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ブルー・ホライズンを止めて ―名もなき私に戻る七日間―  作者: 久遠 睦


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重なる不協和音

第一章:重なる不協和音


 午前六時、遮光カーテンの隙間から差し込む冬の鋭い光が、高橋真尋の瞼を刺した。  隣で眠る夫、和真の規則正しい寝息と、反対側で「く」の字になって布団を蹴飛ばしている五歳の娘、ひかりの温もり。本来なら、これ以上ない幸福の象徴であるはずの光景が、今の真尋には砂を噛むような焦燥感の種でしかなかった。


 彼女はそっとベッドを抜け出し、冷え切ったフローリングに足を下ろす。  三十六歳。広告代理店でのキャリアは十二年目を迎え、現在はクリエイティブ・チームのリーダーを任されている。昨夜、深夜一時までかかって修正したプロモーション企画の最終案が、スマートフォンの画面の中で静かに「送信済み」となっているのを確認し、彼女は短く息を吐いた。


「……よし」


 自分に気合を入れるための呟きは、結露した窓ガラスに白く消えた。  それからの二時間は、戦場だった。  和真のシャツにアイロンをかけ、ひかりの朝食を作り、自分のメイクを「手早く、かつ疲れを感じさせない程度に」仕上げる。連絡帳に検温結果を書き込み、娘の着替えを促し、ぐずる彼女をなだめすかしながらコートを着せる。  和真は彼で、ゴミ出しをして食器を食洗機に詰め、ひかりを保育園へ送る役割を担ってくれている。共働きとして、分担は完璧なはずだった。


「真尋、顔色悪いぞ。昨日の企画、そんなに大変だったのか?」 「大丈夫。今日さえ乗り切れば、一段落だから。和真も、プレゼン頑張ってね」


 微笑みを交わし、玄関でそれぞれの戦場へと向かう。この時の真尋はまだ、自分の中のダムが、あと一滴の雫で決壊するほど満水になっていることに気づいていなかった。


 オフィスに到着した真尋を待っていたのは、安堵ではなく絶望だった。  デスクに着くやいなや、上司の佐藤部長が血相を変えて駆け寄ってきた。


「高橋、昨日の修正案だが……。大至急、確認してくれ。数字が、一桁ズレている箇所がある」


 心臓がドクリと跳ねた。  ありえない。何度も見直したはずだ。深夜の朦朧とした意識の中で、最後に差し替えた市場調査の統計データ。その一箇所のミスが、全体の予算算出を根底から狂わせていた。  クライアントへの提出まで、あと三時間。


「申し訳ありません! すぐに、すぐに修正します」


 キーボードを叩く指が、微かに震える。周囲の視線が痛い。信頼と実績を積み上げてきた自負が、音を立てて崩れていく。  その時、追い打ちをかけるように私用のスマートフォンが激しくバイブレーションを繰り返した。  保育園からの通知だった。


『ひかりちゃん、お熱が三十八度五分あります。お迎えをお願いできますか?』


 真尋は眩暈を覚えた。  なぜ、今なのか。なぜ、こんな日に限って。  和真にLINEを送るが、彼は今、まさに重要なプレゼンの最中だ。既読すらつかない。


「部長、あの、子供が……」 「わかっている。修正だけ終わらせろ。あとは俺が引き受ける。高橋、頼むぞ」


 部長の言葉は温かいようでいて、その実、プロとしての責任を鋭く突き刺してきた。  真尋は、泣き出しそうな自分を必死に押し殺し、数字の海に潜った。目は乾き、思考は霧がかかったように重い。それでも、娘の熱い背中を思い出しながら、必死にキーを叩き続けた。    ようやく修正を終え、保育園に駆け込んだのは、呼び出しから二時間が過ぎた頃だった。  廊下の隅で、毛布にくるまって心細そうに待っていたひかりの姿を見た瞬間、真尋の胸に「罪悪感」という名の鉛が沈んだ。


「ママ、おそい……。ごめんね、おねつだして、ごめんね……」


 弱々しい娘の言葉に、真尋は言葉を失う。  謝らなければならないのは、私の方なのに。


 帰宅後、熱でうなされるひかりを寝かしつけ、真尋はキッチンの床にへたり込んだ。  時間は夜の八時。和真からは「急ぎの接待が入った、遅くなる」という短いメッセージが入っていた。  仕事のミス。娘の病気。空っぽの冷蔵庫。  彼女は立ち上がる気力もなく、暗い部屋で一人、スマートフォンの青白い光を見つめていた。


 十時を過ぎ、玄関の鍵が開く音がした。  和真が、少し酒の匂いをさせて帰ってきた。


「ああ、疲れた……。ひかりは? 寝た? 災難だったな、今日に限って熱出すなんて」


 和真は何気なくコートを脱ぎ、キッチンで水を飲んだ。そして、床に座り込んでいる真尋に気づき、軽い調子で言った。


「真尋も大変だったろ。大丈夫か? ……あ、シンクに食器溜まってるな。明日やるから置いといていいよ。それとも、俺が少し手伝おうか?」


 ――手伝おうか?


 その言葉が、真尋の中でカチリ、と何かを切り替えた。  手伝う。  誰の仕事を、手伝うというのか。  これは私の仕事なのか? 家事も、育児も、私が主体で、あなたは「助手」に過ぎないというのか。


「手伝うって……何?」


 低く、震える声が自分の口から出たことに、真尋自身が驚いた。


「え?」 「何を手伝うの? 食器? 洗濯? ひかりの看病? それは、私の『義務』で、あなたはそれを助けてあげる『親切な人』なの?」 「おい、真尋。落ち着けよ。俺はただ、君が疲れてそうだから良かれと思って……」 「良かれと思ってやるなら、言われる前にやってよ! 私が仕事でミスして、死ぬ思いで数字直して、ひかりを迎えに行って、今までずっと一人で看病してた間、あなたは接待で飲んでたんでしょ? なのに帰ってきて、他人事みたいに……!」


 一度溢れ出した言葉は、もう止められなかった。  和真もまた、仕事で疲弊していたのだろう。彼の表情から余裕が消え、言葉が鋭くなる。


「俺だって遊んでたわけじゃないだろ。仕事の理解はしてるつもりだ。家事だって分担してる。それなのに、そんな言い方される筋合いないよ!」


 言い合いは平行線をたどり、最後には重苦しい沈黙が部屋を支配した。  和真は溜息をつき、逃げるように寝室へ向かった。  一人残されたリビング。  真尋は、自分の指先が冷たくなっているのに気づいた。    頑張っている。  仕事も、家庭も、完璧に。  誰からも「立派だ」と言われるように。    でも、心の中には、冷たい隙間風が吹き抜けている。  夫は決して悪人ではない。家事もやる。仕事も応援してくれている。  娘は素直で、愛おしい。  世界的に見れば、これ以上の幸せはないはずなのだ。  それなのに、なぜ私は、こんなにも空っぽで、今すぐこの場所から消えてしまいたいと思っているのだろう。


 真尋は震える手でパソコンを開いた。  「有給休暇 申請」  社内システムの入力画面を見つめる。  一週間。  もし私が一週間いなくなったら、この世界はどうなるだろうか。  会社は回る。家も、和真がなんとかするだろう。    ――死ぬわけじゃない。ただ、休むだけ。


 彼女の指が、決定キーを押した。   「私は、私を休みます」


 深夜の静寂の中で、真尋は独り言を漏らした。  それは、幸福という名の檻から抜け出すための、最初の一歩だった。


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