2話
「ねえ、お父さん。仕事って、どういうの?」
夕飯の後、縁側に座っていたハルは、唐突にそう問いかけた。
アレンは、酒を飲んでいた手を止め、ほんの少しだけ笑った。
「そうだな……人の役に立って、そのぶんご褒美をもらうことだ」
「ごほーび?」
「食べ物だったり、お金だったり。自分の絵で暮らしていくってことも、仕事だよ」
ふーんとハルは考えたのち、決めた。
「じゃあ、わたし、“絵の仕事”する」
「え?」
驚いたのは、父ではなく、奥から顔をのぞかせた母親のセリナだった。
ハルに飛びついて、膝をつき、叫び懇願している。
「花嫁修業は? レース編みもお茶も教えてあげるのに!」
「でも、絵のほうが好き」
「ダメって言いたいけど子供の成長に好きな物はかかせないし、でも一緒にケーキ作りたい〜!!えーん」
セリナが泣くフリをしていると、ハルはセリナの頭をぽんぽんと撫でた。
「撫でても無駄なんだからね!!」とセリナがプンプン怒るものの、ハルは、にんまりと笑った。
迷いはなかった。
「ハル……その顔、決まってたのね」
母は一瞬むっとしたが、やがてふっと息をつき、娘の頭をくしゃりと撫でた。
「まったく、どっちにしても可愛がられるんだから。……いいわ、ハル。あなたの人生よ」
セリナは内心そっとため息をついた。
__ハルには、3歳のときから向こうから一方的に決められていた婚約者がいた。
どこかの貴族の坊ちゃんで、会えばいつも「僕はこんなことも知ってるんだよ」と自慢話ばかり。
まだ何も知らないはずのハルが、そのたびにぷいと顔をそむけたのを思い出す。
……もしかして、荒れた結婚生活になる未来を予見してた? なんて、まさかね。結婚回避だなんて。
その後、セリナとアレンは、あの婚約をどうにか解消しようと頭を下げ、文を出し、最後には足まで使って、ようやく納得させたのは、1年後の話。
*
翌朝──。
村から少し出た、ヴァレンシア街にある広場は、石畳が敷かれたにぎやかな交差点だった。
すぐ隣には冒険者ギルドがあり、昼を過ぎれば旅人や商人、腕自慢の戦士たちが行き交う。
その人波の中に、絵を描く不思議な少女がいると噂が立てば――きっと、ハルの元に依頼は尽きないだろう。
5歳なのに、外出していることに不思議に思っただろうか。無論、アレンがそばに居る。
ハルはスケッチブックと絵筆を持ち、村の広場に小さな「おえかき屋」の看板を立てた。
「絵を描きます 一枚1グレナ」
1グレナは、ほとんど何の価値もない小銭だ。
市場では虫食いの干し果物ひとつ買えないこともある。
インクと羽根ペンをそろえるには、最低でも10〜30グレナは必要。
紙にいたっては、羊皮紙ならその数倍だ。
けれど、それでも——ハルは絵を描いていた。
最初に立ち止まったのは、赤ら顔のパン屋の親父。
朝の仕込みを終えたばかりらしく、腕まくりした腕には小麦粉がこびりついている。
「よう、坊主。いや、お嬢ちゃんか。絵ぇ描くんだってな。ちょっと描いてくれよ、うちのパンをさ」
そう言って、がさりと腰の袋から1グレナを取り出して、ハルの前に置いた。
ハルは、汚れていない角を持ってそのグレナを拾い上げた。
ほんの少しの輝き。ほほぉ!とハルの目も輝く。だが、彼女の目はすぐに、紙と木炭へ向け直された。
「じゃあ、クロワッサンにします」
返事は短い。だが、そこにためらいはなかった。
ハルはくたびれた革袋から、半分に折れている薄紙を取り出した。
紙は再利用の粗悪品——元は役所で使われた帳簿の裏紙らしく、うっすらと数字の跡が残っていた。
炭筆を手に取る。長くはない。折れた芯を布に巻いて補強した、簡易的な道具。
それでも、彼女の指がそれに触れた瞬間、静かな集中が訪れた。
ハルの目が、パン屋の店先に積まれたクロワッサンへと吸い寄せられる。
焼き色は飴色と焦げ茶の間を揺らぎ、光が当たる部分は艶やかで、香ばしささえ見える気がした。
「まず、形から……」
小声でつぶやきながら、炭筆を滑らせる。
輪郭は一息に描かれ、陰影の起伏が徐々に加えられていく。
炭の粉を親指の腹でなぞり、焦げ目の部分をぼかしていく。
その間、まばたきもせず、息すら潜めるようだった。
10分ほどで、絵は完成した。
一つの紙片に浮かび上がったのは、今にも香りが立ちのぼってきそうなクロワッサンのスケッチ。
パン屋の親父は、それを見てぽかんと口を開けたあと、
「……本物より、うまそうに見えるじゃねぇか」
と、ふっと笑った。
ハルは首をすくめながらも、小さく満足そうに息を吐いた。
そばに居たアレンが「よかったな」とハルの頭を撫で回す。ハルはクシャクシャになったツートンの髪を整えながら頷いた。
この1グレナで、新しい炭筆の芯を買えるかもしれない——そんなことを思いながら、絵の道具を丁寧にしまった。
次に、小さな女の子を連れたお母さん。
その次に、今度はパン屋の親父が連れてきた息子。
少しずつ、小銭と交換に絵を描く日々が始まった。
今日も、また今日も。
ハルは1グレナの輝きを見ては、にんまりと笑った。
その帰り道。親子の足取りはいつになく軽かった。坂道を駆け上がる途中、ハルはころりと転んでしまったが、アレンに笑いながら抱き上げられると、すぐにまた笑った。
「お母さん、びっくりするかな?」
「驚くだろうなー。きっと腰抜かすぞ」
小さな村の小さな家に戻るなり、ハルはドアを勢いよく開け放った。
「おかーさーん! ハルね、絵を売ったの! お金、もらったの!」
台所から顔を出したセリナの手が、思わず水差しを落としかける。
「え? えっ? ちょっと待って、それ本当!? 本当にお金もらえたの!?」
セリナは駆け寄って、ハルの手に握られた銀貨を見た瞬間、目尻を潤ませながら顔をぱっと綻ばせた。
「すごい、すごいわ! さすが私の子っ!!」
ぐいっ、と抱きしめられるハル。
「ふ、ふごぉっ!? ままっ……! く、くるしっ……!」
まるで羽毛のように柔らかい何かに、顔ごと包み込まれたハルは、もがきながらジタバタと手を振る。
「ちょっと、セリナ! 窒息する!」
アレンが慌てて止めに入り、ようやく解放されたハルは、ぜぇぜぇと息をつきながら床にへたり込んだ。
「む、むねが……おばけみたいだった……」
「ちょっと! だれがおばけよ!」
そんなやり取りを、くすくすと笑いながら見守るアレン。「そうだぞー。ママのは世界一でかいんだ」とアレンのからかいにより、更に真っ赤になったセリナからの往復ビンタがアレンの頬に赤い楓を作る。
__そんな、何でもない日常が、今日はほんの少しだけ誇らしくて。
ハルの胸の奥で、何かがまた一つ、大きくなった気がした。
*
しかし良い環境というのは続くものではない。
ある日──。
馬車の車輪が石畳をかすかに軋ませて止まり、きらびやかな靴が地面を踏む音がした。
「……なんだ、あれは?」
村の広場に人だかりができている。その中心に、ひとり、地面に腰を下ろして絵を描いている子どもがいた。
絵などというものに興味はない。はずだった。けれど、視線が、自然と吸い寄せられた。
無意識のうちに馬車を降りて、絵の前へと歩み寄る。
少年の名は、レオン・ヴァルモンド。
レオンは、ハルより少し背が低く、歳の割にどこか気品のある佇まいだった。
陽の光を受けてきらめく銀髪に、整った顔立ちと左目の下にある小さな泣きぼくろがよく映える。
やや高めの声で話す彼の言葉は、まるで貴族の子どもらしくもあり、時折どこか背伸びをしたようにも聞こえた。
貴族の家に生まれ、学問と剣術を仕込まれ、そして「平民など見下ろすもの」と教えられて育った。
けれど──目の前の紙に広がるそれは、どう見ても……。
「……これは、お前が描いたのか?」
無駄のない手つき。まだ幼い少女が、木炭を指先でなぞって、パンの影を描き込んでいる。
「うん。見たい? 一枚1グレナだよ」
澄んだ声で、少女が答えた。
その無邪気さが、なぜだか腹立たしかった。
「おかしいな……構図も、光も、陰も……どうして子どもが、こんな……」
レオンは目を細め、コートの内側から小銭入れを取り出す。1グレナ。こんな端金、普段なら拾いもしない。
それを差し出しながら、彼は心の底で焦っていた。
──こんな俺と同じような子どもが、自分よりも、ずっと高いところにいるような気がする。
それが、どうしようもなく、むかついた。
レオンには美術の家庭教師がいるが、ハルはそれよりも上の存在に感じた。
「……いけ好かないやつだな」
小さくつぶやいたそのとき、馬車の後方から重々しい足音が響く。
「ち、父上!?」
レオンの父、アルフレッド・ヴァルモンド侯爵が姿を現した。
まさか父親まで降りてくるとは思わず、レオンは慌てた。
アルフレッドは貴族の礼装に身を包み、目元に冷たい光を宿らせた男は、ハルの絵に一瞥をくれると、薄く鼻で笑った。
「ふん。評判は聞いているよ。小賢しい平民が、貴族の真似事をしているとな」
ぞわりとした空気が流れる。
後ろに控えていたアレンが護身用の短刀を握りしめたが、相手は貴族で立ち向かえなかった。
けれど、ハルは反応しなかった。アルフレッドも、アレンの存在など、そこにないかのように。
彼女はまっすぐに、小さい男の子レオンだけを見ていた。
まばたきもせず、何かを測るように、ただ静かに見つめてくる。
レオンは、不意に顔が熱くなるのを感じて、思わず声を荒げた。
「な、なに見てんだよ!」
「……こんな美しい顔を、描いてみたいと思ったの」
それは、まるで呪文のような声だった。
後ろにいたアレンが顔が真っ青になる。
ハルの目に、揺らぎも恥じらいもない。純粋で、残酷なまでに真っ直ぐ。
レオンは、完全に言葉を失った。
──始まりは、嫉妬だった。
だが、それでも彼女の絵から、目を逸らすことはできなかった。