水音
出張の商談が予想外に長引き、終電を逃した。
時計を確認すると9時半を過ぎている。狭いロータリーに立つ唯一の街灯の明かりだけが、ここが駅であることを知らせていた。その灯りの下で呆然と立ち尽くしていると、一台のタクシーが灯りに引き寄せられるように現れた。運転手は年配の男で、窓を開けて声をかけてくる。
「何もない田舎ですからね。山の温泉に安い宿がありますよ。古いけど、一晩くらいなら」
差し出された名刺の隅に、旅館の電話番号が書かれていた。かけてみると、受話器の向こうからしわがれた女の声が応じた。
「お泊まりはできますが、ご夕食の用意はできません。それと……お客さまはあなただけになりますが」
妙な言い回しに引っ掛かりを覚えたが、泊めてもらえるなら問題ない。了承して電話を切る。
◇◆◇◆◇
街灯の途切れた山道を、タクシーはくねくねと登っていった。窓の外は闇。ヘッドライトの光が次々と杉の幹を白く照らし出す単調なものだった。
随分と山奥まで進んでいくものだなとぼんやり考えていた。
「昔からある宿でね。変わった噂も聞くけど、とにかく安いからね」
運転手はバックミラー越しにこちらの顔を伺い、苦笑した。
二〇分ほどかけて旅館に着くと、周囲は濃い霧に包まれていた。車のライトが去っていくと、まるで世界の全ての物音がかき消されたような静寂が訪れる。
木造三階建ての建物は、看板の灯りが一部だけぼんやり点いている。しかし旅館の名前は読めなかった。引き戸を開けると、建物の中にこもっていた湿った冷気が土間から流れ込み、身体にまとわりついた。帳場に座る老女は、皺だらけの顔を上げ、淡々と施設の説明を始める。
「お風呂は廊下の突き当たり。お部屋にも内風呂がついております。お好きな方を」
宿帳を差し出され、無言で記入する。ふと、老女の視線が自分の背後を見ているような気がして、思わず振り返ったが、誰もいなかった。
「なにかございましたら内線を。翌朝には帳場に戻っておりますので」
そう言い残し、老婆が旅館を去っていく。旅館の隣に老婆の住む家があるらしい。文字通りこの建物に泊まる者は一人である。老婆を見送ったあと、自室に向かうために階段を登った。
◇◆◇◆◇
部屋は二階の八号室。裸電球の橙色の灯りに照らされた薄暗い廊下には、いくつもの客室の扉が並んでいるが、すべて閉じられていた。
改めて一人であることを思い知らされ部屋に入る。かすかにカビのような匂いが鼻を突いた。畳が微かに波打ち、黄ばんだ電球が部屋を薄暗く照らす。
温泉ということだが大浴場に向かう気にはなれず、内風呂に湯を張り、ぬるめの湯に浸かる。自分が作り出す音以外は一切聞こえない。温泉街と聞いたが、この旅館しかないのではないか。この旅館も老婆とともに皺を刻み、消え入りそうな呼吸をしている。そんな風に思えた。
やがて湯から上がるが何もすることがない。眠りにつくには早すぎる気もしたが、布団に潜る。寝付くには時間がかかりそうだった。
ふと目が覚めた。予想に反していつの間にか寝入っていた。時計を確認すると、まだ一時間も進んでいない。相変わらず周囲は死に絶えたように静まり返っている。ため息をついて再び眠ろうとしたとき、かすかな音が聞こえた。
ぽちゃん。
水滴が落ちるような物音。気のせいではない。その音は一度聞こえ出すと、耳の奥に粘りつくように残る。そして、またぽちゃんと物音が響く。
寝返りをうちながら音の元を探る。どうやら隣室からだ。建物にガタがきているのだ。風か排水の音か。そう考えようとしたが、音の間隔があまりに規則的すぎる。
老女の言葉が脳裏に蘇る。
「お客さまはあなただけになりますが……」
胸が奇妙にざわついた。霧は出ていたが、雨音はしない。物音を無視しようと深く布団を被る。その音は消えた。しかし、眠りに落ちかけた瞬間、再び耳を打つ。
ぽちゃん。
今度ははっきりと。まるで誰かが浴槽の縁を指で叩いているようだった。その間隔が、少しずつ短くなっている気がする。
堪えきれず、布団を跳ね上げた。
廊下に出ると、裸電球が心もとない影を落とす。
板張りの床がぎしりと鳴った。隣室の襖に手をかけると、取っ手が冷たく湿っていた。嫌な感触に眉を寄せながらも、ゆっくり扉を滑らせる。
薄暗い畳部屋が廊下の光によって照らし出された。誰もいるはずがない。当たり前のことを確認して長い呼吸を漏らす。
しかし、その息の先、風呂場の扉が、わずかに開いていることに気づく。隙間から白い湯気が薄く漏れていた。
その白い靄を見た瞬間、肌が粟立つ。誰かが中にいる。そう確信した。湯気はその息遣いのようにも思え、身がすくんだ。
引き返そうと思ったが、耳元でまた、ぽちゃんと音が鳴った。
今すぐ逃げるべきだ。心臓が激しく鳴動し警鐘を鳴らしている。しかし、このまま放置して何もわからないまま夜明けまで過ごすことを想像すると、それも耐えがたかった。老婆を呼び出そうと思った。しかし、彼女が何の役に立つというのか。それに何もなかったときに恥をかくのも癪だ。
恐怖に背中を押されるようにして浴場へとおそるおそる進む。震える手で扉を押し開けた。
湯気の渦巻く中、人の姿はない。ただ湯船がぼんやり光っていた。
よくわからない。その光源を確かめようと首を伸ばす。その光にはいくつもの細い糸が絡みついているようだった。それは黒く長く、湯船を漂っている。
「なんだ?」
目を凝らし、焦点を合わせる。
それが髪の毛だと気づいた瞬間、背筋が凍りついた。
湯面が、かすかに膨らんだ。同時に酷い腐臭が鼻を突く。
そして、ぬめりとした水をまとわりつかせ、それは立ち上がった。
「ひっ」
声にならない悲鳴を上げ、腰が砕け、その場に崩れ落ちる。
長い黒髪に覆われた女だった。身体は細く、皮と骨のみのように見えた。顔を覆っていた黒髪が揺れ落ち、女の顔の半分が覗く。死人のように白く生気をまったく感じなかった。
逃げ出すことも、声を上げることもできず、ただ女を見上げた。
顔をそむけたいが、金縛りに遭ったように身体は動かない。
女のまぶたが重力に負け、垂れ落ちるように開く。そこに瞳はなく、ただ、先程見たぼんやりとした灯りが滲んでいた。
そして女の口がだらしなく開いていく。そこから腐った果実が崩れ落ちていくように、どろりとした液体が口元から垂れ落ちた。
そして、ぽちゃんと音を立てた。
◇◆◇◆◇
ふと気づくと、朝の光が障子を透かしていた。布団の中は汗でぐっしょりと濡れていた。ひどい夢を見た。耳の奥にはあの水音が張り付いていた。ありえない。そう考え、頬を叩き、夢の余韻を打ち消す。
部屋を発つときに、隣室が気になった。本当に夢だったのだろうか。おそるおそる隣の部屋に視線を向ける。到着時には閉まっていたはずの襖が、わずかに開いていた。それを見た瞬間、悲鳴を上げそうになったが、かろうじて堪え、襖の前へと近づく。
ぎしりと軋む床が、さらに胸をざわつかせた。
ゆっくりと襖を開く。朝日が差し込む部屋の中で、畳は黄色い光を反射していた。湿気はない。ただの空室。安堵の息をもらし、額に溜まった脂汗を拭おうとしたとき、襖を触った指先にぬるりとした感触があった。
手汗だとは思えなかった。
帳場に降りると、箒を掃く音が聞こえた。背を向けていた老婆は腰を叩き、こちらへと振り返る。
◇◆◇◆◇
ぎこちなく釣り銭を数える老婆の指先を見つめる。いくつもの皺が刻まれた指先は常に震えていた。
「昨夜、隣の部屋から水滴の……」
話しかけようとして、言葉を止める。こんな馬鹿な話をしても信じてもらえるわけがない。しかし、老婆の指先は止まっていた。
「九号室は、昔、一人の女性が……」
老婆は口ごもる。
その沈黙を、タクシーのクラクションが裂いた。
◇◆◇◆◇
タクシーに乗り込み、山道を下る。昨夜と同じ運転手である。
旅館から離れていくことに安堵していた。そして、一人でないことも心強かった。欲を言えば他愛ないことでいいから会話をしたいが、濃い霧である。運転手の視線はフロントガラスに張り付き、慎重にハンドルを操作していた。
仕方なく窓の外に視線を向ける。
そのとき、ぽちゃん、と音がした。
車の天井に何か落ちたようだ。運転手がバックミラーを確認し、頬を引き攣らせる。その視線に釣られるように見上げると、天井が真っ黒だった。それは無数の細く黒い繊維。それが蠢く。
また、ぽちゃん、と音がした。
昨夜の女の黒髪を思い出すと同時に、それは車内に降り注ぐように落ちて、纏わりついてきた。
「ハンドルがっ!」
運転手の叫び声が響く。身体が大きく揺さぶられた。
車体はガードレールを突き破る。その音は聞こえなかった。髪の毛が視界を覆い尽くす。
水音が顔に降りかかった。
ぽちゃん。
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