気づいたからだった。
「……一週間。私は、名もなき私に戻るんだ」
窓の外では、太陽が水平線に沈もうとしていた。 空は深い藍色へと変わり、彼女の旅は、静かに、しかし確実な一歩を刻み始めた。




