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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

耳お見合い

作者: 水堂ひすい

あなたの耳はどんな形ですか。福耳ですか。福耳というのは耳たぶが厚くて大きい立派な耳のことです。どうしてこの話を思いついたかというと私の耳はどちらかと言えば貧相な耳だからです。それだからこそ逆に豊かで大きな耳の持ち主である女の子が耳が縁で幸せになるといいなと思って書きました。

耳お見合い



 やや子の耳は薄く透き通るほどに貧相なだ。ここは耳国。この国では女性の耳は厚ぼったくて、大きいほど縁起よく、お嫁に欲しいと言われるのだ。

 恋愛して結婚などというパターンはこの国にはない。

 女達は耳お見合いで、お見合いさせられるのだ。

 美人の一番の条件はこの国では顔ではなかった。胸でもなく足でもなくグラマラスな腰でもなくきゅっと締まったウエストでもなく流れるような髪でももちろんなかった。

 それはもうどこかと言ったらばひとえに耳だったのである。

 だから女達はお年頃になると耳体操に必死になってしまう。耳体操の歌だってある。まるで国歌のようにある。それで理想の耳に近付けるために日々、奮闘することになる。

 でも耳なんてそうそう形が変わるかというとそんなことはあんまりない。だから実にじっくりと時間をかけて女は励むことになる。十年も二十年もかけて。

 だって、てっとり早く整形でもしたいとこだけど、耳だけは整形できない。

 やや子は、めんどくさがりやで耳体操なんか間違ってもやりたくないという人種のひとりだ。

 じゃあ、いい男と結婚できないよ。

 そう、親しい女友達は言う。母親だって心配している。

 それでも彼女は全然平気だった。

 そもそもいい男なんて、と、やや子は耳に手をやり覆いながら言う。それは彼女の悩む時のポーズ、  もしくは何か強く主張する時のポーズだ。

「いい男なんて、所詮、自分のことしか考えてなくて、一日に何度も鏡の前に立つことしか考えてなくって、誰かから褒められることしか頭にないし、たとえば火事などハードなことに遭遇すれば真っ先に自分だけ逃げそうだし、たとえばピストルの球が飛んできたなら女を盾にしてしまいそうだし、それに男なんてそもそも家事とか育児とかって、女に依存することしか考えてないし、それに自分が働いていてお金を稼いでいるんだからってエラそうな態度を当然とってきそうだし、全然興味ない」

 もう、そんなことばっかり言っているので、周りの者達は彼女に対して、もう匙を投げていた。


 ここに耳お見合いに行かないで女をものにできないかと姑息なことを考えている男がいた。

 彼の名はワタル。

 彼は自分の中では、自分に対してわけのわからない自信があったのに、世間的には全然自信がなかった。仕事は最低賃金クラスのお金を扱う仕事。この国ではお金をいやらしいものと考えていて、それを扱う人々は蔑まれていた。

 ちなみに一番高級な仕事は生きる基本である食べ物を作る仕事だった。そう、米や野菜や果物を作る仕事。なぜなら食べ物がないと人々は簡単に死んでしまうから。それは人々にとって憧れの職であり、それについている人々は、周囲から羨望の眼差しで見られるのだった。

 彼の話に戻ると、彼の外見も実に冴えないものだった。顔も背丈もまあまあ普通。それはともかく、問題なこと、それは耳。なぜなら彼のそれはまるで螺旋階段のように、くるくると巻きがかかっていたから。そんな耳を想像するのは難しいかもしれない。でも確かにそうなのだからしょうがない。

 この耳は、形の良い耳イコールかっこいい、に対して形の貧相な耳イコールかっこ悪いという基準にすらされなくて、さらにもうそれはえたひにん扱いにも等しくて、巻き巻き耳、または貧貧相耳、とあだなでささやかれる耳だった。

「どうせ自分が耳お見合いしたって極上女は手にすることはできない。だったら他の方法で得るよう考えなければ。もちろんいい女を」

 これは彼の口癖であり、心の中に頻繁に浮かぶことであり、家族も友達もそんな風に考えてしまうのも無理ないことだと、同情にも似たため息を彼のためによくついてくれた。これは彼が周囲から愛されている証明でもある。

 なぜ愛されているかというと、彼が周りに迷惑を決してかけず、逆に迷惑をかけてくるような人のことをよく面倒見ていたからかもしれない。そんな奇特な人はあんまりいない。

 きっと、だからだろう。


 やや子は結婚がもし決まった場合の儀式についても辟易していた。まだ体験したこともないくせに。それは何かというと耳同士で愛を表現し合うというものだ。それを彼女はひそやかに想像しつつ、なんておぞましい行為だろうと捉えていた。そしてそんなこと、全然したくないと固く思っていた。

 この国ではどこかの猿の惑星のように、体全身で愛を表現し合うなどという最下層的な野蛮な行為はなかった。あくまでも品よく、男耳に対して女目、もしくは反対に、男目に対して女耳。もしくはポーズとして苦しいけれど、男耳対女耳、と、この三パターンしかなかった。

 それはだんだん人々が進化したゆえの傑作と言っていい。


 耳お見合いの日がだんだんと近づいてきた。やや子ははっきり言って行きたくなかった。でも行かないなんてことは、この国では大変な法律違反ということで禁じられていた。

 もしもそれでお見合いをおさぼりしてしまったなら家族の者に対して大変なリンチのような行為が待ち受けていた。たとえば食べ物の配給の減給。たとえばその家族の評判が落ちるようその地域でひそひそと仕組まれた噂を広められてしまう、などなど。

 やや子は家族もろとも不幸になることは当然嫌だ。だから仕方なくデートの場へと向かう。

 ひとり、とぼとぼと。その足取りは暗くさみしいものを感じさせた。

 お見合いの相手は、あらかじめ政府によって決められていた。それは大体、手頃な同士が組み合わされるようになっていた。


 それにしても、なぜやや子が愛し合う者同士の好意に嫌悪を示すかというと、ある日、見てはいけないものを見てしまったからだ。

 ある晩、暑くて寝つけない日のこと。真夜中の三時に起き上がった彼女は、ちょっと外の風に当ろうかと考えた。本来ならこんな時刻は、なんか出そうで出ない、出なさそうで出そう。そういう、どきどきぞぞぞ、と感じられる時刻だ。だから外なんか、だあれも歩いてなんかいない。彼女はひとり、ひたひたと近くの耳公園のところまで歩いた。

 急いで出てきたから、靴に素足。赤い靴に素足。それは闇の中に妙なバランスを保っていた。

ここは高い高い耳時計台が尖った先端を天に向けているのが特徴。よくカップルが待ち合せに使っている。

「ほら、だからあのいつもの高いあれの下ね」

「ああ、あのいつものとんがりのとこ。わかった」

 こんなやり取り。

 その日の月は三日月の月であり、誰かの耳のようでもあり、冴え冴えと冷たく光を放っていた。なんとなく時計台に近づいたやや子の視界にふとあるものが入ってきた。


 コートの襟を立てた男。その顔は見えないけれど、そんなことはどうでもよくて、注目すべきはもちろん耳。もちろん。その耳はすうーっと青ざめるようななめらかなラインをしていて、その長さは皆が  うっとりと恍惚感に捉われてその場に固まってしまいそうなきっちり六.五センチ(この長さが最も美しいと定められている)。やや子ですらそのサイズは大体把握出来た。


 そしてその位置は真横を向いた時に、もうどうしてこんなに決まっているつき方なんだろう、と十人中、九人までが思ってしまうきっかり完璧さを主張していたし、さらにまたその耳の立ち上がり具合と言ったら、立ち過ぎず寝過ぎず、要するにでしゃばることはなくとも自己主張は嫌みなく行う、そんなことをイメージさせる耳だった。

 そんな理想の耳をもつ男がどんな耳をもつ女を相手にしているのかは、やや子にはよく見えなかった。暗かったせいもある。忍び見のせいもある。それでも一番の見にくい原因は、男の、女のことを誰もいないとはいえ、他の人間の視界には決していれたくないという思いがあまりにも強かったせいだろう。それは男の後ろ姿からそこはかとなく漂っているムードでわかった。

 そしてやや子が見ているのに気づいていないのか、早速行為は始まったのだった。

 男はまず静かにそろそろと立ち上がった。直立不動。それに対して女は身を任せたままだった。ちなみに女は公園のベンチに静かに横たわったまんま。

 やや子は「見てはいけないものを見ている」という意識は当然あったのだけれど、ここで「だから品よく礼儀正しく、見てはいけないものから目をそむけて帰るべきなんだ」と思うにはあまりにも幼かったのか、それとも好奇心が強過ぎたのかもしれない。

 男はまず最初に、目をつむって横たわる女を彼の両手を使って左向きにさせた。ごろりと音が聞こえてくる気が、やや子はした。

 でもその動作はかなりゆっくりしたものだった。例えるならば「ごっ、ろおおおおおおおおおおおうっ」という感じ。

 横向きにされた女は右の耳がむき出しになっていた。それはもちろん、天の方に向いていた。天空からの音を余すことなく、残らず全て聞いていたいと思わせるようなポーズ。

男女のその行為では、こういうところが大切らしい? やや子は初めて見るものだから目をぱちくりとさせて驚きつつも、大人の世界ってこれなんだ、とひとり納得していた。

 それにしてもさっきからなんにも始まりそうにないけど。

 すると急に男の顔が女の右耳に取りつかれたみたいに接近していった。ぐんぐんぐんぐん近づいていった。でもぐんぐん、などと言っても実際はそろろろろろろろ、とでもいうぐらい遠慮勝ちな接近だった。

だからやや子は、「まるでスローモーション見ているみたい」という感想をもった。

男の目が女の右耳にようやくたどり着いた。すると今度はその目はまるで貝の殻のようにだんだん閉じていき、女の耳にくっついた。

やや子はさすがにどきりとした。だって初めてなんだもの、こんなもの見るの。

開いた男の目はしばらくすると閉じ、閉じたかと思うとまた開いた。その視線の方向はずうぅっと女の耳に向けられて、着地し続けていた。

いったい、この後どうなっていくんだろう。

さすがにこの時点でやや子には「見ていたいけれど、これって当の二人からすれば相当、失礼なことに違いない。だからもうやめよう。帰ろう」という意識が芽生えた。

その結論から、やや子はもう一目散に振り返ることなどせずに一気に家へ向かって歩み始めようとした。

ぴたり。

どうしよう。

そう、彼女の頭の意志とは裏腹に、足の意志が違ったらしい。止まったまんま動けない。こうなれば、もう見続けるしかない。やや子は覚悟を決めた。

でも見ながら、彼女にとって異性であるひと組が触れ合うというものを見ることは、やはり落ち着かなくてどうこの気持ちを処理していいのかわからなかくなりそうで不安な気もしていたけれど。

彼女はそれほどまでに何にも知らなかったし真面目だった。でも、それはこの国のほとんどの独身女性が同じ類だったろう。

最後に男の目が閉じられて、女の耳に寄りそった。そして触れるか触れないかという距離で留まった。

やっぱりだめ。恥ずかしくて見らんない。

やや子はついに駈け出してしまった。


ついに、とうとう、やや子に耳手紙が届いた。それは耳お見合いのために指定された相手と会う、言うなればデートの日や場所が書かれているものである。

彼女は恐る恐る手紙を開いてみた。そこには「風の見」の日時と場所とがあった。

「風の見」というのは、政府から指定された初対面の男女のための第一デートコースである。この町の外れにある耳耳川の淵に腰かけて、二人でじーっと風を感じて愛でるのである。


今、やや子のお相手の男はさっき、「今日の風は少し不機嫌。それでも三年前に向こうの耳海で感じた若い風が、ひと回り大人になって帰ってきたよう。そんな気がする」と言った。

それに対してやや子は「ええ、そうですね。私もそんな気がします」という受け答え。そう、女は必ずそのような返答をすることになっている。

男の方は風を擬人化して、いかに独創的で、また珍奇にも取られそうなことを言えば言うほど良いとされ、それを受ける女の方はとにかくひたすらそれに合わせて「ええ、そうです。私も同感」というセリフを延々と繰り返すのだ。


さて、やや子と指定を受けた男は着々とデートが進んでいた。

「ちょっと待ってて。のど渇いたからそこで缶コーヒー、買ってきます。君はどうですか。何がいいですか」

「えっと、……同じものでいいです」

ここでも必ず「男と同じものにする」と言わなければならない。彼女は返答の言葉は決まっているくせにぐずぐずと他の候補を四つ考えてしまった。本当は「ピンクグレープフルーツ入りホットレモネードにしたいな。なぜって緊張して疲れてきたから酸味のあるものが欲しいんだもの。あ、それとも微糖コンデンスミルク入りコーヒーにしようかな。緊張の後のせいか、ゆるゆると眠くなってきたから。待って、それよりも渋茶にしようかな。あのきれいなライトグリーンを体内に入れてぱっちり目が覚めるというのも悪くないじゃない。それともそれともホットトマトチャウダーなんて言ったらおかしいかな。少しお腹空いてきた気もするんだもの。でもでももちろん、これらはぜえんぶ却下」

というわけで、このような紆余曲折を経てようやく同意出来たのだった。

男がやや子と二人分の缶コーヒーを買いに行っている間、彼女は耳を澄まして、次にぱちりと目を閉じた。それは「風の見」の最も基本の見方だった。こうして風の気配をまずは感じ取る。

さっき、彼はこの、今日の風のことを少し不機嫌、三年前の耳海、ひと回り大人、って言ってたけれど、私はも少し違うと思うな。どう違うかって言うと、えっとそうだなあ。

やや子は瞑想してるような気分になってきた。でもそうじゃない。これは「風の見」。

そうしているうちに風がやや子の左耳の上のところを、さあっと、なでて行った。

その瞬間、彼女は風自身からのメッセージを感じた。どんなだったかって。

それはこういうものだった。

「昨日、南の耳海岸で休んでいたらそのお陰でとっても元気になったんだ。明日はかなり遠くの耳山まで行く予定。だからもう今からわくわくしてるんだ。一年前にも行ったところなんだけど、なにかしら変わっているところがあるからね。それを見つけるのが楽しみなんだ」

やや子はしっかりとこのメッセージを受け取ったと思った。決して気のせいではないと感じた。だからこれを相手に伝えてみようと考えた。本当はもちろん、そんなことはしてはいけない。それは掟、決まり、ルール。女はそんな返答をしてはならない。ここでは本当のことを言うことは全然重要ではないのだ。

物心ついた頃から、やや子はいろんなことを親からしつけられてきた。そしてそれに合わせて地域の人々との関わりの中で暮らしてきた。それで、家族とも友人とも滞りなく過ごしてきたはずだった。

それなのに。

いつも、いつも、やや子の頭の中には常になぜ、どうしてなんだろう、という疑問符が浮かぶのだ。それはぬぐえない。でもそれをオープンにすることはいけないことだと暗黙の了解があった。それが普通で当たり前だと。でももしかしたらそれは違うのではないだろうか。もしも、もしも今、自分がここで本当のことを口にしたなら何がどうなるのだろう。

たぶん、親にかなりの迷惑をかけることになるのだろう。それでも彼女は一度、やってみたいと思った。親には悪いということは常に頭の中にあったけれど。

男が戻ってきた。二人分の缶コーヒーを持って。彼はやや子にそのうちのひとつを渡した。

「時間かかってしまってすみません。なかなか自分の好きなコーヒーがなくて、つい遠くの販売機の方まで行ってしまったんです」

男はそう言って幾分済まなそうにして、やや子に缶コーヒーを渡した。それは微糖コンデンスミルク入りコーヒーで、まだ少しぬくもりがあった。

やや子は男の「すみません」という言葉と、たまたまだろうけれど、やや子も実は飲みたいと欲していたコンデンスミルク入りコーヒーだったというこのダブルの事情で、いよいよ言いたいことを言ってしまおうかという衝動に駆られてきた。

それでも、それをやってしまったら迷惑をかけてしまう人がいる、とまたまたそんな思いが頭に浮かび、つい唇をきゅっとかみしめた。

だって。

相手の男はやや子が黙っているので、自分が戻ることが遅くなってしまったので、それでやや子の機嫌が悪くなってしまったのだろうかといぶかしんでいるようだった。

二人して無言。

「あの」

やや子が口を開いた。

「その、この缶コーヒー、美味しいですね」

だってやっぱり言えない。彼女はぎりぎりのところで、本当に言いたいことをセーブした。そしてそれで良かったんだろうと思った。誰だって例えば拷問のような不快な目に遭うことは嫌だ。親にクレームがつけられて、さらに自分が親からクレームをつけられる。さらに親や自分にペナルティが課せられるなんて絶対嫌だ。

 そうして男はやや子の無難な回答に、「この女は単にあまり男に慣れていないだけで、極めて普通。良識あり。それではこのまま進めるとしよう」と、こう思ったらしかった。

 彼の方でも女とのデートは慣れていなかった。初めてだった。だからそんなにいちいち小さなことにはこだわらなかった。

 それで結局、二人して ベンチでこの缶コーヒーを飲んで、「風の見」を続けることになった。やや子は所詮、自分が言うセリフなんて決まりきっているとわかっていたから、そのためにそれはつまらないことであり、彼の話にひたすら「ええ、ええ」と相槌をうちながら半分はうわの空で別のことを考えていた。それはそうしようと思ってそうしているわけではなく、なんだかだんだんそうなってしまうのだ。こともあろうに初めてのデート、男との、異性との始めてのデートであるにもかかわらず。これは一体どうしたことだろう。

 なぜなんだろう?

 やや子には最初、さっぱりわからなかった。だって男と、異性とのデートなんて生涯で始めてのことだったんだもの。こんな風にうわの空になることが普通なのかと彼女は次に思った。

「あれ、ねえ、今の話。どうです」

「え」

 しまった。

 やや子は合鎚だけ打っていればいいという安易な考えから本当に別な方に頭が行ってしまっていた。どうやら彼がさすがにやや子の「心ここにあらず」を察してしまったらしかった。

 でも確かにその通り。やや子は彼にこの「どうだった」と問われた時に何を考えていたかというと実に不謹慎なことが頭の中を渦巻いていた。それはこういうものだった。

「今日の夕飯は何にしようか。だって今日はあたしの当番なんだもの。まずは最初に買い出しに行かないと。ええと、最近、予算が厳しいってお母さんが言っているから極力節約しないと。それにはまずは特売商品を中心にしてメインのおかずを決めてしまおう。うーん、何にしよう。やっぱり羊肉のたたきかとび魚の唐揚げか。でもいっそのこと、もっと切り詰めて最も庶民的な

 遺伝子組み換え牛のステーキに、しようかな。おえっ」と、こんな風。

「ねえ。どうだった」

 彼はしつこくもまた繰り返して問うてきた。

 はっきり言って、やや子は困った。ええと。彼はなんの会話をしていたっけ。記憶にあるのは確か「『風の見』っていいですよね。僕は人間の楽しむ趣味ってそれはいろいろありますけれど、これが一番好きなんです。なぜかと言うと、風という自然のものをこうしてなんにも人間が手を加えずに単に愛でるだけ、そこがいいんです」

 そう、確かここまでは聞いていた。ここまではお決まりのパターンのセリフ。「この次のあたりからトリップしてしまったのだ。なんていう不覚。さあ、ここからどうやってつなげよう。まさか、「どうだった」なんて聞いてくるとは夢にも思わなかった。

「えと、あの、その。なんていうのか。好きです」

「ええっ!!」

 ここでなぜか男はものすごく驚いた反応を示した。この態度の方にこそ、やや子はさらに驚いてしまった。どうしてこんなにすごいリアクションを示すのだろう。余程これは外してしまったか、もしくは大変嬉しい感動的解答になったということだ。一体どっちだろう。これは相手の次なる反応を見るしかない。彼女はそう思うとどきどきしてきた。

 さあ、何だろう。彼の次のセリフは。あの口から発せられる言葉は。そう思いながら彼女は彼の口元を見た。

 その口はやや厚くてピンクがかっていてなぜだか、私達は哺乳類なんですということを、やや子に連想させた。やや子はわけもなく、ますます心臓がとくとくと脈打ってきた。

「その、だからいいと思うんですけど」

 彼女は、彼がなんだかよくわからないけれど、ひどく驚いていたのでこれはとにかく無難に肯定の意を示せば良いと思っただけだった。だから尚も、イエスを匂わせるような事を口にしたのだった。

「じゃあ、本当にいいんですね。よくわかりました。それではそういうことで」

ふとやや子は、ここで彼の顔を見上げた。これまでは初めての異性とのデートということでずうっと下を向いていたのだ。

 なぜって、恥ずかしかったから。

 男は満面の笑みを湛えていた。これは一体、どういうわけだろう。やや子は頭の中が疑問符で一杯になってきた。そしてその次に不安という感情もだんだん範囲を占めてきた。

「あの、すみませんが、とても大事なことなので、改めて確認させていただいてもよろしいでしょうか」

 つい、やや子はこんなことを口にしてしまった。だってそれは、無理もなかった。だって自分の知らないところで何か決定的なことが今、確実に決まってしまったということがどちらかと言えば鈍い彼女にもはっきりと見て取れたから。

「あなたもなかなか用心深い性格ですね。だから言った通り、今回のこの縁は決まりということですよね」

「えーっっっっ!」

 やや子は驚いてしまった。うわの空でいたことは何かというとどうやら結婚承諾につながることだったらしい。そんなあ。これでいいんだろうか。

 彼女は小説やマンガの類で見た恋愛に恋焦がれていた。でもそれはあくまでも過去の世界にあったこと。この世界はあまりにも進化してしまったので、自由恋愛などという、ある人にとってはリスクが多過ぎて、またある人には悠長過ぎる制度はほぼすたれてしまっていた。

「あの、その、すみませんけれど、その、私も発言したいのですがいいでしょうか」

 やや子は咄嗟にそんなことを言ってしまった。だってあんまりなんだもの。なにがと言えばこの国では男女が政府の指定されたデートをして、もしも双方とも了解ということになれば(とは言っても実際はほとんど男性側の意向が優先だった)、もう一気にこの後は結婚ということになり、その後はなんにもなかった。要するに離婚というのは認められていなかったのである。それはあまりにも男尊女卑という気もしたけれど。たぶん、それは政府の意向というよりは、男性社会の意向、都合よくしたいということだったのだろう。

 やや子は観念していた。これが結婚承諾の儀式であり、もう動かせないというのならばもうそれでもいいと思った。でもひとつだけ、自分の主張をしたくなった。だってそれは自分の証明をするようなものだもの。相手からどう思われようと言いたくなった。だからもうそれは大変な意を決して言おうとしたのだった。

「あの、『風の見』のことで、なんですけれど」

「え、あ、ああ。どうしたんですか。そんなことで。何でも言いたいことがあれば言って下さい。なんだか君は特別言いたいことがあるみたいですね」

 ……。

 ここでまた彼女は黙った。止めてしまった。第二のブレーキである。ここでこのまま、黙っていれば、自分さえ黙っていればスムーズにことは進んで、滞りなく進んで自分は新しい家庭に収まって無事に平穏幸せになれる。でも。

 でも?

 やや子はまたもや自分の中で問答した。どうしても消えない疑問符が残る。それがなんなんだろう。自分の意志を明確にできないって不自由なことじゃないんだろうか。どうして誰もそう思わないんだろう。

 その気持ちがむくむくと湧きあがってくるともう、彼女はたまらなくなってきた。自分の本当に言いたいと思うことを言いたいと思った。

 カーン。

 微糖コンデンスミルク入りコーヒーの缶が転がった。それは彼女の手から落ちたものだ。もちろんそれは彼女の手の力が緩くなったから、手から離れてしまったものだった。

 彼女はこの音がまるで、スタート、と言われたのと一緒だと思いこもうとした。そしてとうとう言葉を発したのだった。

「あの、違うと思うんです」

「えっ」

「風は、違うことを言っています」

 やや子がこう口にした途端、彼女の心臓はどっきんどっきんしてきて、ほおは急にかあっと熱くなり、手はがくがくと震えだした。彼女ははっきり言ってこの自分の変化に驚いていた。

 だから思わず自分の胸に手を当ててしまった位だった。彼女はたったこれだけのことに時間が経てば経つほどますます動揺してきた。三十秒、一分、一分三十秒。

 彼の方も大きなショックを得たらしかった。それはやや子の目から見てもわかり過ぎる位、わかった。最初に彼は「一体、今、この女から発せられた空気を震わせて伝わってくる現象はなんなんだろう」そんな顔つきだった。それがさらに三回は頭の中で繰り返されたらしかった。だって時間の経過と共に、その顔色はみるみると青ざめていったのだから。

 そしてその呆然とした顔から、まずは涙が目の淵から盛り上がりとろりと流れていった。両方の目からではなかった。左側の目からだった。

 それを見たやや子は急に後悔を覚えた。でもそれは彼女の頭の中のほんの片隅に生じた感情だった。たとえて言うのなら五パーセント程。あとの九五パーセントはどうだったかいうと動揺しつつも、快感という初めての感情がひたひたと押し寄せてきて、思わず満面の笑みを表現してしまいそうになったのだった。

 いけない。隠さないと。

 そう、咄嗟に思ったやや子は急いで下を向いてしまった。ただでさえ、大変な規則違反、ルール違反を犯したのに、そのうえに、笑い顔を作ってしまったなんて、「この女は頭がおかしい」と思われてしまうような気がした。そんなことになったら大変である。

でも、そんなことをしなくても、もう充分だった。男は青ざめた顔と左目からの涙の後に、今度は非常に抑えた声でこう言ったのだった。

「さ、ようなら」

 男はもう、やや子の方を向いてはいなかった。視線をそらしたままだった。そして彼は背を向けたまま、去って行こうとした。

 あ、いけない。

 流石に彼女はそう思った。そしてどんどん自分から遠ざかっていく男の後を追いかけようとした。

追いかけないと。

 そういう意識が頭に浮かんだ。

追いついたやや子は、男がどういうリアクションをするのか、すごく怖かったけれども勇気を出して手を伸ばして男の腕を取った。それはつい、そうなってしまっただけで、彼女のあせっている気持ちがそうさせたものだった。でも実を言うとこのような行為もご法度だった。

 初対面の男女は女からは決して触れてはならない。

 そういう定まりがあったから。

 でも、もういいかな、どうせタブーを犯してしまったんだし。

 そういう気持ちが、彼女にそのような行動を取らせてしまった。

 すると男はさらに驚いたようで、びくりとしてやや子の方を振り返った。

「何をするんだ」

 とても簡単なひと言だったけれども、やや子も驚いた。彼はかなり不快になっているんだろう。でもこのまま帰られると困る。だって親にクレームがつけられ、我が家へのペナルティだって課せられる。   

それはものすごく困る。

 そう思って、やや子は一瞬、男の言葉にひるみそうになったけれども勇気を出して男の機嫌を取り直すことを試みることにした。

「あの。ごめんなさい。実は今日、あんまり体調が良くなくて、それで、その、思ってもみなかったことを口にしてしまったんんです。それと今、触れてしまったこともごめんなさい。だから、なんとか機嫌を直してもらえないでしょうか」

 ここまで言いながらも、彼女の心臓はどきどきしていた。そして膝はがくがくと震えていた。こんなことを口にして、却って男が逆切れしたらどうしよう。その可能性だって決してないとは言えない。それでもできることはやってみたかった。なんとかしたいと思った。やや子は、もしこの行動と言動が全く徒労に終わってしまったとしても、やるだけやったんだから、と思えるのではないかという想いが頭をよぎった。その部分だけでも自己満足できればいいなと捉えた。

「離しなよ、あんた、今どんなことしたか、自分でわかってるんだろう。通報したら大変なことになるんだよ。続けて違反しているんだよ」

 この男は人の良い人なのかもしれない。そうやや子は思った。これが短気で性格の悪い男だったなら、もうここであっと言う間に別れてそのままだったろう。

 やや子は、この男のひと言でなんとか持ち直せそうな気がちらりとした。なおかつ、自分の本音も続けてみたいという衝動にかられた。タブーを許してもらえないかと、贅沢な願望が芽生えた。

「あの、タブーだっていうことはとてもよくわかっているんです。でもお願いなんですけど、私の言うことも聞いてもらえないでしょうか」

 男はなおも続けるやや子にさらに驚いた風な顔をしたけれど、余程性格が良い人だったのか、やれやれという表情になった。

「まあ、この自分達の会話が盗聴されてるというわけでもないしね。じゃあ、言ってみな、あんたの言いたいこととかっていうのをさ」

 やや子は運がこちらに向いてきたというのを感じた。そして良かったと素直に思えた。

自分が常々、疑問に思っていたことを言える場面になったんだと。そうしたらなんだか嬉しさのあまり、右目から涙が流れ落ちてきた。

 この反応に、今度は男がどぎまぎしていた。彼もどうやら異性にあまり慣れていないらしい。それはそうだろう。今回の設定は共に初デート同士なんだもの。

「良かった。嬉しいです。実は、さっきあなたが缶コーヒーを買いに行っている間に、ひとりで『風の見』をしていたんです。そうしたら、あなたが言っていた時とは、そのう、なんというのか、とっても言いにくいんですけれども、違うメッセージを受け取ったんです」

「……ふーん、どんな」

 男はやんわりと続けさせてくれるらしい。その言葉には穏やかな波動があるように、やや子には感じられた。

「あの、それは確か『昨日、南の海岸まで行ってきて、休んだ。今日はもっと遠くに行く。そこは一年ぶりのところだけれど、なんかしら変わっているだろうから今から楽しみ』って確かそんなことだったんです」

 男は黙って聞いていた。そして淡々とした表情で口を開いた。

「それってさ、結局は僕の言ったことは、間違っていたって言いたいわけだよね」

「え、そんなつもりじゃないんですけど」

 そう言いつつも、やや子は悪かったのかと思って気が重くなってきた。そう、彼女は実に小心者だった。でもここはなんとかしなければと、彼に対して好意的なアピールをしようと努める決意をした。

「ううん、違うんです。今、思ったんですけど。それは違う風だったんじゃないのかなって。ね、そう思わないですか。そうすればつじつまが合うでしょう」

 やや子は、思いつきとは言え、それはまんざら嘘ではないし、これはいい発言だと思った。きっと「そうだね」と男が言ってくれるのでは、と期待した。

「確かにそう言いたくなるのもわかるけど、でもなんだか認めにくいな、それって」

「えっ」

 男が予想外のことを言ってきたので、またまたやや子は驚いてしまった。

「実は、自分もいろいろ言ってみたいなって思うことがあったんだ。でもほら、いろんなタブーがあるでしょう。僕も親からしきたりのことは聞かされているからね。もしも破ったらどうなるかというのもよくわかっているつもりだし」

 それを聞いてやや子は、なんだ。自分だけじゃないんだ、この形式に疑問を持っている人は、と思った。そうしたらさらに素直になれるような気がしてきた。

「そう、そうでしょう。おかしいでしょう。どうしてこんな風にぜえんぶ、規則にしてしまうんだろうって。もっとそれぞれに自由があっていいと思うでしょう。だって私達の心はひとりひとりが全て自由なんだもの」

 そう言いながら、今度は違う意味で心が感動したようで、やや子の右目から涙が流れてきた。それを男は黙って眺めていた。

「うん、自分もそう思う」

 やや子も黙ってうなづいた。彼もまたうなづいた。

「続きを言おうか。それは違う風じゃないかってあなたは言ったけれども、自分はそうじゃないと思うんだ。やっぱり同じ風だったと思うよ。だって、風の平均的な長さって知っているでしょう」

「ええ」

 そう、風の平均的な長さというのは一般人の知識として当然のように知られていた。それは長い長い年月の元、人々の地道な観測によって記された奇跡と言ってもいい。

 確かにその通り。平均からすると、彼が『見た』時からやや子の『見た』時まで図っても充分過ぎる短い時間だった。風ひとつが通り過ぎるまで。だからおそらく、やや子のこの意見は外れていたのだろう。

「そうですね、すみません」

 こう言うしかないと彼女は思った。

「でも、そういうのも、もしかしてあり、かな」

 男が急に言ったこのひと言。これはやや子に小さな火を灯されたような感覚をもたらした。

「ほんとに、本当にそう言ってくれるんですか」

 思わず、やや子は嬉しい顔になった。

「でも、僕は本当のことを言うと、素直に従ってくれる女性が好きなんだ。だから、申し訳ないけれど」

 そう言って、もうやめようよ、という表情を彼は浮かべた。いくら鈍い傾向のやや子でも、流石にこれはもうだめ、続ける意味はない、と悟った。

「はい、わかりました。これまで長い時間、つきあって頂いてありがとうございました」

 そう彼女は口にして、もうこの人と会うことはないのだろうと思った。でも悪くなかったなとも思えた。

 ところで、この二人のやり取りを物影から一部始終、見ていたある男がいた。それはワタルだった。やや子も相手の男も、そんな風に覗かれていたなどとは夢にも思っていなかった。特にやや子などは、そのあたりが鈍感だったのでちっとも気づかなかった。

 やや子と男が最後の挨拶をするのを、じっとワタルは見ていた。そして、男の方が静かに先に去っていったのだった。

 それを見送った後にやや子はひとりでさみしく帰ろうと思っていた。男が通りの角を曲がって見えなくなった。

 今だ。

 やや子は一歩を踏み出した。もちろん、自分も自分の家に帰るためにだ。と、そこにいきなり、知らない男の人が彼女に行く先を立ちふさがるように立った。

「あの」

 やや子は、どうして道はこんなに広いのに、二人分は充分に向かい合うことなくすれ違えるようになっているのに、この見知らぬ男の人は、自分の行く手を遮るように立っているんだろうとぼうとした不安を抱えた。そしてさらにその男が言葉を発したことにまたまた驚いたのだった。

 なぜなら、この国では見知らぬ男女は余程の事情がない限り、言葉を交わしあってはいけないのだから。

「え、何か」

 やや子はおそるおそる答えた。だってやっぱり怖いもの。知らない男の人なんて。

 ワタルは実は今まで、二人の行動の一部始終どころか、会話だって聞いていたのだった。それはそんなに難しいことではなかった。なぜなら、彼は二人がいるベンチのところに予測して盗聴器を仕掛けていたから。

「ねえ、君さ、さっき、男の人と二人でデートしてたでしょう」

「……ええ、そうですけど」

 やや子は緊張した。この男の人はなんだろう。何か自分に対して善からぬことをもたらす人物なのではないかと思った。そしてもちろん、警戒することにした。

「それがどうかしたんですか」

 つい強気な言い方になってしまった。そんなつもりはなかったのに。でもこうしないと、何がどうなるかわからないもの。彼女はまた少しはらはらしてきた。

「そんなに怖い顔しないで。大丈夫だから。ちょっと聞きたいことがあるだけだよ」

 男はとてもリラックスした顔で聞いてきた。そう言いながら、彼は短髪だったので、その特徴的な耳に、やや子はすぐに気がついた。それは噂には聞いていたけれど、最低ランクと言われている巻き巻き耳だった。やや子はその耳を見て、なぜだか思わず自分の貧相な薄い耳に手を当ててしまった。なぜ? 自分でもよくわかんない。

 ワタルは、やや子の視線が自分の耳に来ているとすぐに気がついた。そしていつもならコンプレックスでしかないその耳なのに、なぜだか今回はそう思わなかった。それはやや子の耳に同時に目がいったからだろう。その薄い耳は風にひらひらと揺れそうなほどか弱そうについていた。

 同じ類の耳。ということは同じ気持ちをもっているのかも。

 やや子の頭の中に、ちらりとそんな考えが浮かんだ。それはこの男への恐れを、少し減らす役目も取ったし、そこからさらにこの男の話をもう少し聞くことを続けてもいいかな、と思わせた。これは彼女にとって進歩だったろう。

「聞きたいことって、なんですか」

「それはその、たまたまあなたと男性が二人でいるところが、さっきから見えていたので、見ていたんだけど。なぜって見たくて見ていたんじゃないよ。見える角度だったからしょうがないんだよ。自分は『風の見』の練習をしていただけだったんだ」

 やや子は、男がこうさらりと言うのをそんなに不快には思わなかった。似たような耳、あまり高い評価を受けていない耳をもっている同士ということで親近感が湧いたのだろうか、まさかね。でも悪くない、この人の声とか雰囲気。それに外見も。もちろん耳も、ね。

 ひとつ認められると次々といいもののように思えてくる。やや子は自分ってなんてシンプルにできているんだろうとやや呆れた感もあった。それにしても、誰かと話している最中に自分自身に呆れるなんて、そんな余裕があることに苦笑しそうな気もしてきた。

「どんな風に、練習していたの」

 やや子は自然な言葉が自分の中から出たことに自分でも驚いていた。そして、自分もこの人の隣りで「風の見」をしてもいいなと思えるような気がしてきた。

「どんなって、自分はそんなに得意じゃないからね。そもそもひとりでずうっと風を見ているなんて。おもしろいと思う? 思わないでしょう」

 やや子は黙ってうなづいた。そう、そう思う。でもそんなこと、ストレートに発言しては確かいけなかったような。それって「耳お見合いタブー集」にあったと思うんだけど。

 そう、この国ではデート時におけるタブーというのがいくもくどいほどに決められていて、「風の見」がつまらないなどという発言はベスト三に入る禁句だった。

 「ねえ、つまんないと思わない。いい年の男女がさ、一緒にぼーっと風の流れていくのを見てるなんてさ。他に楽しいことっていっぱいありそうじゃない。自分でも探せそうだって思わない」 

 ワタルには計算があった。それは、盗聴器で二人の会話を一部始終聞いていたので、やや子がこの国のしきたりに合わない、疑問をもっている人種だとよんでいたことだった。

 彼はそんな女と一緒になりたいと考えていたのだった。

「ねえ、そうでしょう。僕、あなたと彼の行動を遠目で見ていただけなんだけど、君って男のリードに素直に身を任せるタイプに見えない気がしたんだ。だから、こういう聞き方してるんだけど」

 やや子はこのワタルの言い方に耳を疑った。こんな発言をする人がいたなんて、と思った。

「わかるの。行動だけでわかるの」

「うん、わかる」

「じゃあ、本当のこと、私も言ってあげる。「風の見」なんて、って私も最初は思っていたの。だってやっぱりそれは、あなたの言う通りあんまりおもしろくないって。だって、そもそも風の見方がしっかり最初から最後まで決められているうえに、風がどう変化したなら言うべき決まり文句も全部もうあって、さらにそれに対する返答も全部あるんだから。少しも自由がないのよね。選べない。どうしてそこまできちきちと決めてしまうんだろうって」

 ワタルはこのやや子の言葉を聞いてやっぱりそうだと確信した。自分とこの彼女は似ているだって。

「同感だよ、僕、ワタルって言うんだ。君は」

 彼は既に名前を知っているのにあえてそう尋ねた。

「やや子って言うの」

 女は男に対して敬語しか使ってはいけないのに、彼女は早速それを破った。もう、この人だったら大丈夫だろうと彼女には感じられたから。だから口からなめらかに敬語ではない言葉が出た。

「ねえ、でもね。自分なりに言われているやり方以外の『風の見』の方法を私、考えついたんだ。聞いてみる気、あなたない?」

「いいよ。言ってみて」

「それはね、自分が風になった気持ちで見ることなの」

「へえ、ユニークなこと、言うね」

「その方がずっと自然で風の声を感じられる気がする」

「ねえ、唐突だけどさ、この国のいろいろなことを疑問に思うことって、時々ない」

 やや子はこの発言にどきりとした。まるで自分の心の中を見透かされているように感じられた。

「時々どころか、しょっちゅうある。頻繁にある。どうして、どうして、って。自分って本当にこの国で生まれたんだろうかって思うくらい。たとえば自分だけ、別の惑星生まれである日、親と一緒にこの星の上を旅行中に、自分だけ落っこってしまって、それでこんな目に遭ってるって」

「ふーん。聞けば聞くほどユニークだね。でも言われてみれば自分もそうだよ。なんでこの国ってこうなんだろうって。でも誰もなにも言わない。それで規則に従っておとなしく生きているんだ。だってその方が楽だからね。でもこのままでいいのかなって思うことって大切だと思うよ」

「うん、私も同感」

「ね、なんか、買ってこようか。飲み物」

「いいの。ありがとう」

「何かいい」

「えっと、ちなみにあなたは」

「自分は今の気分からして、ストレート味の抹茶ドリンクかな」

「じゃあ、私も同じもの」

 やや子はこう言った自分の発言に軽く驚いた。さっきの男の時は同じものに必ずしなければならないということに辟易していたせいか、断然複雑に違うものにしたいという考えしか浮かばなかったのに、今度はすらりとこのワタルと一緒の選択にしてしまった。

 これって不思議。彼に対して好意をもったんだろうか。私。そう言えば、彼、そんなに悪くないじゃない。

 彼女はワタルを見ながら、この先のことを想像しようとしてみた。でも次の瞬間に彼女の心は沈んできてしまった。それはさっきの男のことでタブーを犯してしまったからだ。

 もう今頃、あの男は自分のことを通報してしまっただろう。政府からのクレームとペナルティが親に告げられるのは、もう時間の問題だ。どうすることもできない。おとなしく帰って罰を受けるしかない。

 ワタルはやや子の顔色が冴えなくなってきたことにすぐ気がついた。そしてそれはなぜかということにも見当がついていた。そこからなんとかしてあげたいという考えも芽生えた。

「あのさ、一緒に逃げない」

「えっ」

 この人は一体何を言うんだろう。そんなこと、できるわけないじゃない。できるわけないじゃない。できるわけないじゃない。

 彼女は頭の中で強く三回思った。絶対不可能なことのように思えたから。でもでも待って。よーく考えてみて。もしかしたら何か道があるんだろうか。

「あ、その顔、無理だって思った後に可能性がないかって希望を探そうとしているでしょう」

「どうしてわかるの」

「君ってさ、顔に自分の考えていることが素直に出るタイプなんだよね」

 そう指摘されてやや子はまた胸がどきりとした。こんなに簡単に読まれるなんて。でもいいかな、この人なら、なんて。

「そうかもしれない。ねえ、でもそんなことってできるの。逃・げ・る・なんて。最大のタブーじゃない。もしも失敗したら大変なことになる」

「じゃあ、聞くけど。君は今のままでいいと思っている」

「ううん、ちっとも。全然。もう嫌って思うこと、一日に百回以上ある」

 やや子はそう言いながら、また耳に手がいってしまい、少し俯いた。

 百回はおおげさだったな。でもそんな風に言いたい位、もうどうしようもないほど嫌気がさしているんだもの。しょうがないじゃない。

 やや子は彼の方を見た。その目はまた彼女の本心を素直に伝えるべくさみしそうな表情だった。

「自分もあるよ、百回ね」

「それって一日につき」

「そう、一日につき」

「じゃあ、私と一緒じゃない」

「そういうことになるね」

「じゃあ、本当にたくらんでみる、私達」

 そう言ってやや子は、ワタルに向かってほほ笑んだ。その顔は自分で鏡を見たわけではないのに、すごくいい顔を彼に向けたような気がした。彼はその彼女の笑顔に、これまたとびきりの笑顔で返してきた。

「ね、ね、『風の見』をしながら、逃げようよ」

 彼がひと言、そう言って、彼女の方へ手を伸ばしてきた。その手を彼女は拒むことなく受け入れた。

 だから二人は手をつなぎながら風の見をすることになった。つながれた手は変にいやらしい感じはなくて、タブーを破ったという気まずさもなかった。

「じゃあ、聞いてもいい。今の風はどんな感じだと思う」

 やや子は早速聞いてみた。

「うーん、そうだなあ。僕はあんまりよく感じ取れない方なんだけど。はるか彼方の暑い国から来たんじゃないかな」

「どうしてそう思うの」

「なんとなく。適当に言っただけ。自分、そういうセンス全然ないんだ」

「そう。そんな風に見えないけど。私なんか、なんとなくだけれど耳で感じるんだ。そういうのってない」

 彼はこの言葉でいくらか気分が沈んだようだった。それは気にしている箇所のことを言われただろうからだけれども、彼女からするとそんなこと、気にしなくてもいいのに、という気持ちからの発言だった。彼女はここで何か彼をフォローするような、元気づけられるような言葉を言ってあげたいと思った。でも何がいいのかよくわからなかった。

「その、すてきだと思うの、あなたの耳」

 やや子はついはっきりと言ってしまった。でも悪くないと思えたのは本当だったから。だから彼女の口から出たセリフだったのだろう。

「そういう風に言われたのって今までなかった」

 それだけ言って、彼は黙ってしまった。こういうのに慣れていないんだろうな。やや子はそう思い、彼の耳に触れたくなってきた。こういう気持ちって初めてだった。

 初対面の異性に触れるなんて。それも最も敏感な箇所である耳に触れるなんて。

 だから彼女は自然と手が伸びて彼の右側の耳に触れようとした。でも彼は嫌がった。それでつつつ、と微妙にその手から逃れるべく離れた。

 やや子にすると、どうしてそのようになるのかよくわからなかった。照れているのかな、とも思った。もしくはそのようなことをされたことがあまりないので面くらっているのかとも考えた。それともそれとも、自分のことをそこまで受け入れようしない、要するにそんなに好きではない、ということなのかも、という考えすら浮かんだ。そうなると、それはどうしようもなく悲しい話であり、どうすることもできないではないか。

 やや子は、ワタルに直接聞くことはためらわれた。単に怖かったからだった。人が人を好きになるのに理屈はいらないと思う。自分は好意をもったわけだけれども、彼の方はどうなんだろう。やや子は彼の本音を知りたかった。でも素直に聞いていいのかどうかもわからなかった。

 自由に誰かのことに関心をもつということは禁じられているどころか、発想さえなかった。友達とだってひと言も異性のことなんて、話し合ったことなどなかった。

 彼の本心を確かめるには、どうすればいいんだろう。

 やや子は回りくどい聞き方をするほど器用でもなく、ストレートに聞こうとするほどの厚かましさも持ち合わせていなかった。でも、今日このまま別れるのは絶対嫌だと思った。どうにかして、自分への本心を知りたいと、その思いで頭の中は満ちてきた。

 確かめるのに、一番簡単なことは触れることだとやや子は直感で思った。

 好きだから触れたい、触れて相手を確かめたい、確かめて安心したい、そんなこと。

 彼女がそれでどうしたかと言うと、これが傑作。どうしたと思う? 愚直にももう一度、触れようと試みることにしたのだった。

 だって他に方法を知らないんだもの。

 またまた、伸ばされる彼女の手。巻かれている彼の耳の方へと、そろそろと行く。今度の彼はさっきと少し反応が違った。それは素直に耳を触らせたかって。いいえ、全然。そんなことはなかった。

 今度の彼は、顔を少し苦痛そうにしていたけれど、さっきほど極端に引いていなかった。 

「触ってもいい」

「どうして」

「好意をもっているから、だから触れてみたくなったの」

「……そういうのって、自分は初めてなんだ。だからどうしていいのか、よくわからない」

 そう言って彼は、黙った。

 これは触れてもいい合図かな、と彼女は思った。だから今度こそは、と思いつつ少しずつ、彼の方に再度手を伸ばし始めた。

 彼の表情は硬くはなかったけれど、特に嬉しそうでもなかったし、楽しそうでもなかったし、だから望んでいるとは思いにくかった。

 このまま、手を伸ばせば今度こそは無事、触れることができそうな気もしたけれども、本当に大丈夫なんだろうか。

 そんな風にやや子は考え始めた。もしここで、ぎりぎりのところでまたまた拒否されたら、もうアウトだと思った。そのダメージはかなり大きいだろう。そんな風に不安に想わせるのは紛れもなく、彼の作るその表情だった。

 ちっとも嬉しそうじゃない。

 彼女は、自分が彼に触れることでぜひ幸せそうな顔をしてほしいと願った。そしてできればそれを言葉で表現してほしいと望んだ。これっていけないことなんだろうか。

だんだんだんだん、近づいていく自分の彼への手を見ながら、やや子はそんなことを考えていた。

 それで、彼女の手がもう少しで、あとほんの少しで彼の耳に達するというところまできた。それなのに、彼の手が彼女の手を止めたのだった。

 でも止めたと言っても、まるで二人が手に手を取ってというように見えるシーンだったけれども。

「とりあえず、逃げようよ」

「とりあえずって、どこへ」

「この国の外」

「そんなことってできると思う?」

「無駄かな、それとも無理ってこと?」

「うん、そう思う。なんとなく、だけれども」

「じゃあ、どうするわけ? だって今のままだと、どうなるか自分でもわかっているよね。君はタブーを犯したんだよ。もうきっと家族にも連絡がいっているだろうし。ペナルティだって課せられることは、わかりきってるんだ。これが禁慎期間が解けたとしても、次にくる耳お見合いのランクはさらに低くなるし」

「どうして、そんなこと言うの。次の耳お見合いの相手、なんて。今、こうして知り合ったわけなのに」

 やや子は悲しくなると同時に動揺してきた。一緒に逃げよう、ってさっき言ったくせに。

「個人の力だと限界あるからね。逃げようって願望はあるけど本当に逃げることなんて、できると思う? 思わないでしょう」

 確かにその通り。そんなに簡単に物事が進むなら、きっと今までもいろんな人が逃げていっただろう。そして「うまく逃げることができました。だから今度のアドレスは次のとおりです。こちらの方へ来ることがあればぜひお立ち寄り下さい」と、そんな便りが今までに何通も来たに違いない。ところがそんなのはこれまで一度たりとも来たことはなかった。やや子の記憶によると、だけれども。

「僕にだって来たことないよ。そんなもの」

「うん、ないよね」

「だから、結局無理なんだよ。だから、結局みいんな無理して我慢して合わせているんだよ。生きていくためにね。それしかないんだよ」

「じゃあ、私達もぜえんぶやめるんだ」

「……そうじゃない、やっぱり」

「強気なこと言ったり、すぐ弱気になったり。あなたってよくわからない」

「うん」

 そんな風な態度に出られると、彼女も動揺から迷いが生じてきそうだった。一体、どうすればいいんだろう。私達って。

 ちょっと考えてみようか。

 やや子はしばらく集中していれば良いアイディアが出てくるような気もした。こういう時ってせいぜいできることってそんなこと位だ。そう、考えて浮かんだ名案、それを実行に移す。これだよね。でもこの場合、難しそうだけれど。

 ……。

 ……。

 彼らは二人して沈黙してしまった。

「風に聞いてみるってどう?」

「僕はそういうの、全然わかんないよ。でも、安易だね。風に聞こうなんて。他力本願っていうか」

「だって、この際、頼れるものはなんでも頼ってみた方がいいじゃない」

 つい、やや子はムキになってしまった。そもそも、初めは「一緒に逃げない」なんて言ったくせに。あきらめが早くて、そのうえに単純な人なんだ、と少しがっかりした評価を彼女は彼に下したくなった。

「まあね」

 あ、一応同意してきた。少し評価を上げようかな。でもこの程度でそう思う自分も簡単な構造してるかも。

「じゃあ、ひとりで集中した方が風の意見がわかると思うから、少し離れて座っていい。あっちのベンチの方に」

 そう言って、やや子は今二人が座っているベンチの真向かいにあるベンチを指差した。

「ああ、いいよ。どうぞ。じゃあ、僕はここで見てていいのかな」

「どうしよう、見ててもいいけど、なんか見られていると集中しにくいような気もするんだけど」

「じゃあ、見ていない方がいいってことだよね」

 そう、そういうことになる。

「ええと、じゃあ、とりあえず向かいに行くね。それで見てていいよ。もしだめって思ったら、言う。で、どう?」

「うん、いいんじゃない」

 というわけで、やや子はワタルといるベンチからひとり立ち上がり、真向かいのベンチへと向かった。広めの公園なので、そこに行くまでに三分位、かかった。

辿り着いた彼女は、ベンチの真ん中にひとり、座った。なぜか他の人は誰もいなかった。たまたまなんだろうけれど。この広い公園、時計台が中心にあるこの公園で二人っきり。

さっきの耳お見合い相手の通報を考えると、もうまたまたはらはらしてきそうだけれど、全部忘れることにしよう。一瞬だけね。

 そして彼女は目を閉じた。閉じて風の声を聞こうというよりも、風と同化しようと意識を強くした。

でも何も聞こえない。感じない。風が全くなかったわけではなかったけれど。

 じゃあ、その風はどんな風だったかというと、彼女のほおをさらりとなでていくだけだった。無表情、無関心、無感動。そんな印象の風に過ぎなかった。彼女の耳になんのコンタクトもしてこない。

どうしてだろう、さっきはこんなんじゃなかったのに。全然違う。

 どうして?

 ……。

 あれ、なんか風の声は聞こえないけれど、なにか感じるものがある。これはなんだろう。楽しいような、嬉しいような感覚なんだけど。イメージとしてはこのほのかに柔らかい、暖かいっぽい色のものがあるから、風の方への意識が妨げられているような。だってこの暖かいっぽいもの、なんだかこちらの方がエネルギーが強そうなんだもの。

 そこでやや子は、はっと気づいて目を開けた。

 そして彼女は、その暖か色を喚起させる方向へと目を見やった。それはまっすぐ正面で、そこにはワタルがいた。

 あ、そうか。そういうことか。

 ようやく、気がついたやや子は、手で合図してワタルにこちらを見ないようにお願いした。彼はうなづいて、すぐに目を閉じてくれた。それを見て、良かったと思った。

だから、またまた彼女は集中することを試みた。

 そうしたら違った。全然違った。

 今度はすぐに、それがやってきた。かすかな一瞬。ささやき、風のなぞる気配、彼女の薄い耳をさっと触れて。

 でもそれだけで充分だった。やや子は満足気な表情を浮かべた。目を閉じたままで。それをまだ横を向きっぱなしのワタルは知らない。成功したのだろうということを知らない。

やや子は、ベンチから立ち上がった。そしてゆっくりと彼の方に歩いていった。

 そして、彼のところまで来ると、ぴたりと歩みを止めた。

 さっきから近づいてくる気配をワタルは感じていただろうに、律儀にも彼の目はずっと閉じられたままだった。でもそれはもちろん決して眠っているようには見えなかった。

「ね、もう開けてもオーケーなんだけど」

 ワタルは目を開けたところ、機嫌の良い表情を浮かべた彼女がいたので、何か希望的な状況が開けそうなのかな、と思ったような顔をした。

「どうだった。良いメッセージをキャッチしたみたいだね」

「そんな風に見える? うーん、そう見えるかなあ。そういうわけでもないんだけど、ね。ね、なんて言ってたか、聞きたい?」

「もちろん」

「うん、実を言うとね、そんな具体的でもなかったの。でもかといってひどく曖昧というわけでもなかった。風がなんて言ったか、それはね」

「それは?」

「遠く、長い、その先にあるもの」

「えっ」

 彼はよく意味がわからなかったらしい。思わず聞き返すリアクションを取ってしまった。

「だから、ね。ずうっと遠くて長くてその先の方だって。そう言ってきたの、私に。風がね。なんとなく、かなり高齢の風だったような気がする。だからいろんなことがわかっていて、それでもって私の意識へコンタクトしてきてくれたんだと思うの」

 彼はまだよくやや子の言うところの本当の意味が理解できないという顔をしていた。

「あの、もう一度わかりやすく説明してくれないかな。結局、どうなわけ」

「あ、だからね、たぶんなんだけれど」

「うん」

 ワタルの目は期待に満ちているように、やや子には見えた。そんな目で見られるとちょっとプレッシャーだなあ、なんて思いつつ再び、彼女は口を開いた。

「たぶん、ずっと遠い、長い先にあるもの、それは時、時間を指しているんだと思うの」

「時間って、」

何か言いたそうなワタルを彼女はさえぎる。

「だから、ずっと長い時間を経た頃、遠い遠い未来になると違ってくるんだよって、そう言いたかったんだと思う」

「じゃあ、なに、未来になると僕や君が思っているような自由な社会になっているって、そういうことなわけ」

「うーん、たぶんそうなんじゃないかなあ。とにかくなんても性急に変えようとか、変わろうとかって無理があるよね。それと、今ここで逃げたって限界あるし。すぐつかまるのだって目に見えてるもの。そうでしょう」

「まあね。ということは、そういうメッセージを受取って、これから自分達ってどうするわけ」

 その彼のセリフに彼女は遠い目をしてみせた。まるで本当に遠いものを見ているように。見えているように。彼からすると、彼の言葉の後の態度なわけだったのだけれども、「もしかしたら、今の言葉は聞こえてないのかな」と、そんな風に思えたかもしれない。その表情が彼の顔に浮かんでいたから。やや子もすぐ思ったことが顔に出るタイプだけれども、彼もそのようだった。

「やっぱり戻るしかないんじゃないかなあ」

語尾を伸ばして、彼女がゆっくり言った。

「でもこれから嫌なことがいろいろ待ってそうだけど」

 すかさず彼。そのひと言に、彼女の顔色は曇る。そしてうつむく。

「あ、ごめんね。はっきり言っちゃって。でも僕も少し、わかった気がしてきた気がするよ」

 この言い方に、やや子は彼にしては回りくどい言い方だな、まるで自分みたいな感じ、と思った。

「なにが、どうわかったの」

「少しずつ変えていこうとすればいい、っていうんでしょう」

 ワタルは淡々とした顔でそう言った。

「……合ってると思う。たぶん」

「二人で、少しずつ変えていこうという意識が大切だ、っていうんでしょう」

 彼はなおも繰り返したようなことを言う。

「そうそう、そういうこと。だから、これから山のような嫌なことをいろいろ経たうえで、一緒に暮らせる可能性を見出していこうよ。ものすごく遠回りになるかもしれないけれど、無理がない方がいいんだと思う」

「うん、そうかもね」

「ね、今、自分でこの話を言いながら連想したんだけれど、あ、もちろん連想だから、今のこのテーマと関係があるんだけど、たとえばなんだけどね、こないだ、うちの共同住宅の一階の下、要は地下から急に汚水が噴き出してきたの。こんなことって、ずっと今のところで暮らしているんだけれど、初めてのことだったのね」

「うん、それで」

 ワタルは真面目な顔をして聞いてくれているようだった。その顔つきで、うわの空でないことが、やや子にはすぐわかった。それで彼女は、このまま話を続ける気になった。

「それが、原因がよくわかんないんだけど、たまたまうちが清掃当番に当たっていたから、私がずっと見張っていたの。業者に連絡して、その担当者が到着するまでずーっとそばで見ていたの。そしたら、気がついたのが夜の九時を回っていたんだけど、しばらく噴き出して流れ続けているかと思うと、時々、ぴたって止まるの。そしてまたちょっと経つと吹き出しが始まるの。あ、でも吹き出しなんて言い方だと、まるで噴水みたいな激しい水の勢いを連想すると思うんだけど、そこまでじゃないの。低い高さでの吹き出し」

「う、うん」

 ここでワタルの表情にやや変化が訪れた。困ったような、翳りが出てきたのだった。たぶん、「今のところ、自分達が話しているテーマにリンクしていないけど、そろそろしても良さそうだけど、なんかしそうにないなあ。大丈夫かな」

 と、そんな顔。もちろん、やや子はそんなとこも把握している。だって彼の目の前で、彼の顔を常に見ながら話しているんだもの。それで彼女はなおも続ける。

「それでね、ひどいことに業者には気がついた九時過ぎに、すぐ連絡を取ったのに、早く来て下さいってね、ところがこれがなかなか来なかったの。ひどいでしょう。ようやく来たのって真夜中の一二時半だった」

「……確かにひどい話だね、災難だよ。でも聞いてもいいかな。それでそれが一体、」

 ワタルが言い始めたのを、彼女が遮る。

「あ、待って。あなたの言いたいことは、わかる。まだか、って言うんでしょう。今、言うからよく聞いててね」

「うん、うん」

 ワタルは、ややおざなりな返事で、でも態度としては真摯な姿勢も崩さない。それでもちょっと退屈してきたぞ、っていう雰囲気もちらりと見える。

「で、結局、担当が来て下水をチェックして、いろんなものが詰まっていたっていうことで原因は解明されて、詰まり物をいろいろと取りだしてたの。下水だから、トイレの汚物とかもこの床が浸水した時に浮かんでた。あと、油の塊も詰まりの原因になってた。それは台所での揚げ物とかだと思う」

「……」

 ワタルは、いっこうに話が核心めいた部分に触れてこないので、「一体この子は何が言いたいんだろう」って顔で、次にはイライラしてきたのか、足をかたかたと揺すり始めた。

「で、ここで話が少し時間的に過去に戻るだけれども、その担当業者を待っている時に、ひとりで浸水した床を汚い水が、時々汚物なんかも抱えて流れて行くのを、ひとりでジーッと見てた時に、それがまるでゆらゆらとうごめく、まるで川のような流れになったの。

それでそれで、何か言いたいかっていうと、その低い水の太い流れが、低い噴出と時々、それが止まるために、ものすごおくゆっくりとゆらあ、ゆらあって流れていったの。一瞬、パッと見ると止まっているようにも見えるのね、その流れが。でもそうじゃないの。ずうっと見ていると確かに流れているの、そして一階の一番端の吹き抜けになっている庭っぽいところまで水が行って、そこでゴールって感じなの」

「……」

 ワタルはますます、足を小刻みに動かしていて、それは早く、早く、と彼女をせかしているようだった。顔はつまんなそう。でも彼女はお構いなしだ。

「それでね、そのものすごおくゆっくりな流れを見てたら、ふと頭に浮かんだの。自分も自分の家族も友達も近所の人も道行く通りすがりの人も、あと人間以外のもの、建物や下水管やなんだってそう。時間を経て全てのものは刻々と変化していくんだって。一見、毎日見ている人達ってあんまり変わらないように見えるけど、そんなことないんだって。だから、私達は常に少しずつ少しずる変化していて、常にどこかに向かっているんだって、そんなことをふと思ったの。これって、どう? 今の私達のテーマ、会話に通ずるもの、あるって思うでしょう。ね、思うでしょう」

 ワタルはうん、わかるよ、っていうようなことを口にしようとしたかもしれない。でもそれよりも先に、彼女の方の感情が高ぶってきたのか、彼女は、彼女の手を彼の方に近づけていった。

 その手は彼のくるくると巻かれた片方の耳にまさに届きそうだった。彼は、今度は動いてよけそうなそぶりなど見せそうになかった。それで、彼女は充分だと思っただろう。

 そしてこの話はどこまでもまだ先が続くかのように終わることになる。余韻を残しながら。二人が耳で愛を表現し合うのは、もう少し先のシーンになるだろう。

                

         (了)

初めまして。水堂ひすいです。読み終えてみていかがですか。共感できましたか。あなたももし耳が縁で幸せになれるとしたら人生に希望が持てる、そんなことがあるかもしれません。どうぞご感想をお寄せ下さい。どんなことでもひと言でも大変嬉しく思います。

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