第5話 化物
燃え盛る山頂を後にして山道を歩く白猫と黒猫。当てのない気ままな旅が今日も始まろうとしている。目の前に黒い甲冑を着た人間さえいなければ。
その者は道を塞ぐようにど真ん中で仁王立ちしており腰には真っ黒な鞘を下げている。黒一色の不気味な存在で妙な威圧感を放っている。
とはいえ、そんな歪な存在に見向きをするほど人に対して興味を持つ姉妹ではなかった。普通に両脇を素通りして後にする。
「待たれよ」
強張った低い男性の声が背後からした。黒騎士の男は振り返ったが姉妹の歩みは止まっていない。男は特に慌てる様子もなく続けた。
「街では邪竜が飛び立ったと騒ぎになっている。何か知らぬか?」
ドラゴンマウンテンの麓には大きな街がある。当然その街からも竜を一望できたので山火事になったのもドラゴンスレイヤーが消えたのも竜が飛んだのも周知されていた。
「さぁ? わたし達は木陰に隠れていたのでさっぱりです」
白猫は躊躇なく嘘を吐いた。あまりに自然な口調だったので黒騎士も疑う余地はない。
沈黙する黒騎士を置いて彼女達は先へ進む。しかし、その後ろを黒騎士が付いて来ていた。
「わたし達に気があるの?」
「気がかりな点が2つある」
黒騎士は彼女の発言を無視して勝手に話し出す。
「1つ。竜が目覚めて暴れたというのにその落ち着き振りはどうにもおかしい。普通なら失神するか恐怖でまともに歩けないだろう」
「それはあなたにとっての普通じゃないか」
黒狐が反論するもやはり無視される。
「2つ。竜は知能だけでなく目も鼻もいい。近くでいたあなた方が無事でいられる保証はない」
「運よく見つからなかっただけですよ」
「嘘を重ねない方がいい。竜の嗅覚は地下室にいても気付かれるほどだ。バレない道理はない」
そんな黒騎士の言葉に姉妹は面倒そうに聞いていた。
「そして最後に。あなた方の特徴は各国を騒がせている指名手配犯に類似しているという点」
「3つじゃないか」
「お姉ちゃん、あれは突っ込み待ちって奴だよ」
「そうだったのか。失敬」
彼女達の皮肉にも一切動じておらず、懐の鞘から剣を抜いた。禍々しい邪気を帯びた漆黒の剣が姿を見せる。
刹那。
黒騎士が姿を消すや否、彼女達を抜き去りその後に残影と剣線が綺麗に残った。剣線は姉妹の喉元を通り、1秒も経たぬ間に赤色の飛沫が上がるもそれも一瞬の間だった。彼女達は一切の傷を受けずに呆れている。
「こんな無防備な女の子を斬るって騎士の教育係はどうなってるの?」
「教育なんて名ばかりの洗脳でしょ。所詮は斬りたがりの狂人よ」
「人間って本当に殺しの専門家だよね」
黒騎士は彼女達の傷がものの一瞬で完治したのを見てフッと鼻で笑った。今までこの先制で相手を仕留められなかった試しがなかったからだ。
また対象が例の指名手配の人物であるという確証も得たのでこのまま見逃す理由もなくなる。黒騎士の男は剣を両手で構えて右足を前に出した。
「ならばこれは見切れるか?」
再び消えると連続攻撃が襲い掛かり、そのどれもが急所を狙っていた。だが2人は逃げるでも抵抗するでもなく、ただカカシのように立つだけ。斬られる度に血が流れるがその度に傷は治っている。
斬撃が止んだのは丁度1分が経過したころだった。黒騎士の男は離れた場所に戻って息を整える。ダメージは入っているはずなのにまるで手応えがない。まるで死人を斬っている気分だった。
それと同時に手に違和感を覚えた。僅かに視線を送ると手甲の一部が溶かされてしまっていた。それには彼も驚く。反撃を受けた形跡もなく、おまけに彼の着ている鎧は眠っていたギルガネスの鱗を少しずつ削って10年かけて造った代物である。それが今まで錆びたのも傷を負った試しもなかった。
剣も確認したがそちらは無傷だった。それも同様に竜の鱗から造った一品である。
「流石は警戒レベル7と言った所か。本気で行こう」
「最初から本気出せよ」
「お姉ちゃん分かってないね。最初から本気出して通用しなかったら可哀想じゃん。人間ってプライドの塊でしょ」
「それもそうだったな」
雑談してる間に黒騎士は深呼吸をして剣を鞘に納める。腰を低くして右手を柄に添えて彼は言った。
「邪竜一閃」
言い終えた頃には黒騎士の男は最初の先制攻撃と同じく抜き去っていた。だが剣線は紫の邪悪な蛇を催したオーラとなって襲い掛かる。蛇が対象を喰らい尽くす如く四肢を千切り、喉元を噛み砕き、最後に2人を飲み込んだ。
ブシャッと血溜まりだけが地面に残って彼女達の存在が霧散する。いや、そう感じたのは一瞬だけ。不意に木陰から2つの気配がして黒騎士が視線が送った。そこには平然と歩く白猫と黒狐がいる。
今までにない感覚が黒騎士を襲う。どんな強者も斬り続ければいつかは倒せるという自負があった。だが目の前のこの2人に対して何が終わりなのか全く見出せない。
そして、黒騎士の男が考えている間に全身の鎧が全て灰となり消え去った。甲冑の中には強面の屈強な年配の男性が入っていて、残されたのは竜の剣のみ。
本来、彼は騎士の教えの元ここで撤退すべきだった。だが全てのプライドを傷付けられて理性を失くし何の策もなく斬りかかったのである。
だがそれも無意味に終わる。黒狐の首に剣が触れる前に灰となって消失したからだ。
男は何もない虚空に腕を下ろすだけに終わった。
「馬鹿な。世界に10といない鍛冶師が造った特注品だぞ。それをいともたやすく」
「それはあんたにとっての能書きでしょ。私にとっては違った」
そんな皮肉が今更になって男の胸に響く。自分が積み重ねて来たものがまるで通用しない。
騎士としての名誉も、100の猛獣を狩った栄誉も、目の前の少女を倒すには不十分すぎた。
男はぐっと拳を握る。彼に残された武器はそれしかない。だが最高峰と呼ばれた剣で仕留められず、それで勝てると思うほど彼は馬鹿ではなかった。くるりと背を向けて逃げるように歩き出す。
「化物め」
それは独り言に近かった。何の他意も意味もない純粋な感想。けれど、それは彼女達の前でもっともしてはならない行動の1つ。
「おい、待てよ」
それは白猫の声だった。いつもの朗らかで愛想のいい口調とは打って変わってドスのある低い声。彼女は小走りになって男の肩を掴んだ。それは華奢な女子とは思えない握力で男が小さな悲鳴を上げる。
「勝手な憶測で斬りかかって、勝手に盛り上がって、それで駄目だったから嫌味言って立ち去ろうとして。こっちは何も手出ししてねーのに、化物はどっちだよ!」
白猫の手に込める力は増し続けてバキバキと骨が砕ける音がする。男は激痛のあまりその場に崩れるが、それでも彼女は手を離してくれない。
「いつもそうだ! こっちからは何もしてねーのに、テメーらが勝手に決め付けて、勝手に襲って来やがる! どうして放ってくれねーんだよ!」
「あががが、痛い痛い痛い!」
「こちとら好きでこうなったんじゃねーよ! 産まれた時から親もいなくて利用されるだけの人生、テメーに分かるのか!」
憤怒、激昂、激怒。温厚な白猫は自分を抑える気もなく、目の前の男を殺そうとしている。
そんな妹を見かねてか黒狐が彼女の肩に手を置いた。
「妹。それくらいにしておきなさい。その人は気絶しています」
姉のいつもとは違う丁寧な言葉に彼女も我に返って手を離した。男は泡を吹いて倒れている。
「お姉ちゃん、ごめんなさい。わたし」
「謝れるなら正気みたいね。ならもう大丈夫。私は気にしてないよ。ただ、そんなつまらない男のせいであなたの手が汚れる方が一生償っても償いきれない」
「・・・うん。どうしても許せなくて」
「お姉ちゃんは知ってるから大丈夫。世界が敵でも私達はずっと一緒よ」
黒狐は妹の肩を抱いて森の中へと歩いて行く。本当は麓の街へ進むつもりだったが気が乗らなくなった上、今の白猫に人を見せるべきでないと判断したからだ。
遠くから多くの兵士の声がしたが彼女達に気付く者はいなかった。