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9話

 


 レオンの自画像は、ようやく完成を迎えようとしていた。


 柔らかな午後の陽光が、ヴァルモンド邸の石造りの館を静かに照らしていた。南向きの窓から差し込む光は、白いカーテンを透けて淡い金色のベールとなり、ハルの机を照らしている。その部屋は元々客間だったが、ハルのために画材や小さな棚が設けられ、今ではまるで小さなアトリエのようだった。


 ハルは椅子の上で膝を立て、少し前かがみになって、キャンバスに向き合っていた。白と黒が入り混じった長い髪が、日差しを受けて柔らかく揺れる。その小さな指先に握られた筆は、驚くほど確かな軌道で最後の陰影を描いていく。


「うん、これで……いい」


 完成したのは、レオン・ヴァルモンドの肖像画。高貴な雰囲気を纏った少年の横顔には、誇り高さと繊細さが絶妙に共存していた。柔らかな光を受ける金髪の質感、漆黒の瞳に宿る複雑な感情、そして控えめにほころぶ口元__まさしくレオンそのものだった。


 ハルは筆を下ろし、小さく息を吐いた。完成したばかりの絵を見つめながら、目尻をわずかに緩める。静かな満足感が胸の奥を満たしていた。


 レオンの家庭教師が明日から始まるということで、今日は特別に自由な時間をもらっていた。絵の完成を報告するにはまだ早い。だからこそ、今はただ、自分の好きな絵を描く時間が嬉しかった。


 レオンの絵を手に取った瞬間だった。


 __ぼぅ……。


 部屋の空気が、急に温かくなった。


 カーテンが揺れていないのに、どこか風のような気配を感じた。空気がゆっくりと回転しているような、あるいは、見えない何かが部屋を満たしていくような。


 ハルは目を見開いた。胸の奥がざわざわと騒ぎ、頭の後ろを撫でるような感覚が走る。視線を絵に戻すと、そこから微かに光が漏れていた。


 __空間が、歪んでいる。


 絵の中のレオンの手が、じわじわと“開いて”いた。まるで、そこに実際の空間が広がっているかのように。吸い込まれる感覚。引き寄せられる意識。恐怖よりも、むしろ懐かしさのようなものを感じてしまった。


(……これは、何?)


 その瞬間__


「異常エネルギー反応、座標固定。ヴァルモンド領内、座標F-34、到達まで6分」


 遥か遠く、王都にある科学機関の観測所で、複数の科学者たちが慌ただしく動いていた。


「値が高すぎる。自然現象じゃない、これは……」

「何かの発生源だ。しかも__魔法の?」


 一方で、ヴァルモンド邸の裏手、屋敷の影に潜む三つの影がいた。


「魔力の揺らぎ……ここまで鮮明に現れるとは」

「やはり、この子か。ハル・エリュア」

「科学機関の奴らに先を越されるな。奴らに渡れば、彼女は研究対象だ」


 その中の1人、細身で銀縁の眼鏡をかけた黒衣の男が呟いた。彼の背中には、どこか異国風の刺繍が施されたローブ。その手には、分厚い革表紙の魔法書が握られていた。


「選ばれし存在か、それとも__脅威か」


 ヴァルモンド邸の中、ハルの部屋に戻る。絵の発動は、次第に弱まっていた。光が消え、空気が静かに戻っていく。しかし、ハルはまだ呆然と立ち尽くしていた。額には汗が浮かび、息は少しだけ荒い。


 だが、不思議と怖くはなかった。むしろ__「絵が、応えた」ような感覚。


「絵が……喋った?」


 外では、何も知らぬまま、風が静かに草花を揺らしていた。


「……なんだろう、この感じ」


 ハルは立ち上がり、絵に近づく。思わず手を伸ばした瞬間、光が弾ける。空間がゆがみ、足元が沈むような感覚__まるで絵の中に吸い込まれたかのような錯覚に、ハルは息を呑んだ。


「っ__!?」


 その瞬間、部屋の扉が大きく開かれた。入ってきたのは、漆黒の上衣を纏ったレオンの父、アルフレッド・ヴァルモンド伯爵だった。鋭い目を絵へ向け、すぐにハルへと歩み寄る。冷静に、しかし焦燥を内に秘めた声が室内に響く。


「……止めろ。その魔力は、まだ君には制御できない」

「え……?」


 ハルの目が見開かれた。彼の声には確信があった。まるで、以前から知っていたかのように。


「お前が特別なのは偶然ではない。お前が魔法を感知できるのも、そうなるべくして、そう“選ばれた”のだ」


 意味のわからない言葉。しかし、心のどこかで、ハルには思い当たる節があった。父・アレンの言葉。かつて、彼がふと口にした「異世界」という奇妙な言い回し。あれは、比喩ではなかったのだろうか。


 驚きと混乱の中で、ハルは言葉を失っていた。だが次の瞬間、部屋の奥から複数の足音が響く。重たい扉がまた開き、今度は見知らぬフード姿の人物たちが姿を現した。


「ハル・エリュア。君を政府機関に連行する。これは国家安全に関わる。君のような力を持つ者は、我々の監督下に置かねばならない」


 無機質で冷たい声。それに伴い、何かを展開するための装置が、彼らの手の中で起動していた。


「やめてください!」


 鋭い叫びと共に、走り込んできたのはレオンだった。紅色の上衣を揺らしながらハルに駆け寄ろうとするが、職員の一人にすぐに腕を掴まれ、動きを封じられる。


「君は関係ない。子どもは下がっていなさい」

「彼女を連れていくなんて、許さない!」


 それでも、声を荒げるレオン。その姿にアルフレッドが歩み寄り、低く重い声で告げた。


「レオン。これはお前が口を挟むべきではない。これは、お前の知らない世界の話だ」


 その言葉に、レオンの目が揺れる。信じていた父親の口から出た冷酷な真実。だがその時、ハルが彼を振り返った。


「……父上、どうしてそんなことを仰るのですか? 俺だって、ハルのことを知りたい!!! どうして、何も教えてくれないのですか!!」


 その声は震えていた。だが、確かな意志も感じさせた。


 次の瞬間だった。部屋の中心、彼女の周囲に風が渦巻いた。先ほどの絵が再び光を放ち、空気が揺らぎ始める。魔力。それは幼い少女の身にあるまじき、強大な力だった。


 職員たちが後ずさる。「こんな反応、聞いていない!」という叫びが飛ぶ。


 ハルの両目が、淡い蒼色に染まっていた。自身の中に満ちていく熱に、もはや恐れはなかった。


 __使える。


 その確信が、心に灯った。ハルの手が自然に宙へと伸び、絵の魔力と同調する。風が爆ぜ、光が弾ける。


「__魔法を、使う」


 その一言が、運命の幕開けだった。



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