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1話

 ハルがこの世に生まれた瞬間、産声よりも早く聞こえたのは──ふにゃふにゃとした、奇妙な鳴き声だった。


「にゃー……」


 産室の空気が、ぴたりと止まった。白髪の、穏やかで理知的な印象がある女性__母・セリナは最初、それが赤ん坊の泣き声だと思った。だが目を開けてすぐ、ベビーベッドの上空に浮かぶ半透明の小さな“猫のような何か”を見つけて、言葉を失った。


「……なに、これ……」


 すぐ隣にいた黒髪の顔の印象がボヤけた男__父・アレンも、真剣な顔で言った。


「猫か! いや、どう見ても猫ではないな。いや猫か? ……鳴いているが」


 二人はその奇妙な存在をしばらく見つめたが──最終的には放置した。それよりも、我が子が可愛すぎたのだ。


 ハル・エリュアは、生まれたときから黒髪と白髪のツートン、そして黒い瞳を持っていた。その容姿はこの世界では珍しく、黒は父親譲り、白は母親譲りの色だった。

 ツートンより、黒髪の方が珍しがられるため、黒髪が半分で済んだのはある意味幸運とも言える。


 赤子とは思えないほどじっと人を見つめるその視線に、大人たちはつい言葉を失う。

 ふにゃりと笑うと、なぜだか胸があたたかくなる──美人ではないのに、なぜか心に残る、不思議な可愛さがあった。


 けれど、二人の胸には、同じ思いがひっそりと根を張っていた。


 ──この子は、どこかおかしい。


 それが決定的になったのは、生後九ヶ月のある朝だった。


 まだ言葉も話さず、ハイハイしかできないはずのハルが、ベビーベッドの柵に指を這わせて、何かを“描いて”いたのだ。


 曲線。連なる点。滑らかで規則的な模様。子どもの落書きとは明らかに違う、何かの“意図”が込められていた。


「……これ、顔……?」


 セリナは思わず声を漏らし、一歩後ずさった。


 だがその瞬間、赤子のハルがふにゃりと笑った。


「ま……あ」

「ママって言ったのかしら」


 その笑顔を見て、セリナの中にあった恐れは、やさしくほどけていった。


「……ハル」


 それが、この子に名を与えた瞬間だった。


 ハル・エリュア。

 異国の季節「春」を意味する名前。始まりと希望の象徴として、母が願いを込めて名付けた。


 父・アレンは異国から流れてきた無口な男で、言葉は少ないが情に厚い。

 ツートンとはいえ、半分は黒髪黒目なところが、とてもそっくりだった。


「不思議だわ、この子」

 そう呟いたセリナに、アレンは娘の頭を優しく撫でながら言った。


「この子は、天才なだけさ」


 それは、冗談ではなかった。




 *


 エリュア一家が住むのは、王都から数日離れた静かな辺境の村。

 名もなき丘と小川に囲まれ、四季の風が色濃く残るこの地では、村人たちが顔を見れば挨拶を交わす。

 人も家も素朴だが、互いに支え合って生きており、ハルのような“ちょっと変わった子”にも優しい眼差しを向ける場所だった。


 その村のはずれにぽつんと建つ小さな木造の住まいが、エリュア一家の家である。

 壁にはハルの落書きと絵の具のしみが点々と残り、毎日にぎやかな暮らしを物語っている。

 飾り気はないが、どの窓からものぞけば、家族三人の笑顔がこぼれて見えるようだった。



 ハルが初めて羽根ペンを握ったのは、まだ言葉もろくに話せない二歳のときだった。

 魔法でも奇跡でもなく、ただ自然に――まるで、呼吸でもするように。小さな手でインク瓶を倒しながらも、紙の上にゆっくりと線を引いていった。その線は不格好ながら、どこか筋が通っていた。まるで、何かを描こうと意志しているかのように。


 三歳になる頃には、彼女は「光」と「影」を分けて描くようになった。日差しの差す方向、木の陰のかたち、人の頬に落ちる淡い影。誰に教わったわけでもないのに、ハルの絵には確かな立体感が宿りはじめていた。セリナもアレンも、最初は目を疑った。だが、何枚描いても再現されるその描写に、次第に震えるような敬意を抱くようになった。


 そして四歳。

 見たものを、一度きりで“記憶して”描けるようになっていた。市場で見かけた旅人の衣装。遠くの空に一瞬だけ現れた雲のかたち。猫のしっぽの揺れまで――一度しか目にしていないはずなのに、彼女の描いた紙の上ではすべてが再現されていた。


 まるで、目が記録装置になっているかのようだった。

 それがどれほど異常なことか、本人だけが知らなかった。


 あっという間に、五年という時が過ぎた。


 ハル・エリュアは五歳になっていた。

 髪の毛も伸びて綺麗な黒と白のサラサラヘアーになっている。


 ある日の午後。風の強い日でもなかったのに、家の中に突風が吹き荒れたのは──それが最初だった。


 母セリナが洗濯物を取り込み、父アレンが畑仕事から戻ろうとしたときだった。


「ハル、部屋でおとなしく描いてるって言ってたよな?」


 そう呟いた矢先、家の中からごぉおお、と風を切る音が響いた。次の瞬間──。


「キャッ!? な、なにこれ!?」


 家の扉を開けると、椅子が倒れ、カーテンが宙に舞い、テーブルクロスが風に巻き上げられていた。そしてその真ん中、ぐしゃぐしゃになった部屋の中で、ハルが床に座っていた。


 彼女の前には、一枚の紙。そこに描かれていたのは、森の中を駆け抜ける小さな鹿。そして紙面には存在しないはずの“風”が、まるで絵の中からあふれ出るように吹き荒れていたのだ。


「……走ってる。ちゃんと、走ってる……!」


 ハルは驚きもせず、ただ羽根ペンを握ったまま、恍惚とした表情で呟いていた。


 セリナとアレンは顔を見合わせた。理解が追いつかない。けれど、娘の目に映る“それ”が、ただの落書きではないことは一目でわかった。


 アレンが部屋に入り、ゆっくりと娘の肩に手を置いた。


「ハル、それ……お前が描いたのか?」

「うん。絵が……しゃべったの」


 その言葉に、アレンの肩が一瞬だけ揺れた。


「しゃべった、か」


 言葉としてではない。けれど確かに、それは何かを“語って”いた。絵が、紙の上だけで完結せず、現実の空気に干渉していた。ありえない現象──常識では説明できない“声”。


 娘は無邪気に、それを「絵の声」と名づけた。


 両親は恐れなかった。むしろその異常すら、彼女の一部として受け入れた。


「この子は……世界を描くために生まれてきたんだ」


 アレンはぽつりと呟いた。セリナも、黙ってうなずいた。


 ──だが、この“絵の声”のことを、外に漏らすわけにはいかない。


 こういった異能とは、時に祝福であり、時に災厄となる。この国の常識では説明できぬ何かは、しばしば“悪魔の仕業”と恐れられるからだ。だからふたりは、このことを誰にも言わないと決めた。


 それでも、ハルの“絵のうまさ”だけは、隠しきれなかった。


 日常のスケッチや頼まれごとの挿絵──村人たちはハルの絵に目を丸くし、そして笑顔で彼女を褒めた。


「ハルちゃんの絵、ほんとにきれいねえ」

「風が吹いてるみたいだ」

「こんな子、そうはいないぞ。まるで絵の妖精だ」


 絵が“動く”ことこそ隠されていたが、ハルの才は村に根を張っていった。


 “絵の妖精”“風を描く子”。


 最初はただの噂に過ぎなかった。だが、その名は少しずつ、確かに広がっていった。村人たちは恐れることなく、彼女を“天才”として、温かく受け入れていった。




 *

 そして、そんなある日の夕暮れ。

 茜色に染まった木漏れ日が、家の縁側をやわらかく包み込んでいた。


 ハルは父・アレンの膝の上に座り、くるくると羽根ペンを回していた。それは、父が1ヶ月分の給金を使って買ってくれた、貴族用の上等な品だった。


「ハル。そろそろ、将来のことを考えようか」


 アレンの低く穏やかな声に、ハルは小さく首を傾げた。


「うん?」


「お前はもう五歳だ。そろそろ、“仕事”をするか、“花嫁修業”を始めるか、選ぶ時期だよ」


「はなよめ……しゅぎょう?」


 ハルは、聞き慣れない言葉を小さく繰り返した。


「そう。お母さんみたいになる道だな」


 セリナは奥の部屋で針仕事をしていた。優しくて、けれど、どこか寂しげな母。家族を支えるのが“女性の役目”であるこの国では、少女は十歳までに裁縫、礼儀、家事を仕込まれ、やがて誰かの花嫁として“仕えに出る”ことが期待されていた。


 それが、この世界の現実だった。


 ハルは、手にした羽根ペンを見つめた。インクを吸い、滑らかに描線を刻むその道具は──父が自分にくれた、最初の“選択肢”だった。


 まだ、“正しさ”はわからない。けれど、心のどこかはすでに決まっていた。


 __わたしは、描きたい。


 仕事か、花嫁修業か。

 この世界で、たったふたつしか許されていない道のなかで。

 ハル・エリュアは、そっと羽根ペンを握り直した。



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