06-2.林杏の主張
杏の必死な訴えは通らなかった。
悲鳴をあげながらも、宦官二人に両腕を掴まれる形で連行されていく。
「賢妃様!」
杏は視線を香月に向けた。
恐ろしいものを見るような目をしていた。
「これは忠告ですわ」
「忠告?」
「はい。賢妃様。あなたは徳妃様を敵に回しましたね」
杏は身震いをした。
万姫のことを思い出したのだろうか。
「わたくしは徳妃様のことを嫌になるほどに知っております」
杏の話を聞く為、宦官は足を止める。
逃げる様子が見えなかったからだろう。
「わたくしに蟲毒を作るように命じたのは、徳妃様ですわ」
「徳妃は誰を呪おうとしたのですか」
「賢妃様です」
杏は迷うことなく返した。
……玄武宮を襲おうとした悪霊がいたな。
爬虫類の形をした悪霊だった。
香月は迷うことなく氷叡剣で祓った。それらは術者に帰るように逃げて行ったことを覚えている。
……やはり蟲毒だったか。
後宮内で蔓延している呪術の一つだ。
万姫が蟲毒のやり方を中級妃たちに教え込んでいるのだろう。
……徳妃の恨みを買った覚えはなかったが。
先ほどのやり取りで恨みを買ったが、それ以前は関りがなかったはずだ。茶会の席では香月を持ち上げるような発言ばかりをしていた。
「香月を呪おうとしたのか?」
俊熙は酷く驚いていた。
「俺の寵愛を受けているせいか?」
俊熙は問いかける。
それに対し、杏は笑った。
「徳妃様は欲深いお方なのです。なにもかも徳妃様が手に入れなければ気が済みません」
杏は嫌になるほどに万姫の性格を知っていた。
万姫に気に入られる為ならば、呪術であるとわかっていながらも、蟲毒に何度も手を出した。その都度、万姫は喜んでいた。
自らの手を汚さなくてもいい相手がほしかったのだろう。
ただそれだけの理由だとわかっていながらも、杏は蟲毒作りを止められなかった。
「お気をつけてくださいませ」
杏は笑いながら言った。
「徳妃様は恐ろしいお方ですわ」
杏はそれだけを言い残し、その場を立ち去って行った。
* * *
冷宮は手入れの行き届かない場所だった。
三年前まで人が住んでいたとは思えないほどに荒れ果てた場所に連れて来られた杏は、宦官から手を離されるとようやくため息を零した。
「わたくしはいつまでここにいられるのかしら」
杏は仕事を終えて主人の元に戻ろうとする宦官に問いかける。
それに対し、宦官は無言で首を横に振った。
俊熙の許しが下りるまでは杏は冷宮から出ることが許されない。杏の侍女たちは荒れ果てた冷宮に酷く怯えていた。
「……そう。お前たちに聞いてもわからないわよね」
杏はぼんやりとした顔で空を見上げた。
薄黒い雲が太陽の光を遮っている。
「早く、行きなさい。巻き込まれますわよ」
杏は諦めていた。
失敗した蟲毒は主人の元に帰る。蟲毒そのものは成功していた為、はじき返されたのは初めてだった。
……わたくしの最後の場所にはふさわしい廃墟ですこと。
人を呪わば穴二つというように、呪おうとした罰が下る時が来た。
宦官が立ち去り、侍女たちは杏の様子を見守っていた。
「お前たち」
杏は空を見上げながら、声をかける。
「解雇をしますわ」
杏は一人で死ぬつもりだった。
宦官を飲み込んでいった黒い影は弾き返された蟲毒だ。札など張っていない。
……嘘を吐いた報いかしら。
杏は笑う。
誰も巻き込むつもりはなかった。
侍女たちはその言葉を待っていたと言わんばかりに、一斉に走り出した。杏を思い、冷宮に残るという選択をした者は誰もいない。
……自業自得ですわね。
杏はお気に入りの侍女にすら見捨てられた。
日頃の態度がいけなかったのだろう。
ぼんやりとした顔で空を見続ける。塀を乗り越える巨大な蛇の姿を視ることができるのは、杏だけだった。
蛇は逃げていく侍女たちに目を向けない。
まっすぐと標的である杏だけを見ていた。
「わたくしの体は残るのかしら」
杏は自嘲した。
その言葉に返事をする者は誰も残っていなかった。
* * *
林杏が行方をくらませた。
その知らせが香月の元に届けられたのは、玄武宮に戻ってすぐのことだった。
「冷宮に送られたのではなかったのか」
「宦官は送り届けたとのことです」
「では、その直後に行方知らずになったということか?」
香月は明明の報告を聞き、ため息を零した。
……冷宮送りを止めるべきだった。
逃げられるような場所ではない。
しかし、それは杏の逃げ場を奪うのも同然だった。
……蟲毒返しにあったのだろう。
巨大な蛇の影を見たという噂話が広がっている。
それは杏が行方をくらませた以降、目撃者がいない。
「……徳妃の様子を探ってこい」
「徳妃ですか?」
「そうだ。腹心がいなくなって動揺しているか、見てくるだけでかまわない」
香月は明明に命令を下した。
それに応えるように明明は頷き、すぐにその場を離れた。
……徳妃。
万姫は十三歳だ。
物事の良し悪しの区別がつく年頃であるのにもかかわらず、万姫は自分さえ好待遇を受けられるのならば、なにをしてもいいと思っている。
態度を急変させた万姫の顔を忘れることはできないだろう。




