10話
ヴァルモンド邸西翼、三階の画室。高い天井の中央に吊るされた銀細工のランプが、今にも吹き飛ばされそうな勢いで揺れていた。
ハル・エリュアの周囲を、風が暴れ回っている。
空気は竜巻のように渦を巻き、部屋中のイーゼルがひっくり返り、絵筆やパレットが無数の刃のように舞っていた。カーテンは引きちぎれ、花瓶は床に砕け散っている。部屋を飾っていた絵のほとんどが壁から剥がれ、破れ、あるいは風に巻き込まれて宙を舞っていた。
だが、ただ一枚だけ。部屋の奥の壁に掛けられた、一枚の人物画。
完成したばかりのレオンの自画像__それだけが、不思議な光を帯びながら、微動だにせず美しさを保っていた。
柔らかい光に照らされたレオンの姿は、まるで実体を持ってそこに立っているかのようで、あまりの異質さに周囲の混乱が一層際立つ。
「ハル、やめ__っ!」
レオンの父、アルフレッド伯爵が手を伸ばすが、突風に背を打たれ、重たい体が床を滑るように吹き飛ばされる。
「うわっ__!」
レオンも同じく、床に転がり、壁に叩きつけられた。すぐそばには、灰色のフードを目深にかぶった三人の男たち。彼らもまた、一人は窓際に、一人は本棚へ、もう一人は扉に背中を激しく打ちつけられていた。
目に見えぬ重力が、ただ一人の少女__ハルの周囲から放たれている。
彼女の黒と白のツートンの髪が宙を漂い、顔は硬直し、瞳は淡く光っていた。
「__これは、私の……せい?」
部屋はすでに音を失っていた。風がすべての音を吸い込み、世界が静寂に包まれているようだった。
そしてその静けさの中で、ハルの頭に、言葉が降ってきた。
知らないはずの言葉。けれど、なぜか知っている。
『……ユラ』
それは、ただ二文字の呪文だった。
口にした瞬間、ハルの足元に魔法陣が展開され、部屋の空気が一度、凍りついた。
そして次の瞬間__
彼女の姿が、光と共に掻き消えた。
残されたのは、暴風の後の荒れ果てた画室と、ただ一枚、光を放つレオンの絵だけだった。
__ハルが目を開けた時、そこは薄暗い森の中だった。
天を覆う濃い緑の葉々。足元には湿った土と、絡み合った木の根。そこかしこで小さな虫の羽音が聞こえ、遠くで小鳥のさえずりもする。
彼女が立っていたのは、〈イシュレの森〉。ヴァルモンド邸の敷地から徒歩で十五分ほどの位置にある、小さな私有林だった。領民が木苺を採りに入ることもある穏やかな森で、ハルも何度か散歩に来たことがある。
幸いにも、ハルは部屋の中でも外用の靴を履いていた。柔らかな革製のブーツが、地面のぬかるみや木の根をほどよく受け止めてくれる。
だが、問題はそこではなかった。
「……ここで、どうしたらいいの?」
現実が、遅れて彼女を襲ってきた。
知らない言葉。暴走した魔法。吹き飛ばされた人たち。突然の転移。誰もいない森の中。
胸の奥から、氷のような不安がせり上がる。
「……お父さん……お母さん……レオン……」
名前を口に出すことで、少しでも現実に繋ぎ止めたかった。
だが返事はない。
森の風が、ただ冷たく頬を撫でていくだけだった。
風が葉を揺らす音と、小さな鳥のさえずりが森に広がっている。
湿った土の匂い、朝露に濡れた低木。かすかな苔の青い香り。ハルは目の前の景色をぼんやりと眺めながら、自分の手がまだ震えていることに気づいた。
__でも、ひとまず落ち着かないと。
彼女は深呼吸をひとつし、足を前に出そうとした。その瞬間だった。
「……い、痛っ!」
ぐにゃり、と足元で柔らかい感触がした。
ハルは目を見開き、慌ててその場にしゃがみ込む。そこで、彼女の瞳が捉えたのは__
「レオン……?」
仰向けに倒れ込んでいたのは、見間違いようもなく、金色の髪を持つ少年だった。華奢な肩、気品を漂わせる衣服の下で、彼の胸が上下している。
「どうして……? えっ、まさか私が……踏んじゃった?」
「……お、おい……いきなりはやめてくれ、ハル……!」
顔をしかめながら、レオンが身を起こした。その拍子に、ハルは思わず駆け寄り、強く彼を抱きしめていた。
「えっ……ちょ、ちょっと待って……!? なんでそんなに抱きつくんだよ!」
「……だって、レオン……よかった……来てくれて……」
ハルの声は震えていた。抱きしめる腕が、わずかに震えを帯びている。レオンは何かを言いかけたが、結局ただ照れくさそうに息をついた。
「……もー……おまえってやつは……」
そのまましばらく、ハルはレオンの肩に顔を埋めたまま動かなかった。
やがて、ふたりは太陽が差し込む林間の空き地に並んで腰を下ろし、今後のことについて静かに話し合い始めた。
「ハル、おまえが放ったあの魔法……たぶん転移魔法だ。しかも、俺まで巻き込んだみたいだな」
「……うん。でも、わたし、全然制御できてなかった……」
レオンは少し考えるように眉を寄せた。
「それより、あの時いたフードの連中……あれ、俺の父さんが呼んだのか、政府の連中か……。どっちにしても、おまえを捕まえようとしてたよな」
ハルはコクリと頷いた。彼女の目には、怯えではなく、強い意志の色が宿っていた。
「レオン、お願い。わたし、村に帰りたいの。お父さんとお母さんに会いたい」
「……でも、もしかすると、お前の両親はもう……あの人たちに捕まってるかもしれない。下手に戻るのは……」
「それでも、助けたいの」
その一言に、レオンは言葉を失った。
彼女の白い顔、まっすぐな瞳。細くて、でも強く立っている。そんな姿に、レオンはどこかで予感していた。
この子は、普通の子じゃない。
そして、誰よりも__美しかった。
「……子供の俺たちじゃ、いずれ見つかって捕まる」
レオンが静かに口を開く。
「だったら……君の家族、助けよう。俺も一緒に行く」
「……レオン」
「……」
少しの沈黙のあと、レオンは木の枝を拾い、無意味に土を引っかいていた。
(……俺が、ハルのこと好きだから__)
脳裏に浮かんだその言葉に、レオンは自分で赤くなった。
(ち、違う! そんな恥ずかしいこと言えるわけないだろ! でも、本当は言ってみたい……言ってみたいけど……)
「う、うぅぅ……」と唸りながら顔を隠すように膝を抱えるレオンに、ハルは首をかしげた。
「レオン? ……おなか痛いの?」
「ち、違うわ! そ、そういうのじゃない! ただ……なんか……いろいろ考えてただけだ!」
「?」
よく分かっていない様子のハルが首を傾げる。
そんな彼女にレオンは、つい目を逸らしてから、力なく笑った。
「……ま、いいや。どうせこのまま逃げても、いつかは追いつかれるんだろうし。だったら__俺も一緒に行くよ。君の村まで」
「本当に?」
ハルの目が、ぱっと輝いた。
「うん。本当だ。途中で倒れても、せめて役に立ってから倒れるよ」
「……ありがとう、レオン」
満面の笑みを見せるハルに、レオンはまた少しだけ赤くなる。
(……言えたらなあ。「俺が……ハルを好きだから」って……言えたら……)
けれど、言葉にはせず、レオンはそっと立ち上がった。
「じゃあ、そろそろ行こうか。ここにいても仕方ないし」
「うん!」