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感情不要と言われた契約令嬢、離縁届で毒親一族と浮気夫をまるごと切り捨てたら冷酷宰相の最優先案件として過保護溺愛されました

作者: 夢見叶

 伯爵邸の廊下は、夜になるとよく響く。

 床も、壁も、私の心も、音をよく拾う。


 その夜も、そうだった。


 レオルドの私室の前で、私は足を止める。

 扉の向こうから、笑い声がこぼれていた。


「もう、やめてくださいよ、レオルド様」


 甘い女の声。カリナだ。

 城下で評判だった菓子職人。今は夫の愛人。


「やめられるわけないだろう。今さらだ」


 低く笑う声は、私の夫、梟冠レオルド。

 外では誰もが羨む若き伯爵。中身は、知ってのとおり。


「でも、奥様に見つかったら……」


「心配するな。あれは感情なんて持っていない。水煙家が作り上げた、立派な契約の塊だよ」


 笑い声が、すぐそばで弾ける。


 私は、思わず壁に手をついた。

 転びそうになったわけではない。ただ、立ち位置を確認したくなっただけ。


 契約の塊。

 人ではなく、書類の一部。


 聞き慣れた表現だ。


 水煙家の長女として生まれてから、ずっとそう扱われてきた。

 私、水煙ネイラは、家と未来の配偶者をつなぐ契約。

 泣くのも、怒るのも、笑うのも、契約に不要。


 だから私は、あの日から泣くのをやめた。

 あの日から、笑うのもやめた。


「持参金も、家の後ろ盾も、もう十分に吸ったさ。あとは、どう穏やかに水煙家を切り捨てるかだけだ」


「そんなこと、奥様の前で言ったら怒られますよ?」


「怒る? あれが? やめてくれ、笑わせないでくれよ」


 また、笑い声。


 私は、そっと息を吐く。


 怒ってもいいのだと、頭のどこかで声がした。

 けれど、体は覚えていない。

 怒り方を教わらなかったから。


 だから、私はいつものように、踵を返す。


 何も聞かなかった顔で。

 何も感じていない顔で。


 ただ、その夜、はっきりと決めた。


 私が契約なら、契約らしく終わらせる。

 私の意思で。


 


     ◇


 


 数日後。実家からの呼び出し状が届いた。


 水煙家の紋章が押された封筒。

 中身は、いつも通り、命令だ。


 私は、伯爵邸から馬車で実家へ向かう。

 窓の外に流れる街並みを眺めながら、ぼんやり考える。


 離縁という言葉が、頭の中で丸く転がっている。

 触るのが怖いような、でも手放したくないような。


 


 水煙侯爵家の応接間は、相変わらず冷たい。


「ネイラ。聞いたぞ」


 父、水煙バルネオは、私を見るなり眉をひそめた。


「梟冠伯爵のご機嫌を損ねているそうじゃないか。どういうつもりだ。家の利権をなんだと思っている」


「……利権、ですか」


 思わず繰り返すと、母、水煙ミルザが鋭い視線で私を刺した。


「利権よ。分からないふりはやめなさい。あなたが嫁いだおかげで、水煙家は王宮での発言権を増やしたの。それを、あなたの態度1つで台無しにされては困るのよ」


「態度……」


「レオルド様に愛されないなんて、女として欠陥があるんじゃないの。もっと笑顔を作る努力をしなさい。多少浮気されたくらいで騒がないこと。離縁なんて、絶対に許しませんからね」


 言葉が、昔の記憶を引きずり出していく。


 涙をこぼしたら、うっとうしいと言われた。

 怒ったら、生意気だと叩かれた。

 笑ったら、ふざけるなと怒鳴られた。


 感情はいつも、否定から始まった。


 ああ、そうだ。

 だから私は、もう何も出てこない。


「聞いているの、ネイラ」


「はい。失礼しました、母上」


 頭を下げると、布の擦れる音がした。

 応接間の隅。そこに、もう1人、人物がいた。


 黒い制服。

 淡い金の髪。無表情な横顔。


 無冠サイロス。王国宰相。


 どうしてここに、と疑問が浮かぶ前に、父が説明した。


「宰相殿には、行政改革の件で来てもらっている。余計な心配をかけるな」


「……はい」


 私は軽く会釈をする。

 宰相は、わずかに視線をこちらに向けただけで、表情は変えない。


 けれど、父と母が席を外したわずかな隙。

 応接間に、3人だけになった瞬間。


 彼は、低く、私にだけ分かる声量で言った。


「契約は、双方の合意がなければ成立しません」


「……え?」


「覚えておくといい、水煙令嬢」


 それだけ告げて、彼は視線を戻した。


 私はその場では、ただ黙って頭を下げることしかできなかった。


 けれど、胸の奥に、小さな火が灯ったような感覚だけは、確かにあった。


 契約は、双方の合意。

 私にも、拒む権利が、ある?


 そんなこと、考えたこともなかった。


 


     ◇


 


 引き金が引かれたのは、それからさらに数日後。


 いつものように伯爵邸の書斎で書類を整理していると、

 ドアがノックもなく開いた。


「ネイラ様……」


 顔を出したのは、カリナだった。

 目元を赤くし、ハンカチを握りしめている。


「どうしましたか」


「その、あの……」


 しどろもどろの視線が、私ではなく部屋の奥を泳ぐ。

 その後ろから、ゆったりとレオルドが姿を現した。


「ちょうどいい。ネイラ」


「レオルド様」


 彼はいつものように笑っていた。

 外向けの、整った笑顔。


「大事な話がある。落ち着いて聞いてくれ」


 大事な話ほど、落ち着いて聞くのが難しい。


「……はい」


「カリナが、俺の子を授かった」


 時間が、一瞬だけ止まった気がした。


 けれど、すぐに動き出す。

 私は、ゆっくりと瞬きをしただけだ。


「……おめでとうございます」


「驚かないのか」


「驚いていますよ」


「顔が、そうは言ってないな」


 彼は、わざとらしく笑った。


「ネイラ、お前も分かるだろう。本当に愛しているのは彼女なんだ。お前との婚姻は、水煙家との契約に過ぎない」


「そう、ですね」


「俺は家のために、お前との婚姻を続けてやっている。それを理解した上で、協力してほしい」


「協力、ですか」


「カリナと生まれてくる子どもが、後ろ指をさされないようにしてやりたい。お前には、正式な妻として表向きの立場を保ってもらったまま……」


 ああ、なるほど。


 私は、すとんと腑に落ちた。


 要するに、私は便利な盾。

 愛人とその子どもを守るための外壁。


「では、離縁なさいますか」


「……は?」


「私と、水煙家との契約が不要なのでしたら。私との婚姻を解消なさいますか」


 言葉にした瞬間、レオルドの笑顔がひきつった。


「ネイラ。お前、自分が何を言っているか分かっているのか」


「はい」


「離縁など、水煙家が許すはずがない。王宮だって困るだろう。宰相も、陛下も」


「そうかもしれませんね」


「だから、離縁をちらつかせて脅すのはやめろ」


「脅しているつもりはありませんよ」


 私は、静かにレオルドを見た。


 そこにあるのは、相変わらず整った顔立ち。

 けれど、もう美しいとは思えない。


「ただ、確認しただけです。レオルド様が、私との婚姻をどう扱っているのか」


「契約だと言っただろう」


「ええ。よく分かりました」


 その夜、私は久しぶりに、自室の机に山のような書類を積んだ。


 婚姻契約書の写し。

 王国法典。

 水煙家と梟冠家の取引記録。


 ろうそくの火の下で、私はそれらを何度も読み返す。


 契約は、双方の合意がなければ成立しない。

 宰相の声が、耳の奥で反響する。


 合意。

 無効。

 滅失。


 条文の文字が、今までとは違う色を帯びて見えた。


 そのとき、窓ガラスが、こつ、こつと叩かれる。


 驚いて顔を上げると、外に小さな影が見えた。

 使いの少年だ。

 窓を開けると、封筒を差し出してくる。


「水煙様に、お届け物です」


「ありがとう」


 封蝋には、王宮の紋章。そして、その隣に小さく、無冠家の印。


 中には、厚紙1枚と、短い紙片が入っていた。


 厚紙は、見慣れた形式の書類。

 題名は、婚姻契約条項一部改定および解消合意書案。


 紙片には、ただ1行だけ。


 明朝、宰相府へ。興味があれば。


 署名はない。

 けれど、誰からかは分かる。


 私は、ろうそくの火を見つめた。


 そして、初めて自分の意思で、炎を吹き消した。


 


     ◇


 


 宰相府の執務室は、実家よりも冷たいかと思っていたけれど、そうでもなかった。


 大きな机。

 壁一面の本棚。

 窓から差し込む朝の光。


 その中心に、無冠サイロスがいる。


「お忙しいところ、お時間をいただきありがとうございます」


 私が頭を下げると、彼はわずかに首を振った。


「呼んだのはこちらです。座ってください、水煙ネイラ殿」


 椅子に腰掛けると、机の上に例の厚紙が置かれる。


「昨夜、お送りした案です。

 あなたなら、気づくと思いました」


「……気づきました」


 私は、書類の条文を指でなぞる。


 婚姻契約の解消。

 利権の扱い。

 王家の権限。


 よく読めば読むほど、単なる離縁届ではないことが分かる。


「巧妙ですね。離縁の条項に見せかけて、水煙家と梟冠家の王宮発言権を、王家に預ける形になっている」


「ええ」


 サイロスは、淡々と頷いた。


「このままでは、陛下が直接介入したと誤解されかねません。ですから、これはあくまで案です。仕上げるかどうかは、あなた次第」


「私が、ですか」


「あなたは、自分を契約の一部だと思っている。けれど、契約を読むことができるのは、人間だけだ」


 彼の視線が、まっすぐ私をとらえる。


「伯爵との婚姻契約書。水煙家と梟冠家の取引記録。あなたは、すべて目を通しているはずだ」


「……はい」


「条文の穴も、言葉の曖昧さも、見つけているだろう」


 見つけていた。

 気づいていた。

 けれど、それを指摘することは許されないと思っていた。


「あなたは、感情ではなく条文で世界を見ている。

 だからこそ、壊されずに生き延びたのでしょう」


 サイロスの声は、冷たいというより、静かだった。


「その目で、この案を書き換えてほしい。あなたが自由になる契約を、私も1つくらいは見たい」


「……宰相閣下」


「サイロスで構いません」


 そんなことを言われたのは、初めてだった。


 私は、思わず笑いそうになって慌てて飲み込む。


「では、サイロス様。この案には、2つ問題があります」


「聞きましょう」


「1つ。このままでは、水煙家と梟冠家が、利権を王家に預けることに気づいてしまいます。読む人間が読めば、すぐに」


「ええ」


「ですから、離縁に関わる表現を増やして、そちらに意識を向けさせる必要がある。特に、レオルド様のような人は、都合の良い文言しか読まない」


「なるほど」


「2つ。この案だと、私も水煙家の一員として、利権を王家に譲る側に含まれてしまう」


 私は、自分の名が書かれた行を指さす。


「私は、もう水煙家のために犠牲になるつもりはありません。条文上、私だけは、王家側に立つ形に変えたい」


 一瞬の沈黙。

 それから、サイロスの口元が、ほんのわずかに動いた。


「いいですね」


「よろしいのですか」


「そのように書き換えましょう。あなたは、もう彼らと同じ欄に署名する必要はない」


 私たちは、その日1日、机に向かって条文を書き換え続けた。


 私が穴を指摘し、サイロスがそれを法の言葉に変える。

 サイロスが新しい条項を提案し、私が水煙家の性格から反応を予測する。


 不思議な感覚だった。


 誰かと一緒に書類を作るという行為が、

 こんなにも楽しいものだとは思わなかった。


 夕刻。最後の句点を書き加えたとき、サイロスがペンを置いた。


「これで、形は整いました」


「ええ」


「あとは、舞台を用意するだけです」


「舞台……」


「社交界の夜会がありますね。陛下も出席される予定です。王宮で正式に、婚姻契約の再確認と、離縁の是非を問う場を設けましょう」


「そんなこと、許されるのでしょうか」


「書類のためなら、なんでも許されますよ」


 サイロスは、淡々とした顔で、少しだけ悪いことを言った。


「あなたが嫌でないなら、ですが」


 私は、書類を見下ろした。

 そこに並ぶ名前。水煙家。梟冠家。王家。そして、私。


「嫌では、ありません」


 ようやく、そう言えた。


 


     ◇


 


 王宮の大広間は、灯りで満ちていた。


 クリスタルのシャンデリア。

 きらびやかなドレス。

 笑い声と音楽。


 私は、水煙家の令嬢として、その場に立っていた。


 隣には、梟冠レオルド。

 その後ろには、父と母。

 少し離れた場所で、カリナが不安そうにこちらをうかがっている。


「今日は、笑顔を作れるじゃないか」


 レオルドが、耳元で囁いた。


「こういう場では、笑っておいた方がいいですから」


「そうだな。この場で離縁を言い出す度胸は、お前にはないだろうし」


 私は、笑顔のまま黙っていた。


 やがて、音楽が止まる。

 大広間の奥、王の座の脇に、黒衣の男が進み出る。


 無冠サイロス。

 王国宰相。


「本日は、お集まりいただき感謝いたします」


 彼の声が、静かに広間を満たす。


「陛下の御前において、1件、重要な契約に関する確認がございます。水煙家と梟冠家の間の婚姻契約、および関連する諸条項についてです」


 ざわ、と空気が揺れた。


 レオドが、わずかに身じろぎをする。

 父と母の顔からも、血の気が引いていくのが分かった。


「なぜ今さら、そんなものを」


 父が小さくつぶやく。


 サイロスは、それを聞こえているのかいないのか。


「関係各位には、すでに案文をお渡ししております。本日は、陛下の御前において、最終的な署名をいただきたく存じます」


 侍従が、銀盆に載せられた書類を運んでくる。


 1枚の厚紙。

 婚姻契約条項一部改定および解消合意書。


 私は、その題名を見つめた。


 離縁届。

 でも、ただの離縁届ではない。


「まずは、梟冠家当主。署名を」


 サイロスに促され、レオルドの父が前に進む。

 震える手でペンを取り、紙に名前を記す。


「続いて、水煙侯爵」


 父もまた、顔をこわばらせながら署名した。

 母も、その隣に。


「梟冠レオルド殿」


 レオルドが、ゆっくりと歩み出る。

 私の方をちらりとも見ない。


 ペン先が、紙の上に走る。


 梟冠レオルド。


 その名前が書き加えられた瞬間、胸の奥で何かがほどけた気がした。


「最後に、水煙ネイラ殿」


 私の番だ。


 私は、書類の前に立つ。

 用意されたペンを手に取る。


 そして、一度だけ顔を上げた。


 サイロスが、こちらを見ていた。

 無表情のまま。

 けれど、その瞳の奥には、確かに何かが灯っている。


 私は、紙に自分の名前を書いた。


 水煙ネイラ。


 ペンを置いたとき、サイロスが軽く頷いた。


「これにて、関係者全員の署名が揃いました」


 大広間に、静寂が落ちる。


「まず、婚姻契約の件について。水煙ネイラ殿と梟冠レオルド殿は、本日をもって、婚姻関係を解消いたします」


 ざわめきが、一気に広がった。


「な……」


 レオルドが、私を振り返る。


「お前、本当に……」


「レオルド様。離縁なさいますか、と伺いましたよね」


「冗談だと思っていた」


「私は、冗談を言うような性格に見えますか」


 レオルドは言葉に詰まった。


「続いて、関連条項について」


 サイロスの声が、ざわめきを断ち切る。


「条文第7項に基づき、水煙家および梟冠家が王宮において有していた発言権、並びにそれに付随する利権は、本日をもって王家に預けられるものとします」


 静寂。

 それから、爆発のようなどよめき。


「なっ……そんな条項、聞いていない!」


 父が叫ぶ。


「そんなはずはない! 私は離縁の件しか聞いていないぞ!」


「私もですわ!」


 母が、顔色を変えて書類を指さす。


「これは、離縁の書類でしょう!?どうして水煙家の発言権が王家に……」


「読んでいただければ、お分かりになるはずです」


 サイロスは淡々と答える。


「条文は、すべて書面に記されています。あなた方は、それに自らの手で署名なさった」


「だ、だが、そんな細かいことまで……」


「契約を軽んじた責任は、契約を軽んじた者が負うものです」


 サイロスの声は、相変わらず静かだ。

 それでも、逃げ場のない冷たさがある。


「王家は、あなた方の利権を奪うつもりはありません。ただ、預かるだけです。今後、王宮で発言をなさりたければ、正当な手続きをもって申請してください」


 父と母の顔から、完全に血の気が引いた。


 レオルドもまた、にわかに青ざめている。


「ネイラ……お前、これは一体……」


「レオルド様」


 私は、一歩前に出た。


「以前、おっしゃいましたよね。私は、人間ではなく契約だ、と」


 大広間の視線が、私に集まる。


「でしたら、その契約に敗れた今、あなた方は何なのでしょうね」


「ふざけるな!」


 レオルドが怒鳴った。


「こんなの、宰相の罠だ! 俺は知らなかった!」


「知ろうと、しなかっただけです」


 私は、静かに言った。


「私は、もうあなたの妻ではありません。水煙家の娘でもありません。これからは、私自身のために契約します」


 言葉が、喉の奥からするすると出てきた。


 誰に教わったわけでもない。

 でも、ようやく、自分の声になった気がした。


 


     ◇


 


 その後のことは、早かった。


 水煙家と梟冠家は、王宮での発言権を失い、一気に影響力を落とした。

 利権の一部は整理され、不正も露わになっていく。


 カリナだけは、罰を受けなかった。

 サイロスに、私が頼んだからだ。


「彼女は、レオド様に言葉を与えられていただけです。私のように、怒り方も、疑い方も知らなかった」


 そう告げると、サイロスは少しだけ眉を動かした。


「あなたは、本当に、水煙家の娘ですか」


「残念ながら」


「残念ではありません」


 やがて、カリナは城下に戻り、菓子職人として店を開いたと聞いた。

 甘いものが好きになれたら、一度行ってみてもいいかもしれない。


 


 私は、王宮に残った。


 宰相府の一室。

 新しく用意された机。

 そこに山と積まれた契約書や法令案。


「本日から、水煙ネイラ殿は、宰相府契約監査官として勤務していただきます」


 サイロスが、淡々と告げる。


「雇用契約書は、もう一度読みますか」


「いえ、もう大丈夫です。条文の内容は、すべて暗唱できますから」


 雇用契約書には、変な条文がいくつもあった。


 体調不良時には、無理な残業を命じてはならない。

 安全が脅かされた場合、宰相府は速やかに保護すること。

 精神的負担が大きい業務には、必ずサイロスが同席すること。


「最後の条文は、必要でしたか」


 そう尋ねると、サイロスは珍しく視線をそらした。


「あなたには、これくらいの甘さでも足りないかもしれないと思って」


「甘いというより、過保護では」


「そうかもしれません」


 その不器用な言葉に、思わず笑ってしまう。


「笑えるのですね」


「自分でも、驚いています」


 笑う、という行為を、こんなふうに思い出す日が来るとは思わなかった。


「もう1通、渡したい書類があります」


 サイロスが、机の引き出しから封筒を取り出した。


 宰相府の印も、王家の紋章もない。

 ただの、白い封筒。


「これは、公的なものではありません。私的な書類です」


「……私的」


「今すぐに読まなくていい。いつか、契約ではない関係を結んでもいいと思ったときに、開けてください」


 封筒を受け取ると、中に小さな重みを感じた。


「内容は、聞いても」


「今は内緒です」


 サイロスは、ほんの少しだけ、口元を緩めた。


「宰相は秘密が多いものなので」


「その言い訳は、ずるいと思います」


「覚えておきます」


 私は、封筒を胸の前で握りしめた。


 いつか、自分の意思で開く日が来るのだろうか。

 そのとき、私はどんな顔をしているのだろう。


 少なくとも、契約の塊ではない。

 誰かの利権でもない。


 私が選ぶ私として、そこに立っていたい。


 窓の外には、王都の朝の光が広がっている。


 私は、深く息を吸った。


 これから結ぶのは、もう誰かに押しつけられた契約ではない。

 私が読んで、選んで、署名する関係だけだ。


 その最初の1歩として、私は新しい仕事の契約に、ペンを走らせた。


ここまでお読みいただきありがとうございます!

テーマは「契約から、関係へ」──自分の人生に自分でサインし直す物語でした。

少しでも刺さるところがあれば、ブクマ・評価・感想をぽちっと頂けると、作者が次の書類にも全力で赤ペンを入れられます。

次は「毒親持ち元悪役令嬢、魔王城のブラック就業規則を改革します」系の連載を予定しているので、そちらも覗いてもらえたら嬉しいです。


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