表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/10

10話

 ヴァルモンド邸西翼、三階の画室。高い天井の中央に吊るされた銀細工のランプが、今にも吹き飛ばされそうな勢いで揺れていた。


 ハル・エリュアの周囲を、風が暴れ回っている。


 空気は竜巻のように渦を巻き、部屋中のイーゼルがひっくり返り、絵筆やパレットが無数の刃のように舞っていた。カーテンは引きちぎれ、花瓶は床に砕け散っている。部屋を飾っていた絵のほとんどが壁から剥がれ、破れ、あるいは風に巻き込まれて宙を舞っていた。


 だが、ただ一枚だけ。部屋の奥の壁に掛けられた、一枚の人物画。


 完成したばかりのレオンの自画像__それだけが、不思議な光を帯びながら、微動だにせず美しさを保っていた。


 柔らかい光に照らされたレオンの姿は、まるで実体を持ってそこに立っているかのようで、あまりの異質さに周囲の混乱が一層際立つ。


「ハル、やめ__っ!」


 レオンの父、アルフレッド伯爵が手を伸ばすが、突風に背を打たれ、重たい体が床を滑るように吹き飛ばされる。


「うわっ__!」


 レオンも同じく、床に転がり、壁に叩きつけられた。すぐそばには、灰色のフードを目深にかぶった三人の男たち。彼らもまた、一人は窓際に、一人は本棚へ、もう一人は扉に背中を激しく打ちつけられていた。


 目に見えぬ重力が、ただ一人の少女__ハルの周囲から放たれている。


 彼女の黒と白のツートンの髪が宙を漂い、顔は硬直し、瞳は淡く光っていた。


「__これは、私の……せい?」


 部屋はすでに音を失っていた。風がすべての音を吸い込み、世界が静寂に包まれているようだった。


 そしてその静けさの中で、ハルの頭に、言葉が降ってきた。


 知らないはずの言葉。けれど、なぜか知っている。


『……ユラ』


 それは、ただ二文字の呪文だった。


 口にした瞬間、ハルの足元に魔法陣が展開され、部屋の空気が一度、凍りついた。


 そして次の瞬間__


 彼女の姿が、光と共に掻き消えた。


 残されたのは、暴風の後の荒れ果てた画室と、ただ一枚、光を放つレオンの絵だけだった。


 __ハルが目を開けた時、そこは薄暗い森の中だった。


 天を覆う濃い緑の葉々。足元には湿った土と、絡み合った木の根。そこかしこで小さな虫の羽音が聞こえ、遠くで小鳥のさえずりもする。


 彼女が立っていたのは、〈イシュレの森〉。ヴァルモンド邸の敷地から徒歩で十五分ほどの位置にある、小さな私有林だった。領民が木苺を採りに入ることもある穏やかな森で、ハルも何度か散歩に来たことがある。


 幸いにも、ハルは部屋の中でも外用の靴を履いていた。柔らかな革製のブーツが、地面のぬかるみや木の根をほどよく受け止めてくれる。


 だが、問題はそこではなかった。


「……ここで、どうしたらいいの?」


 現実が、遅れて彼女を襲ってきた。


 知らない言葉。暴走した魔法。吹き飛ばされた人たち。突然の転移。誰もいない森の中。


 胸の奥から、氷のような不安がせり上がる。


「……お父さん……お母さん……レオン……」


 名前を口に出すことで、少しでも現実に繋ぎ止めたかった。


 だが返事はない。


 森の風が、ただ冷たく頬を撫でていくだけだった。

 風が葉を揺らす音と、小さな鳥のさえずりが森に広がっている。

 湿った土の匂い、朝露に濡れた低木。かすかな苔の青い香り。ハルは目の前の景色をぼんやりと眺めながら、自分の手がまだ震えていることに気づいた。


 __でも、ひとまず落ち着かないと。


 彼女は深呼吸をひとつし、足を前に出そうとした。その瞬間だった。


「……い、痛っ!」


 ぐにゃり、と足元で柔らかい感触がした。


 ハルは目を見開き、慌ててその場にしゃがみ込む。そこで、彼女の瞳が捉えたのは__


「レオン……?」


 仰向けに倒れ込んでいたのは、見間違いようもなく、金色の髪を持つ少年だった。華奢な肩、気品を漂わせる衣服の下で、彼の胸が上下している。


「どうして……? えっ、まさか私が……踏んじゃった?」


「……お、おい……いきなりはやめてくれ、ハル……!」


 顔をしかめながら、レオンが身を起こした。その拍子に、ハルは思わず駆け寄り、強く彼を抱きしめていた。


「えっ……ちょ、ちょっと待って……!? なんでそんなに抱きつくんだよ!」


「……だって、レオン……よかった……来てくれて……」


 ハルの声は震えていた。抱きしめる腕が、わずかに震えを帯びている。レオンは何かを言いかけたが、結局ただ照れくさそうに息をついた。


「……もー……おまえってやつは……」


 そのまましばらく、ハルはレオンの肩に顔を埋めたまま動かなかった。


 やがて、ふたりは太陽が差し込む林間の空き地に並んで腰を下ろし、今後のことについて静かに話し合い始めた。


「ハル、おまえが放ったあの魔法……たぶん転移魔法だ。しかも、俺まで巻き込んだみたいだな」


「……うん。でも、わたし、全然制御できてなかった……」


 レオンは少し考えるように眉を寄せた。


「それより、あの時いたフードの連中……あれ、俺の父さんが呼んだのか、政府の連中か……。どっちにしても、おまえを捕まえようとしてたよな」


 ハルはコクリと頷いた。彼女の目には、怯えではなく、強い意志の色が宿っていた。


「レオン、お願い。わたし、村に帰りたいの。お父さんとお母さんに会いたい」


「……でも、もしかすると、お前の両親はもう……あの人たちに捕まってるかもしれない。下手に戻るのは……」


「それでも、助けたいの」


 その一言に、レオンは言葉を失った。


 彼女の白い顔、まっすぐな瞳。細くて、でも強く立っている。そんな姿に、レオンはどこかで予感していた。


 この子は、普通の子じゃない。


 そして、誰よりも__美しかった。


「……子供の俺たちじゃ、いずれ見つかって捕まる」


 レオンが静かに口を開く。


「だったら……君の家族、助けよう。俺も一緒に行く」

「……レオン」

「……」


 少しの沈黙のあと、レオンは木の枝を拾い、無意味に土を引っかいていた。


(……俺が、ハルのこと好きだから__)


 脳裏に浮かんだその言葉に、レオンは自分で赤くなった。


(ち、違う! そんな恥ずかしいこと言えるわけないだろ! でも、本当は言ってみたい……言ってみたいけど……)


「う、うぅぅ……」と唸りながら顔を隠すように膝を抱えるレオンに、ハルは首をかしげた。


「レオン? ……おなか痛いの?」

「ち、違うわ! そ、そういうのじゃない! ただ……なんか……いろいろ考えてただけだ!」

「?」


 よく分かっていない様子のハルが首を傾げる。


 そんな彼女にレオンは、つい目を逸らしてから、力なく笑った。


「……ま、いいや。どうせこのまま逃げても、いつかは追いつかれるんだろうし。だったら__俺も一緒に行くよ。君の村まで」


「本当に?」


 ハルの目が、ぱっと輝いた。


「うん。本当だ。途中で倒れても、せめて役に立ってから倒れるよ」


「……ありがとう、レオン」


 満面の笑みを見せるハルに、レオンはまた少しだけ赤くなる。


(……言えたらなあ。「俺が……ハルを好きだから」って……言えたら……)


 けれど、言葉にはせず、レオンはそっと立ち上がった。


「じゃあ、そろそろ行こうか。ここにいても仕方ないし」

「うん!」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ