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親愛なるラヴィヴェル
しとどに濡れた木々や花はあなたが目を覚ますころには生気を取り戻したように、鮮やかな色で庭を彩るでしょうね。一緒に見ることができないことは分かっているつもりなのに、悲しいわ。正に窓の向こうに窺える暗さが胸に湧き起るの。これから先も、あなたと共有できるものが少ないと思うとやりきれないわ。
ごめんなさい。なんだか陰鬱になってしまって。これも隣国の戦争が悪いわ。いつまで、イェクザ・ドゥロフとノイツ・プレは人を殺め続けるのかしら。誰も先にある凄惨な不幸の二重苦に気付かないのだろうか……。って私は思っちゃうわ。
でも、楽観できないのも事実なのよね。いつ私たちが巻き込まれるか分からないもの。私はあなたが心配なの、誰にでも優しくて笑顔を絶やさない、そうして種のように笑顔を他の人達にも分け与えているあなたが。
いつ、どこで絆されて籠絡されるか分からないから合言葉を作ろうと思うんだけど。私たちは「同じ」が少ないから、お互いのことをあまり知ることができない。それ故に、生命線とも言える筆談を悪用されたら私たちの国、ティミル・エムツが滅ばされるかもしれないからと思って…。
いろいろ考えてみたんだけど何も思いつかなかったわ。だから、世に溢れている色を必ず入れることにしない?例えば、今日は灰色の空だった。とか、簡単でいいと思わない?思うでしょ。
これから、色がない手紙は誰かが成りすましていると思うこと。いいわね?
それじゃ、おやすみなさい、おはよう。
瞼ともう一つ、天蓋が朗らかな陽光を遮っている。半身を起こせば、木漏れ日のように一筋の光が顔に当たり、体温とは違う、包み込んでくれる温かさは身体中を駆け巡り、漸く朝を知らせてくれた。
目を瞑ってしまえば鏡を使っても自身の顔を見られないことは当然なのに、隣のベッドには私の寝顔がある。大声を出しても、体を揺すっても目を覚ますことはないのでニウルの眠るベッドに手をついて身を乗り出すと、深く沈んだ彼女の吸い込もうとする白い頬に口を当てた。
「おはよう、おやすみなさい」
普段と変わらない心地よいリズムの寝息は、私が起きていることを証明してくれた。
階下からは既に一日を始めている人々の慌ただしい足音が聞こえ、急かされるようにドレッサーの前に置かれた椅子に座りスタンドライトの灯りを点した。上から二番目の、下から二番目の抽斗を開け、ニウルの手紙をライトの下に置いた。
蕾に似た丸くて愛らしい文字だけでしか彼女を知るすべはないのだが、日毎に彼女の内面の輪郭が形作られ、文字を滑らせるこの時間が楽しみであった。最早それは会話と言っても過言ではないのかもしれない。
手紙に書かれていることに相槌を打ち、息吹の主旋律を奏でる窓の向こうに咲く花たちから視線を戻す。
「本当に綺麗だよ。私は記憶に焼き付けたから、ニウルも同じ記憶を焼き付けてくれたら一緒に見たことと一緒だよ」
彼女が思い、書いている「同じ」とは何だろうかと、同じ眉、同じ目、同じ鼻、同じ口をしている彼女の方を見遣っても分からなかった。
ドアノッカーが打ち鳴らされる音が部屋中に響き、起床していることを知らせた。ガチャリとドアノブが回り、大きく開けた扉の隙間から太り肉のばあばが入ってき、鏡に映る結わえていないざんばら髪をして、涎の痕が残っている私を見て目を瞠っている。
扉が閉まる厳かな音に続いて、嘆息する声が聞こえた。
「ニウルさん、朝食の準備が整ってますよ。急いでください」
ばあばは年のせいかこの頃、私とニウルの名前をよく間違えることに、抗えない寂しさと侘しさが込み上げる。
口元に表れかけたそれらを隠そうと、不器用に釣り上げている私が目の前にいて、自然と表情が綻んだ。
「私はラヴィヴェルよ、ばあば。急いで支度をするわね」
「あらっ、ごめんなさいね。宝玉を見極める審美眼を持っていなくて」
ばあばのいつもと変わらぬ軽口は、鏡越しに気兼ねなく笑い合えるものだった。
私の手から削られたような細い指で奪った櫛で髪を梳かし、過ぎ去った年月を教えてくれる皺だらけの手で慣れたように三つ編みにしてくれた。お礼を聞く前に退出したばあばの後を追おうと、急いでドレスに着替えた。
螺旋階段を下りて行き、食堂へ向かう途中にばあばの後姿を確認して、小走りに駆け寄る。
「先ほどはありがとう」
敷き詰められた絨毯に足音は吸収され気付かなかったのか、突然になった声に身体を跳ねらせて振り向いたばあばは、相も変わらなかった。
「お礼を言われなくなったときは、私がこのお城から追い出されるときですから」
食堂の重たい扉に体重を預け、開けてくれているばあばの横を通り抜け、朝食の準備が整っている室内に入った。
お父様の次に後ろに掲げられているお母様の肖像画へ挨拶をし、引かれている椅子へと腰を下ろした。と、同時にお父様は待ちかねたように、「いただこうか」とパンをちぎり始める。
指先から仄かな熱が伝わり、焼きたてであるパンをちぎれば香ばしい匂いを放ち、お腹の辺りがうねるのを感じた。一口また一口、休む間もなくまた一口。気付けばお皿に乗っていたパンはなくなり、庭で採れたハーブを使って作られたお茶で口中を潤す。ちびちびとそれを飲んでいると不器用な咳払いが聞こえ、カップから口を離してお父様に視線を向けた。
「うおほん。今日もノーフプさんが肖像画を描きに来るから準備をしているように。教会の鐘が鳴る頃に来るそうだぞ」
「なぜお父様は一介の徒弟であるノーフプさんのことをお気に召してるんですか?」
「あれは大成するからだ」
ノーフプの師匠が描いたらしい、骨ばっていない柔らかい線のお母様は素人目で見ても、魂が還る場所には申し分ないように思えるのに。
しかし、私の視線を辿り振り仰いだお父様は申し分があるようで、早くにノーフプを知っていればと漏らして席を立ち、食堂を後にした。重たい扉は悔しさを表しているが如く大きな音を立てて閉まり、カップのお茶をも揺らしていた。
カップの残りを一口で飲み下し、大広間の階段を上がってすぐの部屋へ向かう。その部屋は油絵具の匂いが立ち込めており、森閑としていて、中庭を見下ろすことができる出窓から形取られた光が一脚の椅子を照らしている。幻想的な空間に思われるほど。そう言えばと、隣国で語り継がれている湖を思い出し、戦争が終わり平和と呼ばれる時が来たら行けたらいいなと思う。
片膝を乗せ、身を乗り出して庭の手入れをしているじいじを眺める。丹精を尽くされた庭は一種の芸術作品とでも言おうか、いつまでも見続けることができる。背後から老朽した蝶番が悲鳴を上げ、短い声が聞こえた。
教会の鐘は鳴っていないはずで、聞きそびれたこともないはずだ。じいじは作業の手を止めていないのだから。ノーフプも同じことを思っているのだろう、短い声を上げたまま、閉じられていない口を見るだけで分かる。
結果的にノックもせずに入ってきたノーフプは肩口を払い、身だしなみを整える風を装い、改まった挨拶をする。
「鐘がなる前にいらっしゃると言うことは、今日はラヴィヴェル様ですね」
ノエルも彼に肖像画を描いてもらっていることは、聞いており知っている。そうして、常套句になりつつある言葉を聞かされ続け、彼女の性格も知ることができた。文字ではしっかり者のお姉さんなのに、実は物臭な人物であるのだと。
嬉しさと悲しさが込み上げてくる。知れる嬉しさと知ることができない悲しさ。
隅に置かれたスツールとイーゼルを定位置に置いた彼は、煌めく埃を残して部屋を後にした。雪と呼ばれるものは、今目にしている物よりも綺麗なのだろうか。私は自身の考えを一笑に付し、埃よりは綺麗だと確信した。
粉雪の説明が記入されていた次のページには吹雪と呼ばれている自然現象もあると書かれていたことを、カンヴァスを持ったノーフプが部屋に入ってきたときに思い出した。私は大きな息を向かってくる埃に吹いてから、煩わせていることについて謝った。
一瞬間、宙を見上げて考える素振りを見せ、ハッとイーゼルの上に置いたカンヴァスと私の左にある扉とに視線を行きつ戻りつさせて合点がいったようだった。
数日前から物置に使われている隣の部屋に通ずる扉が開かなくなり、一旦廊下に出て、お父様の大きな肖像画の前を通り過ぎたらある部屋の扉からではないと行かれなくなったのだ。
とどのつまり、遠回りをしなければならないことを謝り、それに気づいた彼はふやけたように目と口を柔和な線にして、
「いえいえ、そんなことは大したことではありませんよ」
私の目を見て言うのだった。
私の知らない誰かが内側の奥の奥の方から何かを告げようとして、鼓動が大きくなるのを感じて、その何かが言葉の途中にも拘わらず俯かせる。
心証が悪いなと思うけれど、顔を上げることができない。これが初めてではないのだが、一向に正体は分からず、慣れることもない。かちゃかちゃと聞き慣れた筆とパレットが取り出される音が聞こえ始めて漸く顔を上げるのも常習になろうとしていた。
彼が全ての準備を整え終えると、頭の上下が井戸のような関係になり反対になる。
「あの……」
頭頂部に投げかけられた言葉にどぎまぎしながら顔を上げてみれば、胸の辺りを人差し指でとんとんしていた。
そんなはずはない、あるわけがない、あってはならない、思えば思うほど鼓動が大きくなるのが自分でも分かる。次第に滾るように上気して、いたたまれなくなる。しどろもどろする私にもう一度声が掛かる。
「あの……」
続きを聞いてしまえば、部屋から飛び出してしまいそうで、言葉を遮った。
「ごめんなさい。意識をすればするほど大きくなるんです。気にしないでください」
とくん、どくん、どきん。どっどっどっどっどっどっど。私は部屋を飛び出した。
恥ずかしい、恥ずかし、恥ずかしい、息も絶え絶え、自室のドレッサーに体重を預け、項垂れる。勘違いが言葉を先走らせ、その言葉が圧し掛かっている。何度も何度も何度も頭を左右に振っても、先のやり取りが離れようとしない。
落とした視線の先にある、一番下の抽斗から引き金となったブローチを取り出して、胸につけようとしたが躊躇われた。位置を確認してつけなければならず、そうするには必然鏡を見なければならない。
現状を目にすることは憚られる。見てしまえば本当に戻ることができなくなってしまいそうで。合わすことができない顔を見たくない。
手に取ったブローチを置き、その場に蹲る。抽斗に額を何度も打ち付け、打ち続ける。上っていた血が突然の衝撃に恐れるように逃げ出し、冷静になれた。血の気が引いたが相応しいかもしれない。我を忘れるほどの浅慮に。
今になれば分かる。どんなに大きく脈打つ鼓動であったとしても、空気を伝って聞こえるはずはなかった。我知らず、ばあばと呟いていた。
今だからわかる。このノックは私が零したばあばを聞きつけて来てくれたわけじゃない。しかし、偶然の産物としても有難かった。
「どうぞ」
聞こえるはずのノブの回る音が聞こえない。私は鏡を意識しながら立ち上がり、扉の方を見た。
開く気配が感じられない。再び声を掛けてみても、やはり開かれることはない。私はおずおずとノブに手を掛け回した。
僅かな隙間から片目を覗かせれば、向こうにも同じように目があった。短い声と共に飛び退き、ばあばでないことに気付いた。廊下に吹き抜ける風が細く、そして平べったくなって部屋に入ってきた。
風によって徐々に開いた扉の先にはノーフプが立っていた。この部屋は知らせていないし、例えノエルが何気なく言い、知っていたとしても来てはいけなかった。お父様ですら入ってはいけない所謂男子禁制の場であるのだ。
お父様の眼鏡に適っているノーフプだとしても、誰かに見られれば肖像画が完成される前に追い出されることは言うまでもない。私は廊下へ顔を覗かせ左右を確認して、彼の手首を掴んで走った。
誰とも会わずに長い廊下を抜け、螺旋階段に差し掛かったところで踊り場にばあばの姿を確認した。角に置かれた花台に、最近買ったと言っていた舶来品らしい花瓶に花を活けていた。
訳が分かっていない顔をしている彼をその場で待機させ、一人で階段を下りて行った。遅れて来るようにと言い聞かせ、点頭したのを見てから。
抜き足差し足忍び足。踊り場まであと三段の所で後ろを振り向けば、縦格子の一本に化けようと両肩を内側に入れ、少しでも細くなろうとしているノーフプを見ることができた。このままではまずい。ばあばが振り向けば。
「きゃっっ!」
振り向いてしまった。私の声に。しかし、その視線は下に向けられていた。痛くもない右の足首を挫いたかのようにさすり、立てるのに立てないふりをする。
下ろした視線を真っ直ぐにしたばあばに肩を借りて漸く立った。自然、私の向いた方にばあばも向く形となったわけだ。
「丁度、レネのじいさんが水やりをしてますから一緒に冷やしてもらいますか?」
「大丈夫よ、このぐらい。あっ、やっぱり冷やそうかしら」
「それなら行きますよ」
ただの水浴びを済まし、大広間の二階のノーフプが待っているであろう部屋に向かった。どうやら誰にも見咎められることなく辿り着けたのだろう、スツールを出窓へ近づけ悠然と座って外を眺めていた。
胸を撫でおろし、全ての原因になったブローチがないことに気付いた。取りに戻ろうと踵を返そうとしたとき、背中に声を掛けられ、
「先程はありがとうございます。何も知らなかったんです。本当にありがとうございます」
忠実忠実しい感謝の言葉にむず痒くなり、逃げた。
衝動としたかったのに行動の理由を突きつけられた感じだった。自分の気持ちから目を背けたい。中断された作業をしているばあばを踊り場で見つけ、言伝を頼んだ。
親愛なるニウル
燦然と輝く星たちと包み込むような光のお月様で例えるならどちらだろうと貴方のことを考えています。私が目を覚ました頃には極彩色の庭が窺われ、そして太陽の強い光に曝されたそれらは、貴方が見ていた雨水のおかげで一層の輝きをしていたわ。貴方が暗い気持ちになるのなら、その度に私は太陽のような力強い光を放ちたいと思えるほどに。
少しだけ貴方に相談したいことがあるの。最初に言っとくけど、私でも呑気な悩みだって分かってるつもりなの。でもね、今はこれしか考えられなくなっているから、大ごとなの。言いたいこと分かってくれる?外に目を向けるためのことなんだと自分では思ってる。
それで相談ってのは、例の徒弟さんのことなんだけど……。私と貴方の肖像画を描いてくれている人が同じ徒弟さんってことは知ってるよね?知ってることを前提とするね。
もしかしたら、好きになったかもしれないの。ノーフプさんのことを。分かってる、身分の違いが故の叶わぬ恋だってこと。でも、禁断の恋の題材の本なんて数多とあって、心打たれてる人が大勢いるんだよ。でも話によると発禁されるらしいから、駄目ってことなんだよね。
別にね、言葉が欲しいわけじゃなくて私の気持ちを聞いて欲しかっただけなの。いいえ、違うかもしれないわ。言葉にすることで、自分に正直になりたかったのかもしれない。でないと、今日みたいに仮病を使いそうなんだもん。
貴方は私の心配をしていてくれてるのに、私は私のことばかりでごめんなさい。
今日はこのぐらいにしとくわね。おやすみ、そしておはよう。
追伸 極彩色って色に入るのかしら?