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無機質な音が大きくなり、衾を頭までかぶり背を向ける。間断なく打ち付けられていた音は突然に止み、抑揚のある音になった。
「いつまでお眠りになるつもりですか?」
それが声だと気が付くのに時間を要した。その時間も待ちきれなかったのか、私の体はゆっさゆっさと揺さぶられた。
硬くなり、張り付いたような重たい身体を起こしてばあばの肩越しに、眠っているラヴィヴェルを見た。妙案。
「今日は私じゃないわよ?ばあばの後ろで寝息を立てているのがニウルよ」
一瞥する隙を見計らい、再び枕に頭を預けた。
「嘘を仰るとはなんと、まあ。呆れて言葉もございません。ラヴィヴェル様はそんなこと言いませんよ。それにラヴィヴェル様は寝坊をする人ではありません。あなたでは物真似すらできませんよ。今までどちらかが続けて起きることはありませんでしたし」
「よくもまあ、朝からそんなに喋れるわね」
ばあばは鼻をスンと鳴らせつかつかどかどかと部屋から出ていった。扉が閉まるのを見届けてから、緩慢だが起き上がり、隣のベッドに腰を掛けた。
お尻を吸収され、バランスを崩してしまった。勢いよく後頭部がラヴィヴェルのお腹に下された。が、びくりともぴくりともしなかった。起きる気配はない。
痛かったであろうお腹をさすりながら、
「相も変わらずいい子なんだね。どっちがお姉ちゃんか分からないね。私もしっかりしないとね」
耳元で挨拶を済ましてドレッサーに向かう。
上から二番目、下から二番目の抽斗を開け、一番上に置かれた手紙を取り出した。細く薄くそよ風のような文字が吹き抜ける。
その風は次第に旋毛を巻き、私の胸を吹き荒んだ。様々な感情と思いがとぐろを巻き、大きくなるのを感じた。
ネグリジェのまま部屋を飛び出し、朝食が始まる前の食堂に行けば、驚いて目をひん剥いたお父様は区切るような瞬きをし、上から下へとその都度に視線をずらしている。
「なんだその恰好は?今日はニウルだな」
「そうよ、ニウルよ。そんなことはどうでもいいの。お父様ったら、言う言うと言いながらラヴィヴェルに何も言ってないんじゃないの?」
先程とは違い、双眸からの情報を遮断するかの如く固く閉ざし、強く目を瞑っている。
その分かりやすさに微笑が浮かぶのが自分でも分かった。返事を待たずして自室に戻り、ネグリジェを着替えてから再び食堂へ行った。
食器類が片付けられ、返事の催促を始めた。既に終わった話と思っていたのだろう、お父様は置いたばかりのカップをもう一度口元へ運んでいた。言葉を発することを拒むかのように。
凝と視線を外さずにお父様を見続ける。カップを置こうとしては止め、縁を食んだまま上目でこちらを見ては、中身がなくなったはずのカップを仰ぐ。その繰り返しに堪えきれなくなり、後ろにいるばあばを振り向き、ノーフプが来たら帰らせるようにとお父様に聞こえる声量で言った。
当てつけに違いない上に、如何にも子供らしい態度に自分でも嫌気が差した。それでも、妹のためなら致し方がないのだ。あんな手紙を見せられたのだから。
定めし、彼女はお父様が言い淀んでしまう内容を聞かされていないのだろう。私には話し、彼女には話さない理由は考えても一つ二つ思いついてしまう。
一つ目は皆が口々にぐちぐちと私に向けて言うことだ。ラヴィヴェル様は。ラヴィヴェル様なら。ラヴィヴェル様とは。私の話でも彼女は登場し、彼女らしさとでも言うべきか、それらを滔々と語られる。ラヴィヴェルとはこの国一番の宝物なのだ。
二つ目は情勢故の後ろめたさだ。平和ならばおめでたいこととして、国を挙げて祝祭が行われるはずなのだが……。だが、衷心から祝福できる人は何人いるのだろうかと思われる。
食堂を出ようとしたばあばを呼び止め、漸うお父様は口を開いた。
「明日には言うよ」「それはこの前も聞いたわ」「今回は本当に言うつもりだ」「それもこの前に聞いたけど」「分かってくれ。事が事なんだ」「分かってるわよ。事が事だから早く言わないといけないでしょ」「お前には関係のないことだ」
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定型な会話、やり取りには慣れていたつもりでいたのだが、新たな突き放される言葉に絶句するしかなかった。私たちは道具だと言っていることと変わりないそれをラヴィヴェルに聞かれなくて良かったと安堵した。
呼び止められたばあばに念を押してから、食堂を立ち去った。投げかけられる声を重たい扉で遮って。
見間違いだと願いながら何度目かのラヴィヴェルからの手紙を読んでいると、扉をノックされ、手紙を抽斗に隠してから返事をした。
お父様に言いつけられたのか、心配をして来てくれたのか、ばあばは朝方とは違う朗らかな表情をしていた。
「ニウル様、ノーフプさんの工房に断りの使いを出しておきましたよ。旦那様は不服のようでしたけど」
「ありがとう。久々に街に出てみない?」
扉を支えていた右手を離し、室内にまで入ってき、人差し指を口元に立てた。
顔を近づけ、声を潜ませ、霧散させる。私は不承不承とだが頷き、椅子にふんぞり返った。それならばと、使いを呼び止めさせようとも考えたが、すぐに思い直した。これは私なりのお父様に対する訴えなのだ。
言いつけを受け入れたのを見届けて、ばあばは安心したように出ていった。
寝息が静寂を知らせる。私は一番目の抽斗から新しい紙を取り出し、ペンを握って唸った。書くことがない。然りとて、お父様よりも先に知らせることは憚られ、一旦横になることにした。
お腹が満たされていたせいか、いつの間にか眠っていたようだ。起き上がって皺になった服を優しく撫で、鐘が鳴ったのか分からないので階下の大広間に行くことにした。
螺旋階段を下り、細長い廊下を抜けるとお父様が居た。その姿を見つけるや否や、踏み出した足に力を込め、後ろに蹴り上げた。慣れない動きが祟り、膝の辺りから乾いた音が鳴った。
廊下と大広間の境目に身を隠し、隠れる理由は何だろうと考えた。朝の態度を反省し、申し訳ないと思っているのも確かだが、その程度のことは日常茶飯事であり、さほど理由にはならない。
思うに、お父様より頭一つ、いや、二つほど背の高い見慣れない男が視界に入ったからだ。街に溢れるほどの革鎧を着ているのを見る限り、身分は高く見えない。だのに、一国の主であるお父様と親しそうに話している。
どこの誰で何者なのだ。お父様の頭の向こうでちらちらちらつき、きらきらきらめいているのは徽章に違いない。紋様が見えそうで、見えない、後少しで見えそうで、やはり見えない。あと一歩。
迂闊だった。革鎧の男の会釈にお父様は振り向き、我知らず、大広間に出ていた私を確認して、野太い声で呼んだ。お嬢様然としゃなりしゃなりと歩を進め、お父様の少し後ろでお辞儀をした。鍵の紋章の男に。
イェクザ・ドゥロフの人間だ。徽章を付けることができる人間は限られた人だと聞いたことがあり、だとすると、目の前の男は見た目に反し、身分が高いと言うことだった。
「おいっ。体調は良くなったのか?それならこっちに来てエヴァーブさんに挨拶しなさい」居眠りをしていた私を見て、ばあばが気を遣ってくれたのだろうか。然有らぬ態でエヴァーブと呼ばれる人に慇懃な挨拶をした。
慣習的な自己紹介が終わると、お父様は詳らかな紹介をした。私はそれを聞かされても別段驚きはしなかった。目の前の男が私の結婚相手だと聞かされても。私はラヴィヴェルと違い結婚の話は聞いていたから。
お父様は紹介を終え、中断された会話を続けた。
「そんな謙遜はしなくてもいい。話によると、君が戦場に赴けば敵兵は戦慄き大地が裂けると聞いたことがあるぞ」
「はっはっは。僕が強いのは風聞の中だけですよ。そろそろ行かなければいけません。突然の訪問誠に申し訳ありませんでした」
「いつでも来てくれても構わんよ。では、娘の為にも命を大切に」
「まあ、お父様ったら。戦争に向かわれるお方に対してその言い草はなんですか」
「ニウル様、怒らないであげてください。お父様はあなたが大切なんですよ」
「良いことを言ってくれるじゃないか」
「では、これで失礼します」
門まで見送られることを断り、外で待たしていた従者を侍らせて行く後姿を扉の前で見届け、姿が見えなくなって長嘆息をした。鼻梁が細く高く、それに比して影を宿らせるほどの窪んだ眼、影の奥には確固たる光が窺え、私は圧倒されたのだ。息が詰まるほどに。
一足先に大広間に戻ったお父様に入るように促されたが、庭を歩くことにした。二つの影が足元をすり抜け、噴水の縁に降りてきた。舐める程度に水面に顔を近づけて慌ただしくも、南西のイェクザ・ドゥロフの方へ飛び立った。
心を映し出しているかのような、私の顔を揺蕩わせる水面から目を逸らし、二羽の鳥を恨めしく思った。私自身、定かでないのだ。何に対して心が揺さぶられているのだろう。
風が草木をも揺らし、二日前の光景と違うことに遅れながらも気づいた。ラヴィヴェルの手紙に書いていた通り、極彩色が視界に広がっている。教えてあげよう、それぞれが彩り作り上げているのだから、極彩色は色に違いないのだと。
遠くから鐘の音が聞こえ、お城に戻った。
親愛なるラヴィヴェル
風が髪を靡かせ、城の旗を翻し、草花を揺らし、幾つもの木に生命を宿らせるとき、青々とした香りがそこここに満ち満ちて、何度も深呼吸をしたわ。この世の空気を独り占めするみたいにね。
あなたは子供のころから妖精が好きだったけど、まさしく私は森に住む妖精になった気分だったわ。あなたもやってみるといいわ。
意に沿わないことが起こったときにやってみることね。全てを忘れさせてくれるから。でも注意すること。僅かな時間しか忘れさせてくれないの。
現に私がそうなんだもん。自由に縛られるのも嫌だとは思っていたけど、自由がないのはもっと嫌だって今になって気付いたわ。
ダメダメ。何だかあなたには暗い話ばかり聞かせてるような気がしちゃう。
そう言えば、極彩色が色なのか聞いてたわよね。
あなたが見ていた光景に入れたのかもしれない。
時空を超越した共有なのかもしれない。そう思った。
だって、沢山の彩りが織りなす庭は、本当に極彩色に見えたの。そして、あなたの声を聞いたような、聞こえたような、蘇ったような。
きっとあなたは言ったはず。
虹の中に入ったみたいだね。って。
話が逸れちゃったけど、極彩色は立派な色だよ。
それじゃ、おやすみ、おはよう。