07-2.嫌がらせ
「かしこまりました。すぐに戻ります」
雲婷は返事をすると同時に走り出した。
この場に留まっていても足手まといになるとわかっていたからだ。
……雲婷が動いても陳氏は動かないか。
キョンシーの正体が見破られているとわかっているのだろうか。ボロボロになった宦官の服を着たままの陳勇は虚ろな目をしたまま、動かない。
……狙いは私か。
氷叡剣を構える。
相手を凍らせることさえできれば、香月の勝ちだ。
「香月様。後方支援はお任せください」
明明は暗器を構えながら言う。
全員に伝達をしたのだろう。震えていた下女たちも棍棒を両手で持ち、構えている。玄武宮全員で打って出る方針だと聞かされたのだろう。震えながらも玄家に仕える者として最低限の武術は身に付けていた。
「明明、下女の指揮を頼む」
「はい」
明明は返事をすると数歩下がった。
それから下女を一か所に集め、指示を出す。
「雲嵐。私の背後を守ってくれ」
香月の言葉を聞き、雲嵐は深く頷いた。
雲嵐の手には棍棒が握られていた。
「嘉瑞。私の左側に立て。敵を引き寄せてほしい」
「かしこまりました」
嘉瑞の手には武器は握られていない。
嘉瑞は白打と呼ばれる武術の達人だ。気功を用いて戦う手段の一つであり、キョンシーのような怪異を相手には武器だけでは通用しないと考えたのだろう。もっとも得意としている肉弾戦で勝負にでるようだ。
香月はそれを止めない。
嘉瑞の実力を知っているからこそ、共に戦うことを認めたのである。
「キヒッ」
勇は声をあげた。
それと同時に塀から飛び降りた。塀の高さは十メートルはあるのだが、その衝撃を一切感じさせない。痛みを感じていないのだろう。
勇は駆けだした。
目的は香月の首だけだ。
「凍れ」
香月は氷叡剣を振るう。
振るった先はつららのような氷ができたが、勇はそれを簡単に回避してしまう。真っすぐに疑うこともなく、香月の元に駆けてくる。
「それ以上は近寄らせません!」
梓晴は槍を振るう。
勇の腕をかすったものの、痛みを感じていないのか、そのままの勢いのまま、突進してきた。反射的に梓晴は香月の前に飛び出し、突進を体で受け止め、勢いよく吹き飛ばされてしまい、壁に衝突をする。
意識はあるものの、すぐに立ち上がることができなかった。
「凍れ」
香月はその隙を逃さなかった。
再び氷叡剣を振るい、今度こそ、的中させる。
勇の足元は凍り付き、激しく体を動かして氷から抜け出そうとするが、少しずつ凍っていき、下半身は動けなくなる。
そのまま首を刎ねようとした時だった。
「避けてください!」
嘉瑞の声が響いた。
その声に香月はすぐに反応ができなかった。
目の前に勇の手が迫っていた。
「香月様!」
雲嵐の声がした。
それに気づいたのと同時に香月は強引に腕を掴まれて、後ろに引っ張られる。勢いのまま、尻もちをつく形で座り込んだ香月の目の前に立ちはだかった雲嵐の体は浮いていた。
「雲嵐!」
香月は悲鳴にも似た声をあげる。
勇の手は雲嵐の首を掴んでいた。骨が折れる音がする。それでも、なお、首から手を離そうとはしない。
勇はキョンシーだ。怪異となった今の状態には理性も知性もない。命令に従うだけの怪物と化している。
見た目の似ている雲嵐を香月と間違えたのだろう。
雲嵐は王雲婷の息子だ。
王家は玄家と関りが深く、雲婷の夫は香月の母の従兄だった。その関係によるものなのか、二人は姉弟と間違えられるほどに似ていた。
再び、雲嵐の首の骨が折れる音がした。雲嵐の口から大量の血が零れ落ちる。
「賢妃様! キョンシーの首を刎ねなければなりません!」
嘉瑞の言葉に我に返った。
香月は慌てて立ち上がる。氷叡剣を握り直し、地面を蹴り上げる。
勇は香月が動いたことに反応を示さない。雲嵐の首を絞めたまま、動きが止まっている。
「雲嵐を離せ!」
香月は氷叡剣を勇の首元めがけて振るった。
勇は抵抗をしなかった。
役目が終わったかのように、首は地面に転がった。そして、体が凍り付き、そのまま、黒い煙となって氷と共に蒸発していく。
呆気なく、消えてしまった。
地面に叩きつけられた雲嵐は動かない。
目を見開いたまま、口から血を零したまま、なにも発しない。
「……雲嵐」
香月は雲嵐の名を呼んだ。
それに応える者はいない。
「死んでまで私を守れとは言っていないだろう」
香月は雲嵐の見開かれたままの目を、指で優しく閉じた。
首の骨を何度も折られたのだ。既に雲嵐の息は止まっていた。
香月の目から涙が零れ落ちる。その場に座り込んでしまった香月の手には氷叡剣があり、戦いの痕跡は消えていない。
キョンシーと化した陳勇が消滅したのか、確認しなければいけなかった。しかし、香月にはそれをする気力さえもなかった。
あの時、雲嵐が香月の腕を引っ張っていなければ、首を掴まれて死んでいたのは香月だった。キョンシーの異常なまでに強い握力で握られてしまえば、香月でも対処ができない。
それに雲嵐は気づいていた。
だからこそ、自ら、香月の前に出たのだ。
「雲嵐」
香月は涙を拭うことができなかった。
「約束を守ってくれよ」
香月の言葉が空しく響く。
二人だけの約束を知る者は香月しかいない。
木犀の花で作るお茶を送ると顔を真っ赤にして言っていた頃が懐かしく思えてしかたがない。後宮入りを祝ってくれているとは思えない泣きそうな表情をしていたことを、香月は忘れることができないだろう。




