第2話 ホワイトアウト 下
男の腕が捻り上げられて握力を失った手からナイフが床に落ち、よろけた所で鳩尾にひざ蹴りを喰らい、男はそのまま崩れ落ちた。
既にこの室内の半数以上を倒した青年は抜かりなく床に転がるナイフを拾い上げて折り畳むと懐に仕舞った。
十人近く倒しているようだが呼吸ひとつ乱さずに男は部屋の奥、鳴鳥が居る場所へと近づいた。
「……く、久城センパイ?」
「無事で何よりだよ。だけど――――」
久城と呼ばれたプラチナブロンドで蒼い瞳の美青年は、鳴鳥の安全を確認すると安堵したようにホッとため息を漏らして顔を綻ばせた。しかし彼はすぐに険しい表情に豹変する。
彼の視線は彼女の胸元と彼女の上に跨る人物に突き刺さっていた。
俺はまだ何もしてないという言い訳を最後まで聞く耳持たず、久城は男の頭部を鷲掴みにして持ち上げる。ミシミシと音が鳴り始め、男は呻き声を上げて手を宙にさまよわせ助けを求めてもがく。
苦悶に満ちた表情とは対照的に久城は冷ややかな様子だった。
まるで汚物を見るかのような冷たい目で彼はゴミを投げ捨てるように男を放り投げた。
「大体の事情は君の友人から聞いたよ。どこもケガはないかい?」
「あ……はい、平気です」
再び優しい笑みを浮かべた久城は自分が羽織っていたジャケットを脱ぎ、露わになっていた胸元を隠すように鳴鳥へと手渡した。
「あの……、これ……」
「そのままだと表には出られないよね? とりあえず着といた方が良いと思うよ」
「す、すみません……。なにから何までありがとうございます」
着替え姿を見ないように久城は背を向けながら言った。
鳴鳥は少しぶかぶかなジャケットを手早く袖に通して前をボタンで留める。
彼女が身なりを整えて立ち上がると同時に、警官達が駆けつけて伸びて床に転がっている男達を拘束した。
鳴鳥への警察の事情聴取は長引くことなくあっさりと済んだ。
不良達のグループは余罪が山ほどあるようで、その調査に時間や人手がとられる事、高校生である彼女を長時間拘束する訳にもいかない事、未遂とはいえ強姦されかけたが、恨みは買いたくないと言い訴えはしないと決めた為、後日改めてという形に落ち着いた。
署を出ると先に聴取を終えた留美と久城と男子学生が待っていた。
「まったくもう! 一時はどうなる事かと思ったよ!」
「ごめんなさい、留美ちゃん。この通り、反省していますから許して下さい!」
鳴鳥は手を合わせてへこへこと頭を下げて謝るが、今日という今日こそは許さないというオーラを出して腕を組んでいる留美。
そんな怒り心頭の彼女に鳴鳥は耳打ちをする。
山盛りスイーツが食べ放題、ケーキバイキング一回奢りでどうにか許して貰えたようだ。
ケーキより甘い裁量に、今後も彼女の気苦労が絶えないことが容易に想像できる。
「あのっ……!」
「ん? ああ、貴方も無事だったのね、よかった」
男子学生がおずおずと声を掛けてきた。
彼は深く頭を下げると助けて貰った事への感謝の言葉を述べる。しかし鳴鳥はその言葉を素直に受け取れなかった。
「……私は結局何も出来なかった。こうしてみんな無事だったのは久城センパイのお陰です。お礼なら私じゃなくて久城センパイに言って下さい」
「いえ、最終的にはそうですけど、最初に貴女があの場に来てくれなかったら僕は今頃――――。とにかくありがとうございました……!」
改めて礼をすると、男子学生は久城に向き直り同じように頭を下げて感謝の言葉を述べた。
同じように見えるのは形だけであって、彼は久城と目を合わせない。それは決して礼を欠いている訳ではなく、あの光景を目の当たりにした彼は怯えているからであった。
正義であれど、行き過ぎた力は恐怖を感じさせるのだと。もう一度皆に見えるように一礼をすると男子学生はそそくさと帰路についた。
「私からも、危ない所を助けていただきありがとうございました」
「いや、気にする事はないよ。君は『あの子』の友人だからね。助ける事が出来て嬉しいくらいだよ」
「……そんな! なんだか巻き込んで手を煩わせてしまったようで申し訳ないです」
見知った仲のようである鳴鳥と久城。それに気付いた留美は、鳴鳥の肩に手を回して後ろに向かせてこっそりと耳打ちをした。
「ちょっと、どういう事なのよ?! この王子様みたいなイケメンは誰なのよ!」
「王子? ……えっとそう言えば紹介がまだだったね」
問われてはたと気がついた鳴鳥は久城に向き直ると二人の間に立って互いを紹介した。
「久城センパイ。こちらが私と同じ高校に通っている友人の遠藤留美ちゃんです」
「先程は助けていただきありがとうございました……!」
「いや、当然の事をしたまでだよ」
「いえいえ! 久城さんに出会わなかったら今頃どうなっていた事か……。本当にありがとうございます!」
聞くところによると、助けを呼びに表通りに向かって駆け出した留美は、路地裏を脱け出した所で偶然にも久城とぶつかった。
そこで気が動転していた彼女は藁をもすがる思いで通りすがりの彼に助けを求めたそうだ。
久城は再度警察に通報することを指示し、自分は二人を助けに行くと言って鳴鳥達の元へ向かって行ったらしい。
「えっと、こちらは久城蔵人さん。私の……友達のお兄さんで2つ年上の大学生です」
「友達の? それって私も知っている人? でもこんなカッコイイお兄さんが居そうな子って思いつかないんだけど?」
「それは……えっと……、その……」
「――――日も暮れているしそろそろお家に帰った方が良いんじゃないかな? あまり遅くなると親御さんも心配するだろう」
久城にそう言われて二人は気がつく。いつのまにか日はとっくに沈み、街灯も明かりを灯している。
何やら根掘り葉掘り聞きたそうな留美を鳴鳥はどうにか言いくるめると、留美の帰路である駅へと向かった。
別れ際に家に着いたら連絡するからねと念を押され、了承すると彼女はしぶしぶと電車に乗り込んだ。
今晩は夜更かしせずに寝られるだろうか……。そう考えた鳴鳥はため息一つと肩を落とした。
久城に家まで送ると言われて二人は今、並んで歩いている。
久城の自宅は鳴鳥の帰宅路の先、近所であるから断る理由もなかった。
すれ違う人、主に女性が振り返り見惚れる位の美男子である彼と並んで鳴鳥は帰宅する。
普通の女子なら喜ばしい事なのだが鳴鳥は居心地が悪そうであった。それは彼と釣り合いが取れていないとか、周りの視線が気になるとかいう単純な理由ではない。
なんとなく気まずい雰囲気を払拭しようと鳴鳥は話題を振る事にした。
「そ、そういえばセンパイ、こちらに戻って来られていたんですね」
「ああ、もうすぐ由利亜の命日、だからね」
「――――! ……そう、でしたね」
しまった。地雷を、触れてはいけない事をよりにもよってこのタイミングで、と鳴鳥はあわあわと内心慌てた。
しかし彼女の心配をよそに久城は怒る事もなければ悲しむ事もない。その様子にホッと胸を撫で下ろすと今度は彼の方から話題を振った。
「ところで聞きたい事があるんだけれど」
「は、はい。なんでしょうか?」
「いつも今日みたいな事をしているのかい?」
「えっと……、その…………」
咎めるような口調ではなく、至って普通の表情で疑問を投げかけた久城に対して鳴鳥はしどろもどろになりながら答えた。
いつもはこんなヘマはしない、人様の迷惑になるような事や、公共のルールを破るような事はしていないと。
それらは言い訳であったが彼は一切責める事はなかった。
「君の行動を僕が制限する権利はない。ただ気をつけて欲しいんだ」
「……はい」
「君は女の子だしね。このまま同じような事をしていれば今日以上に危険な目に遭うかもしれない」
「……そう、ですね」
久城は穏やかな表情で諭すように言い聞かせる。その優しさは鳴鳥にとってどうにも居た堪れない気持ちにさせるものだった。
「(こんなに優しくして貰ったり、心配して貰う権利なんて私にはないのに……。助けて貰う価値すらないのに……)」
罪悪感に押しつぶされてしまいそうな鳴鳥。しかし彼女はそんな気持ちをおくびにも出さず、久城の忠告と気遣いを受け取る素振りを見せた。
話はこれで波風立たずに済むかと思われたが、今まで柔らかな表情を浮かべていた久城の顔が少し険しい物へと変わった。
「そういえば、君を襲った奴らを訴えないと言ったそうだね」
「え? は、はい。彼らも今頃反省しているでしょうし、私も何ともなかったですし」
「……君は優しいね。相も変わらず」
ため息をついた久城は歩みを止めた。つられて立ち止った鳴鳥は振り返る。そこには先程の柔らかい表情が嘘だったかのような、冷ややかで冷酷な瞳の彼が居た。
それは鳴鳥がこれまでで知っている彼の表情ではなく、初めて見るものであり、彼女にとっては信じがたいものである。
驚きを隠せないで、どう声を掛けるべきか言葉を詰まらせて考えあぐねていると、彼はせせら笑いながら続けて言った。
「彼らが反省? そんな殊勝であるだろうか? ……僕はそう思わない。ああいった輩は己の過ちにすら気付けずに同じ事を、罪を何度も重ねる筈だ」
「そうと決まった訳では――――」
「……まぁ訴えた所でたいした罪にはならないだろうしな。この国は加害者に甘く被害者には優しくないからね」
自嘲気味に言い放つその言葉に鳴鳥は気付く、久城は実体験を基に話をしているのだと言う事に。
自分如きではどうにもならない、無力感に苦汁を嘗めさせられた時の事を。
あの出来事から一年は経った。けれども彼の無念は晴らされておらず、時が経てば解決するなどと言われる事もあるが、彼の場合はいまだに根深い後悔と遺恨を心に残していた。
このままでは彼自身の未来が暗い闇に閉ざされてしまう。そう考えた鳴鳥はどうにか日向に、陽のあたる場所へと引き戻そうと言葉を探す。
だがそう簡単には出てこない。安っぽい慰めでは「お前に何がわかるんだ?」と言われかねない。
ここは前向きに、近い未来。今できる事を話題にする事にした。
「あ……被害者と言えばセンパイは将来検察官になる事を目指しているんですよね?」
「ああ、そうだけれど。根本的な社会の仕組みが変わらなければ何をしても無駄かもしれないな。それに、例え僕が検事になれたとしてもできる事は少ない。結局のところ、悪足掻きに過ぎないだろう」
「そんなことないです! センパイは今日だって私を助けてくれました。センパイならきっと多くの人を、被害者の人達を救う事が出来ると思います……!」
鳴鳥の真剣な、嘘偽りない眼差しに込められた必死で切実な想いが届いたのか、久城は「買い被りすぎだ」と言いつつも絆されてしまったようで、固くなっていた表情を崩し、眉を八の字に下げて破顔した。
苦笑いではあるが先程の怖くて近寄りがたい雰囲気は消え去った。そう感じた鳴鳥は嬉しそうに顔を綻ばせる。
すこしだけれど昔の関係に戻れたような、そんな気さえ感じたようだ。
そうこうしている内に二人は鳴鳥の自宅前へと辿り着いた。最初は気が重く、帰宅路も長く感じる程であったが、打ち解けてからは互いの近況などの会話をしていたらあっという間に着いてしまった。
借りたジャケットは後日返す事となった。その日とは二日後であり、由利亜の一周忌の次の日である。
元々鳴鳥は遺族の法事と重ならないようにお墓参りをしようと決めていた。それを久城に伝えると、ならば次の日に自分が車を出すと提案してくれた。
霊園は少々遠方にあるが、電車やバスを使えば問題ない。しかし無下に断るのも気が引けてお言葉に甘える形となる。
二人はこうして後日会う約束を交わして別れた。
「(今日はいろんな事があったなぁ……)」
恐喝を止めて、助けに入ったつもりが逆に捕まって、助けて貰って、一年ぶりに再会を果たして、わだかまりを解いて。
慌ただしかった一日を、門に備え付けてある鉄柵扉を開きながら鳴鳥は思い返した。
制服を一枚ダメにしてしまった事は母親に怒られてしまうだろうが、無鉄砲な行動にはもう慣れている…というより諦めているのだろう。
無事ならばよかったと、特にお咎めなし。逆に助けてくれた久城へのお礼を両親は気にするのだろう。
口煩くて生意気な弟はきっと小馬鹿にしてくるだろうが、それもいつもの事だ。
ふと空を見上げる。今日は空気が澄んでいるのか、都心からさほど遠くない住宅街でも星がいくつか輝いて見える。
「あっ……!」
流れ星がひとつ、瞬いて落ちた。
「(今の、確かに流れ星……だったよね? 珍しいな~……――――)」
見間違えではないかと良く目を凝らして見ていると、突如視界が真っ白になった――――。
久城は鳴鳥を送り届けた後、自宅に向かって歩いていた。角を曲がった先、家はすぐそこであったが、彼はピタリと歩みを止める。
自宅より少し手前の道路にワゴン車が停まっており、横には柄の悪そうな男がけだるそうに座り込んでいた。
男は久城の姿を確認するとニタァと笑いながら立ち上がる。
「やぁ~と帰ってきたか。久城蔵人クン。待ってたんだよ~」
「自宅まで来るとはな……。つくづく救えない連中だ」
「その金髪と青い目で目立たないと思っているのかねぇ? 残念だったな」
男がコンコンと車の窓を叩いて合図をすると、中からぞろぞろと似たり寄ったりな風貌の男達が降りてきた。
男達は分かりやすい殺気を漂わせて久城の周りを包囲するように囲む。
その身なりに、言葉、態度から察するに、先程逮捕された、と言うより久城にぶちのめされた連中の仲間だろう。
彼らには学習能力がないのか、はたまた男のメンツとやらが大事だからか、お礼参りにやってきたようだ。
「覚悟しやがれ、この野郎!!」
「…………やっぱりこの星に価値なんてないな」
「はぁ?! 何言ってやがるテメ――――……っ!」
久城ひとりに対して相手は六人。分は悪くなく、実際今の今まで楽勝で勝てると男達は思っていた。
しかし何やら呟いた久城に一人の男が近づいた瞬間、全員が恐れおののいた。
尋常ではない威圧感。それは彼らの動きを封じ、言葉を失わせた。
「――――そう思うだろう、由利亜」
見渡す限り真っ白な世界。地平線もなく、上を向いても下を見下ろしても白色で全てが満たされている場所。そこに鳴鳥はポツンと佇んでいた。
「ここは……? 疲れて眠っちゃっているのかな? ここは夢の中とか――――」
両手で軽く自分の頬を叩いてみる。すると確かな感触を感じた。
夢の中ではないと証明された訳だが、ならばここは何処なのか。
皆目見当もつかない鳴鳥は、何故こんな所に居るのかこれまでの事を思い出そうとする。
しかしそれは突然降って湧いた声によって阻まれた。
「――――ごめんなさい、貴女を巻き込んでしまって」
「だ、誰ですか?」
優しい声色の女性の声。彼女は何やら謝罪の言葉を述べている。だが声の主の姿はどこにもない。
けして気味の悪い声ではなく、寧ろ安心するような、穏やかな気持ちになれる声だったが、やはり相手が見えないという状況は不安らしく、鳴鳥はキョロキョロと辺りを窺って声の主を捜した。
「貴女ならきっとあの人を……――――を救える」
「救える? ……って一体誰を? と言うより私なんかに何が――――」
「お願い――――もう……時間が――――このまま……だと――――」
所々が聞き取りにくい声。その声は確かに助けを求めている。けれども肝心の誰を助ければいいのかが聞き取れない。詳しく聞こうにも、それは叶わなかった。
先程の視界が真っ白に染まった時とは違い、今度はブラックアウト。眼前が真っ黒に染まった。
「(――――そうだ! あの日は色んな事があった後、家に辿り着いてそれで変な場所で謎の声を聞いて……)」
荒野に佇む鳴鳥はここに至るまでの事を思い出した。しかしそれは今現在何の役にも立たず、手掛かりにもならない情報である。
「これからどうしよう?」と途方に暮れつつも先の事を考えながら一歩前へと踏み出した瞬間、一人の男がこちらに向かって来るのが視界の隅に捉えられた。
矢継ぎ早に何やら話しかけてくる男。ぼさぼさっとしたダークグレーの長髪を後ろで束ね、顎に無精髭を生やした中年男性の手には拳銃らしきものが握られている。
銃口は言わずもがな、鳴鳥へと向けられていた。