エリエとクラウス 3
クラウス様の手はとてもあたたかくて、心が落ち着く。父親以外の人に頭を撫でられた経験はないのだが、このまま身を任せていたい。
あまりの心地よさに瞼を下ろした時、撫でる手が止まった。
――やめてしまうの? そう残念に思うほど、ずっと撫でていてほしかった。
彼は長い息を吐いたあと、「エリエ殿」と呼ぶ。話を聞かなくてはならないと思って、瞼を上げた。クラウス様はいつになく真剣な面持ちでわたしを見下ろした。
「俺はあなたを妹のように思っていると言った」
「ええ。わたしも妹だったらいいなと思いました」
「あなたのその答えを聞いて、ようやく自分の気持ちに気づいた。俺はあなたに近づく虫は踏み潰したくなるし、あなたが他の男に心を許すのを黙って見ていられない。それはあなたを妹だと思っているからじゃないんだ」
「妹ではない?」
「ああ、あなたが妹など考えられない」
だから、わたしを避けたのか。きっと、妹にするのも嫌なのだろう。ここまで嫌われるとは思わなかった。
「わたしはそんなにも嫌われているのでしょうか?」
「違う。俺はエリエ殿を女として見ているから。どうやっても兄妹にはなれない。だから、間違っても『お兄様』と呼ばないでほしい。呼ぶなら『クラウス』と呼んでほしいんだ」
クラウス様から受けた言葉を整理していく。彼はわたしを女として見ていると言った。兄妹になれないとも。それから、『お兄様』よりも『クラウス』と呼んでほしいと言っていた。
「つまり、クラウス様はわたしを……」
「好きだよ」
驚いて顔を見上げると、クラウス様の笑顔が咲いていた。白い歯を見せて目を細める綺麗な笑顔も好きだ。でも、目の前に広がる、くしゃっと顔を歪ませて子供っぽく笑う顔ももっと好きだ。
「好き」は嬉しい。それなのに、喜びよりも理性が押し寄せる方が早かった。身分差だとか、年齢差だとか。何も考えられずに、クラウス様の手を取れればいいのに、どうしてもそちらの考えに傾いてしまう。
「あなたのことだから、いろいろ考えているのだろう?」
「すみません。どうしても、身分差とか年齢差とか考えてしまいます」
「エリエ殿らしい。年齢差は埋められないけど、身分差なら何とでもなるよ。あなたに会えない間、後ろ楯も大体決めたし。それから、以前にも伝えたけど、近々、父上が登城する。その時はあなたを婚約者として紹介したい」
「婚約者……」
あまりにも飛躍していた。クラウス様の婚約者なんて、恐れ多い立場はのぞんでいなかったから。
「駄目か?」
「いえ、頭のなかが混乱してしまって、判断がつかないのです」
クラウス様のことは好きだと思う。それでも、お付き合いをするとか、婚約者になるとか、まったく考えられないのだ。そもそも「好き」と言われても実感がわかない。
「少し早急すぎたかな」
クラウス様はわたしの頬に手を寄せた。熱を持った頬を親指で撫でていく。それだけでも恥ずかしいのにクラウス様の顔が近づいてくる。
「でも、これくらいは許されるだろう」
言葉の意味を聞く機会も与えられず、彼はわたしの唇を塞いだ。これは、王子や姫に男女交際を教える書物にも図解で載っていた気がする。まさか、わたしがこのような場所で経験することになるとは思わなかった。最後についばむように口づけをされて、顔が離れていく。
「く、クラウス様」
声を出さずにはいられなかった。混乱するわたしをよそに、瞼や額にも唇を落とされる。やわらかい感触と一緒に送られるのは「好きだ」という言葉だ。
「あなたからも言葉で伝えてもらいたい。俺のことをどう思っている?」
探るようなクラウス様の瞳に向けて、わたしは笑おうとした。どうにか余裕があるように見せたかった。きっと、緊張でひきつってしまっているだろうが、精一杯ほほえむように努力する。クラウス様の胸板に手を置いた。
「わたしも好きです。あなたが好き」
クラウス様をずっと見つめていたいのに、涙が視界を歪ませてしまう。何で涙があふれてくるのだろう。
「エリエ」彼の指がわたしの頬に伝う涙を拭ってくれた。
「すみません。みっともない姿をさらしてしまって、面目ありません」
「いいよ。気にしないで」
クラウス様のたくましい腕がわたしを守るように囲ってくれる。その守られたなかは優しくて、心地よい。わたしが落ち着くまで、背中をさすってくれた。
涙が引いた頃には、クラウス様は椅子をわざわざ持ってきてくれて、わたしはそれに腰を下ろした。
「ありがとうございます」
「いや、あなたの世話をするのは楽しいよ」
侍女なのに騎士にお世話をしてもらうなんて、恥ずかしい限りだ。侍女としてできることを探していたら、どうしてこの部屋に来たのかという目的を思い出した。
「あ、病の方はどうですか?」
「病なんか患っていないよ」
「え、ですが……」
「そんな噂になっている?」
「はい」少なくとも侍女仲間はそう噂していた。
「俺が部屋にこもっていたのはエリエのご家族や関係各所への手紙を書いたり、婚約の準備をしていたからだ」
「え?」
「外堀から埋めようと思って」
クラウス様は口元に笑みを浮かべて、わたしの思考を鈍らせる。わたしはその笑みで深く考えるのをやめた。もういいと思った。素直に差し出される手を取りたかった。
「気持ちを自覚したらもう、止められなかった」
「わたしも止められそうにありません」
負けじと笑みを浮かべたら、クラウス様は子供っぽくしわくちゃに笑った。
後日、クラウス様のお父上とはお城の談話室でお会いすることになった。もちろん、その時は、クラウス様の婚約者として紹介された。しかも、お父上から「息子を頼む」とお願いされてしまい、さすがに恐縮した。
でも、さまざまな人に祝福を受けて(やっかみもある)、しあわせである。
わたしが20歳の誕生日を迎える頃には、エリエ・ヴォルグフートととしてクラウス様の隣にいるだろう。
おわり