足音のない来訪者
正午。薄雲が張りついたような空の下、レイチェル・フォンは書類の束を抱えて庁舎を出た。
異能調整省・治安監視課に所属する彼女は、新人としてまだ一ヶ月の勤務だった。
街は平和だった。表面上は。
通りには家族連れ、商店の喧騒、笑い声。けれどレイチェルはその雑音の奥に、なにか針のような違和感を感じていた。
いつからか、“あの都市”では、理由もなく人が死ぬようになったのだ。
「また……昨日もか」
彼女の上司が漏らした言葉が脳裏にこびりついていた。
記録に残らない殺人。異能反応なし。防犯魔眼にも映らない。
死体の傍には、決まって笑った仮面の絵が描かれていた。
レイチェルは午後のパトロールへと向かった。
訓練された警備ドローンが空を旋回し、警察型ゴーレムが無言で道を塞ぐように歩いていた。
だがそのすべてが、すでに“鬼”に見られていた。
* * *
その頃、住宅街の端にある空き屋では、子供たちの声がしていた。
廃屋に入って遊ぶなど本来は厳禁だが、放置されて久しいその建物には、警告の札すら薄れていた。
「ここで“鬼ごっこ”したらさ、マジ怖くね?」
黒髪の少年が笑った。彼はダンと名乗った。
彼の後ろで、妹のリナが不安そうに目を泳がせている。
「兄ちゃん、帰ろうよ……」
「何言ってんだよ、怖い話ってのはな、本当に体験して初めて面白いんだよ!」
そして彼らは知らなかった。
その建物の影には、すでに“フードの男”が立っていたことを。
彼はただ、首をわずかに傾けていた。
その鬼の仮面の口元が、にやけたように歪んでいる。
彼にとっては、些細な暇つぶし。
言葉を交わす必要はない。
ただ“追う者”と“逃げる者”を決めるだけでいい。
* * *
午後3時24分。
パトロール中のレイチェルに、監視塔から非常通報が入る。
「セクターD-7、魔力探知反応ゼロ領域で異常振動。地盤反応あり」
「探知反応“ゼロ”……?」
普通、異能力者が存在するなら微弱な波形があるはずだ。だが“ゼロ”というのは――
“何か”が、異能の観測そのものを妨害しているということ。
嫌な汗が背中を伝う。
レイチェルは銃を握り直し、隊員たちに通信を送った。
「第3分隊、今すぐD-7に集合。可能なら、レベル3以上の制圧準備を。対象の正体は……未確認」
その時、彼女はまだ知らなかった。
隊員たちがその場所に到着する頃、そこに「追いかけっこ」の“鬼”だけが残されていることを。
子供たちのうち、妹のリナの片方の靴だけが、階段の下に転がっていた。