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 彼はなんとなく夜が似合う男だった。そんな男が言った『今夜』は、秋月が思っていた時刻よりもよっぽど遅くて。 

 時刻は既に日付が変わろうかというところ。あと十分彼の到着が遅ければ、『今日』でも『今夜』でもなくなっている。さすがに時間ギリギリに来てしまったという負い目はあるらしく、到着したと同時に彼の口から零れた言葉は「遅くなって悪い」という謝罪だった。

「何かあったんかと思って心配やったけど、無事ならそれでええよ」

 銀一からはあれから一度、宅配便で郵送したという連絡だけ入り、それから今まで電話もメールもなかった。もちろんどちらも朝のやり取りの時に交換している。確かにあまりマメに連絡をしてきそうなタイプの男には見えないが、付き合って早々“これ”は少し寂しい。

――我儘ばっか思ったらあかんよな。“こんなん”、慣れっこやねんから。うん……

 秋月は今まで、付き合っている相手から連絡がないことなんて慣れっこだった。性格も付き合い方もオラオラ系だった元彼は、連絡がマメな男であることを自慢げに公言するような男だったが、そんなマメさは付き合った途端にどこかにいってしまっていた。

 釣った魚に餌をやらないとは正しくこのことで、付き合うことで秋月の心を完全に手に入れたと悟った元彼は、それからは自分の暇な時にだけ連絡を取って来ては家に上がり込むようになり、自身の予定が入っている週末等は一切連絡が取れないこともざらだった。

「嘘つけ。不満そうな顔しとる。仕事中は電源切ってて連絡返せんくてな。悪い。多分これからも、これだけは我慢させることになると思う。先に謝っとくわ」

「……うん」

 先程まではあんなに心配……いや、この秋月の『心配』は、彼への心配ではなく自分への心配<不安>だった。その大きな黒いどろっとした感情が、彼からの誠意でするりと溶けていくのを感じた。

 銀一には秋月の心なんてお見通しで、それすらも思いやって謝ってくれている。そこに不安なんてあるはずもなく。彼から与えられるソレこそが、愛情だと昨夜から、ずっと常に教えられている。

――何が恋愛を教えてや……私の方が、ずっと……『愛情』を教えてもらってばっかり……

「……銀一の仕事って……?」

 結局掃除中も考えてしまっていた彼の仕事<こと>。昨夜と同じく部屋に通して、昨夜とは違ってベッドとテーブルの間にある座椅子へと彼を誘う。

 もうすぐ着くとだけは連絡が来たので、それから急いで用意したコーヒーを淹れたマグカップを二つ、テーブルの上に置きながら、なんでもないことのように彼に問い掛けた。視線は敢えて彼を見ずに、本当に……ただの世間話のように、なんのこともないように……

「……ああ。コレ、見てみ?」

 あまりに不自然に彼を見ないようにしていたせいで、秋月は銀一が大きな荷物を抱えていることに今更気付いた。玄関からずっと脇に荷物を抱えていたらしい。全然気づかなかった。というか、目に入っていなかった。

「……何? これ……?」

 銀一は抱えていた荷物――四角形の布に包まれたそれは、彼の渡し方のせいかまるで賞状を授与されたような形で秋月の手に収まる。思わず両手で受け取ったが、その選択は正しかった。

――けっこう重いし、硬い感触。これ、何?

 視線で答えを問うが、それには銀一は薄く笑うだけだった。仕方なく秋月は包んでいる布をするするとめくり――そこから覗いた『風景』に目を奪われる。

「っ……綺麗……!」

 それは美しい『絵』だった。

 空から落ちる一筋の蒼白が、黒に程近い灰色に突き刺さるようにして、一人の人物を照らしている。その人物は後ろ姿で、顔の判別は出来ないが女……だろうか?

 彼女はこちらを振り返ることなくただその蒼白へ顔を向けている。だが、何故だが秋月には、この人物の心が手に取るように伝わってきて……

 その絵は『愛情』に満ちていた。

 決して見るからに暖かい色合いの絵ではない。灰色と蒼白のコントラストすら美しい、そんな寒々しい色合いだ。だが、そこにはモデルとなった『彼女』と……『描いた人間』の愛情が確かに詰め込まれている。

――これって……

 秋月の目が、その絵に落とし込まれた『日常』を捉える。

 清廉なる『彼女』を照らす蒼白の下に、よく見知った『日常』が描かれていた。それは、このアパートの名前を示す表札。リュミエールと記されたその灰色は、紛れもなくこのアパートを正面から描いたものだった。

 それなら、この女は……もしかして……

「言ったやろ。秋月は綺麗やって。俺にとってのミューズ……いや、どちらかって言うとセレネか?」

 薄く微笑むその完璧な顔が、そう秋月を愛でる。女神だと、熱の籠った瞳で愛でる。

「そんな……でも……こんなに綺麗に描いてくれて嬉しい」

 絵には詳しくない秋月だが、この絵に込められた気持ちの大きさはわかるつもりだ。それは芸術的な素晴らしさなんかよりもよっぽど、今の二人には大事なことで。

「ささっと描いたもんやけど、出会いの記念やと思って受け取ってくれたら嬉しい」

「ほんまに嬉しい。もしかして、これが仕事なん?」

「……一応、昨日のレストランの絵……俺が描いたやつなんやわ」

 少し照れた様子でそう言った銀一の言葉に、秋月は思わず彼に抱き着いてしまっていた。あの素敵な絵を描いた人間が、銀一だったなんて。

「ほんまに……『深い色合い』で素敵な絵やった……目が奪われるくらい……」

「知ってる。俺、秋月の言葉……ずっと聞いてた」

 力強い腕に抱き締められて、耳元に彼の息がかかる。

「もう……泣かさんから」

「……うん」

 甘いキスを落とされながら、あの悲しい別れの時から既に、彼に守られていたことを知る。『深い色合い』に込めた想いが、残さず伝わった喜びに震える。

 最高の贈り物は窓辺の空いたスペースに立てかける。不要なものはもうこの部屋にはない。しっかりとした額縁に収まった水彩画を飾るような日が来るとは思わなかった。

 愛しい絵から離れた手に、愛しい人の指先が絡む。立てかけた蒼白に見守られながら、二人は料理がすっかり冷めきってしまうまで愛を伝え合った。


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