02-3.後宮には怨霊がいる
「なぜ、翠蘭は失敗したのだと思う?」
俊熙は問いかけた。
それは素朴な疑問だった。
「翠蘭姉上は母上の娘ではございません。ゆえに、玄家の血が流れておりません。その為、彼女は玄武の舞を継承しておりません」
「俺は香月の代わりとなる者を送ってきたとばかり思っていたのだが……。そうか、彼女には惨いことをしてしまったな」
「陛下が悲しまれることではありません。事前に通達をしなかった玄家の落ち度にございます」
香月は申し訳なさそうに告げた。
……わかっていたはずだ。
父は知っていたはずである。
貴族出身ならば、玄武宮の妃には玄武の舞を披露しなければならないという決まりがある。それが守護結界を修復し、維持する為に必要なことだからだ。
……父上。
氷叡山にいる父を思う。
……あなたはなにを隠しているのだ。
今回の件は関わりはなくとも、翠蘭の死には関わっている可能性が浮上した。
事前に玄武の舞を披露することができないとわかっていながらも、後宮に送り込んだのだ。いずれ、奉納の場で失敗し、衰弱死をすることが目に見えていたはずである。
奉納の場に立てば麒麟の手のひらだ。
守護結界の維持に必要な気功が扱えないのならば、必要な気功と同等の生命力を引き抜かれる。それを最小限に済ませる為の舞である。
「姉上は衰弱死をなされたのですね」
「ほとんど即死に近かった。儀式の場だ。病死という形にしたことは申し訳なく思っている」
「いいのです。その方が玄家にとっても都合の良い話だったことでしょう」
香月は納得した。
今まで不思議だったのだ。未練を抱えて死んだはずの翠蘭の怨霊を目にしていない。それは未練を捨てたのではなく、生命力を吸い取られたことにより、怨霊となることさえもできなかったのだろう。
「翠蘭姉上の亡くなった場所に連れて行っていただくことはできませんか?」
香月は怨霊が這う後宮の外に翠蘭の魂を出してあげたかった。このままでは身動きのとれないだろう翠蘭の魂は怨霊の餌になってしまう。
「姉上は成仏をしておりません。未練を残し、彷徨うこともできず、その場に残されているはずなのです」
「なぜ、そう思う?」
「姉上は母親思いの方でした。母親の立場を良くする為だけに後宮入りをしたのです。だからこそ、死を受け入れられるはずがないのです」
香月は翠蘭の母、楊林杏のことを知っている。
今にも倒壊しそうな物置小屋に住まわされ、翠蘭と二人だけで生きていた林杏は翠蘭が後宮入りした直後に本邸に住まいを移された。それは翠蘭がよけいなことを口にせず、思い通りに動くようにする為の人質だった。
翠蘭がいたからこそ、林杏の居場所があった。
翠蘭亡き後は、既に玄家にいないかもしれない。
「姉上の未練を強制的に断ち切ります。そうすれば、お母上の元にいけるでしょう」
「できるのか? そのようなことが」
「宝貝の力を借りれば可能でしょう。試したことはありませんが、姉上が悪霊の餌と化すよりはよいかと思います」
香月は答えた。
それが最善の策だった。
「……わかった」
俊熙は立ち上がる。
「すぐに案内しよう。ついてくるとよい」
俊熙も翠蘭に対し、思うことがあったのだろう。
香月の言葉を信用しているわけではない。俊熙にとって視えない怨霊は脅威ではなく、目に見えて敵視してくる官僚やいつ裏切るかわからない側近たちの方が脅威であった。
それならば、好いた女の願いだけは叶えてやりたかった。
「ありがとうございます。陛下」
香月は素直に礼を口にする。
俊熙の考えをすべて理解しているわけではない。ただ、儀式の場である神聖な場所に連れて行ってもらえるとは思っていなかったのだ。
* * *
玄翠蘭は孤独な女性であった。
母と娘の二人暮らしは困窮極まり、頭を下げて、必死に縋り付いて玄家での雑用仕事を手に入れ、その代わりに与えられる粗末な食事だけで生き抜いてきた。翠蘭が苦労をしたのは母のせいでもあった。気功や武功に恵まれない母に似てしまったからこそ、翠蘭は玄家の人間として認められなかったのだ。
翠蘭はなにもかも諦めてしまった母のようになりたくはなかった。
母親思いの優しい子を演じたのは、いずれ、玄家の人間として認めてもらう為だった。その為ならばどのような演技もした。
一度だけでもいい。
玄家の人間として認められて、華やかな人生を送ってみたかった。その為ならば母を見捨ててもいいと思っていた。
翠蘭は気功も武功も恵まれていない。
その代わり、母親譲りの美しい見た目をしていた。それすらも本家の妹たちと比べてしまえば見劣りするものであった。
翠蘭は母を恨んでいた。
母親違いの妹弟たちの姿を見るたびに憧れを抱いた。その中に入りたいと何度も何度も思い、その姿を夢で見るくらいだった。
母さえいなければと何度も思った。それでも、母と娘の二人暮らしを止めるわけにはいかなかった。
どれほどに恨んでいても、母は母であった。
離れようとすれば玄家から捨てられるのは自分だとわかっていたのだ。
翠蘭の人生が大きく変わったのは、父である玄浩然と初めて顔を合わせた十六歳の時だった。
「玄翠蘭」
浩然から呼ばれた名はいつもと違った。
翠蘭の苗字は玄ではなく、楊であった。母と同じ苗字を名乗るように言い付けられ、玄家の人間として扱われたのは、この日が初めてだった。
「はい。……お、おとう、さま」
翠蘭は恐る恐る浩然を父と呼んだ。
殴られるのではないかと身構えつつ、憧れていた呼び名を口にしてしまった。おどおどとした口調は浩然の好むものではなかったが、浩然は怒らなかった。
「王宮より知らせが届いた。ただちに準備をして後宮に入れ」
「こ、後宮ですが……? ですが、わたしには、なにも……」
「物は準備をさせる。お前は玄家の長女として後宮に入り、賢妃の座に座ることになる」
浩然は淡々とした口調で説明をした。
それは翠蘭の運命を大きく変える出来事だった。
翠蘭は浩然が用意した新しい服や小物、髪飾りなどに目を見開いた。どれも目にしたことがない高級品である。母は恐れ多いのか、必死に頭を下げているだけでなにも発しなかった。
翠蘭にとって、これは絶好の機会だった。




