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3話

 ___こんな美しい顔を、描いてみたいと思ったの。


 ハルの何気ない一言。けれど、それは王族の末端に連なる地方貴族の子息レオン・ヴァルモンドにとって、人生で初めて真正面から言われた“本当の褒め言葉”だった。


 いつもなら、「お綺麗ですね」「まるで肖像画のようです」と、飾り立てた言葉を大人たちは並べる。だが、そこには下心や忖度が見え隠れしていた。だからこそ、年下の少女から向けられた素直な称賛に、レオンの頬がほんのり赤くなる。


「……っ!」


 レオンはぱっと父親の後ろに隠れてしまった。その様子を見て、レオンの父、ヴァルモンド公爵は思わず口元を緩める。恥ずかしがる息子を見るのは、本当に、ひどく久しぶりだった。そして何かを悟った。


「……なるほど。ならば__」


 名案が閃いたのは、そのときだ。


「平民。息子の絵を描けるか?」


 唐突な申し出に、ハルの目がぱちぱちと瞬きを繰り返す。


「えっ、描いていいの?」

「もちろんだ。報酬は、そうだ__通常の肖像画一枚の千倍。1,000グレナの価値を持つ、ロナルド金貨を一枚でどうかね? さらにレオンの家庭教師をやるならば倍を出そう」


 思わず息をのんだのは、付き添いの使用人たちも同じだった。ロナルド金貨__それは王都でも滅多に見られぬ、純度の高い貴金属で鋳造された特注の貨幣。貴族でもそう簡単に動かせる額ではない。


「行く!」


 即答だった。ハルの瞳がきらきらと輝く。レオンは驚いて父とハルの顔を交互に見た。


「ダメだ!!!!!!」


 その声は、瞬間、空気を切り裂いた。


 アルフレッドの優雅な申し出に浮き立つように返事をしたハルの背後から、アレンの低く強い声が飛んだ。ヴァルモンド家の広間には、不意の緊張が走る。


 ハルが振り返ると、そこには、ぎこちなく眉を寄せ、唇を固く結んだアレンがいた。


「ハルはまだ五歳なんです。村を出るなんて__しかも貴族の屋敷で、家庭教師? 絵の依頼? それは……あまりにも責任が重すぎる」


 彼の声は震えていた。怒りというより、不安。守ろうとする意思がそのまま形になったような声音だった。


 けれど、アルフレッド・ヴァルモンドは微笑みを崩さず、静かに一歩、床を踏む。


「……確かに、父親としてのご不安は理解します、アレン殿。しかし、あなたは娘を信じていないのですか?」

「信じてないわけじゃ……!」

「ならば、なぜ止める?」


 淡々と放たれた言葉は、矢のようにアレンの胸を射抜いた。


 アルフレッドの目は、深い静寂の湖のように澄んでいる。決して威圧的ではない。しかし、そこには揺るぎない重みがあった。


「わたしがこの依頼を出したのは、子どもの遊び半分ではありません。貴方の娘の絵には“価値”がある。その価値を、わたしは正式に認め、報酬を払おうとしているのです。これは仕事であり、正当な評価です」

「でも……!」

「ましてや、これは息子レオンのための教育でもある。彼は自分を特別だと思い込み、他者と関わる機会を失ってきた。だが__彼が、彼自身の口で“絵を描いてもらいたい”と頼んだのです。貴方の娘が、彼にそれだけの感情を動かした。これは奇跡に近いことだ」


 アレンは言葉を失った。


 ハルの前に立ちふさがるようにしていた肩が、少しずつ、静かに沈んでいく。


 アルフレッドは、ふっと柔らかく微笑んだ。


「我が家での食事も生活も、安全も、責任を持って保証しよう。彼女の望むタイミングで帰ってもらってかまわない。これは、我が家の正式な依頼なのです」


「……」


 アレンは俯いたまま、しばらく動かなかった。


 けれど__やがて、彼は顔を上げた。


 視線の先には、今にも飛び上がりそうなほど嬉しそうなハル。彼女の夢が、胸の内で膨らんで、膨らんで、爆発しそうなほどに光っている。


「……条件がある」

「うむ、聞こう」


「毎晩、様子を手紙で報せること。そして、どんな些細なことでも異変があればすぐ帰らせる」


「約束しよう。……紳士として、そして父として」


 そのとき、アレンの頬に、ようやく苦笑が戻った。


「なら……お願いするよ。うちの、ハルを」

「うむ、心して預かろう」


 そしてその横で、きらきらと目を輝かせていたハルは、満面の笑みで小さな拳を握りしめた。


「やったあ!」

「父上!こんな変なやつに頼まなくても今のままで平気です!」

「いやダメだ。レオンよ、家庭教師はイマイチだっただろう」

「そんなぁ……」


 まったくその通りだったので、レオンは渋々頷いた。

「息子には芸術的な教養も必要だ」と、レオンの父は考えていた。

 特に王族の末端とはいえ、公の場で恥をかかせるわけにはいかない。

 そこで、村で名の知れた絵の才能を持つハルに白羽の矢が立ったのだ。さらに息子も満更でもなさそうな顔をしている。


 とはいえ、ハルを再度視界に入れると指をさして喚いた。


「俺をブスに描いたら、許さないぞ!」

「ぜったいに、しない!」


 ハルがきっぱりと断言すると、レオンはまたぷいとそっぽを向いてしまう。その耳はほんのり赤く染まっていて__まるで、さっきの言葉がまだ火照っているかのようだった。


 *


「えっ、明日!? そんな急に!?」


 セリナの声が跳ね上がったのは、ヴァルモンド家からの使者が帰った直後だった。あまりの急展開に、彼女の顔がみるみる紅潮していく。


「何よ……どうしてもっと早く言ってくれなかったのよ……!」


 ハルは、母に怒られるのかと肩をすくめた。

 ようやく事の重大さに気づいたのだ。

 けれどセリナは、しばらくその場で言葉を失ったまま、やがてぽつりと「……少し、考えさせて」とだけ言って、台所へと足を運んだ。


 木の椅子に腰を下ろした彼女の背中は、どこか小さく見えた。両手を膝に置いて、何度も何度もぎゅっと握りしめては開いて、誰にも届かないため息を吐き出す。


「行かせたい。でも、まだたったの五歳よ……。夜だって一人で寝れない子なのに……」


 ぽつりと漏らした言葉は、娘の成長を喜ぶ気持ちと、手放す不安とがごちゃ混ぜになった母の本音だった。


 アレンは、そんなセリナの肩にそっと手を置いて、ただ黙って寄り添った。けれど、彼の腕の中にはいつの間にかハルがいて、アレンはその小さな身体をずっと、離せずに抱きしめていた。


「……ちゃんと、行ってこい。ハル」


 口ではそう言いながらも、その声は震えていた。顔をぐしゃぐしゃにして、必死に笑おうとする姿は、まるで誰よりも子離れできていない父親そのものだった。


 やがて、セリナが席を立ち、ハルのもとへと歩いてきた。涙で濡れた目をこすりながら、優しく微笑む。


「ごめんね、ごめんね、ハル……行ってらっしゃい。偉いわね、がんばってね」


 そして、三人は自然と顔を見合わせた。


「……じゃあ、今日は一緒に寝ようか」


 その提案に、ハルがこくりと頷くと、セリナもアレンも安堵したように微笑んだ。


 布団を一つにして、三人は川の字になって横になった。セリナの腕の中で、アレンの温もりを背中に感じながら、ハルはようやく目を閉じる。


 その夜は、誰もがいつもより少しだけ遅く、そして静かに、眠りについたのだった。



 夜になって布団に入っても、目が冴えて眠れない。きらきらとした想像ばかりが胸の中を舞い、天井を見つめていると、隣でアレンがそっと声をかけてきた。


「眠れないのか、ハル」

「……うん」


 アレンは苦笑しながら、ハルの頭を撫でた。そしてぽつりと、ぽつりと語り始める。


「今日、ハルの描いた絵……文字が入ってたろ? 『ここのセリフ!』って書かれてたやつ。あと、コマ割りが良かった。あれ、すごく面白かったぞ」


 セリフ。コマ割り。

 ハルは首をかしげる。


「セリフ……って、何? あと、“こまわり”? それって美味しいもの?」


 アレンは一瞬だけ困ったように笑い、そして静かに語り始めた。


「お父さんはな、実は……ずっと遠い、遠いところから来たんだ」

「……とおいところ?」

「うん。お父さんの昔の名前は、タチバナって言うんだ。それが本当の名前なんだ」

「え? でも、お父さんの名前ってアレンでしょ? ふつーだよ?」


 ハルの無邪気な問いに、アレンは苦笑しながら首をすくめた。


「“キラキラネーム”ってやつでな。昔は、それでよくからかわれたもんだ」

「きらきら……? なにそれ、お星さま?」

「いや、違う。まあ、気にしなくていいよ」


 意味が分からないままのハルの頭を、アレンは静かに撫でた。その手は、寂しさと愛しさが混じったように温かかった。


「"魔法"も無い世界だしなぁ」


 アレンは、どこか遠くを見ながら呟いた。


「まほー? ってなに〜?」


 セリナが小さくくすくすと笑い、ハルの頭に額を寄せた。


 結局その夜、ハルは“キラキラネーム”も“魔法のない世界”も理解できなかったけれど、両親に挟まれて過ごしたそのぬくもりは、何よりも安心できるものだった。



 *


 翌朝__。


 ハルは小さなリュックに、いつもの画材道具と新しいスケッチブックを詰め込んだ。

「先生って言われるの、ちょっと変な感じかも」なんて呟きながら、筆を大切そうに包む。

 最後にお気に入りの黒い帽子を被ると、まるで冒険に出かける魔法使いのようだった。


 昨日見たのと同じ豪華な馬車が、日の昇る前から家の前に止まっていた。


 美しい金糸の装飾が彫り込まれた車体に、村の子どもたちは口を開けて見とれていた。馬を操る御者台から、腰の曲がった老執事がゆっくりと降り立ち、丁寧に一礼する。


「お迎えにあがりました。私、ヴァルモンド家に仕える老執事、セイランと申します」


 しわがれたが、芯の通った声。深々と頭を下げたあと、セイランはハルの身長を一瞥し、やや申し訳なさそうに眉尻を下げた。


 ハルも慌てて真似して、同じように礼を返す。


 その様子を見た老執事は、やんわりと目を細めた。


「一発で覚えられるとは、恐れ入りました。ただ、これは“男性の礼”なので__覚える時は気をつけてくださいませ」


「……うん!」


 ハルの声は、朝の空気のように澄んでいた。




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