介護ロボットの笑顔
華麗な詐欺のテクニックが、物語の中なんかでは描かれていたりするが、ああいうのは、恐らくは現実にはほとんどない。少なくとも、俺は一度も見た事がない。
「騙されるものか!」と警戒している人間を騙すのは至難の技だ。そんな事に心血を注ぐより、騙し易い奴を見つける方が簡単で手っ取り早い。つまり、詐欺にとって一番大事なのは、いかに効率良くカモを見つけるのかって点な訳だ。
電子メールのスパムはその一つだろう。不特定多数の人間に大量にメールを送れば、カモが何千分の一しかいなくても比較的楽に見つけられる。
そして、騙され易いタイプの人間に的を絞って、そういう人間を当たるのも効率良くカモを見つける手段の一つだ。
騙され易いタイプの人間なんかいるのかって?
これがいるんだな。
実は“高齢者”は騙され易い性質を持っていると言われている。
マイナスの情報に反応する「ネガティブ・バイアス」。これが高齢者では少ない事が知られているんだ。つまり高齢者は、悪い情報を見せられても、そこから不安を感じ難い訳だ。これは高齢者の方がより幸福な世界に生きているとも捉えられるが、同時に騙され易い傾向を持つって事でもある(因みに、一部の高齢者は前頭葉があまり活性化していないって話もある)。
実際、高齢者が騙されたって事件は数多く起こっているだろう? オレオレ詐欺とか、なんとかかんとか。
もちろん、簡単に騙せるって言っても、その高齢者が金を持っていなくちゃ、あまりカモには相応しくない。更に金を手に入れる手段だってないと駄目だ。
その目印として俺が注目をしたのは“介護ロボット”だった。つまり、介護ロボットを持っている高齢者を狙おうって訳だ。
介護ロボットはそれなりに高価だ。という事は、それを持っている高齢者は、平均以上に金を持っている可能性が高い事になる。しかも介護ロボット自体が、金を奪える手段に繋がってもいる。
実は高齢者の多くが、不用心にもキャッシュカードなどの暗証番号を、介護ロボットに覚えさせてしまっているらしいのだ。しかも操作をよく理解していないらしく、情報セキュリティレベルは低いままのケースも珍しくない。つまり、それは、介護ロボットからキャッシュカードなんかの暗証番号を聞き出せるって事だ。
もちろん、情報セキュリティレベルが低いままと言っても、介護ロボットは誰にでも簡単に情報を教える訳じゃない。だが、頻繁に会い、主人である高齢者と親しげに話し、世話までするような人間なら別だ。ロボットはその人間を安全な人間と判断し、情報を簡単に教えてしまう。
ただ、この問題は世間一般に既に知られてしまってもいる。それで、介護ロボットのソフトにパッチが作成されており、簡単には情報を伝えないよう改善されている(俺の目から観れば改悪だが)。
しかしだ。
高齢者の中には、このパッチを適用していない者も多く、特に一人暮らしでは頻度が高い。パッチを当てるようにポスターや何かで呼びかけられているが、なかなか進んでいないって話だ。
高齢者が介護ロボットにパッチがある事自体を知らないケースもあるし、知ったとしても家族同然に扱い、信頼し、依存してすらいる介護ロボットに対し、何かしら改造を施す事に抵抗を覚えるのだとか。結果として、放置されてしまっているのだ。
俺はもちろん、そういう高齢者を探した。一人暮らしで、介護ロボットを持っていて、パッチを適用していない爺か婆を探したのだ。幸い、多少苦労をしたが見つけられた。一軒家に住んでいる一人暮らしの婆さん。
今日も俺は、ようやく見つけたそのカモの婆さんの家に向かっている。因みに、俺は老人ボランティアを名乗っている。
住宅街。
それほど高級な場所ではないが、疑われるリスクを考えるのなら、これくらいの方がちょうど良いと俺は判断したのだ。それに、こういう場所に住んでいる老人も、実はけっこう貯め込んでいたりするらしい。
大通りの角を曲がると、直ぐにその婆さんの家は視界に飛び込んでくる。
皮肉な事に、その婆さんの家の前には、介護ロボットにパッチを当てるよう呼びかけたポスターが貼ってあった。
『安心・安全のために、あなたの介護ロボットにセキュリティパッチを』
そんなメッセージと共に、可愛いロボットに注射を打っている絵が描かれている。何でか、注射を打たれているのにロボットは笑っている。ハハ、マゾなのかこのロボットは?と俺は思ったが、もちろん、高齢者の抵抗感を減らす為なのだろうとは分かっている。
俺は婆さんの家の玄関のチャイムを鳴らした。すると、しばらくしてから「はいはい。今開けますよ」と声が響いた。地声だ。この婆さんは、ドアフォンをあまり使わない。使う時もあるから使い方を知らない訳ではなさそうだ。恐らくは面倒臭いのだろう。つまりはそれだけ警戒心が薄いということ。カモってこと。
俺は笑う。
ドアが開いた。婆さんの顔… が出て来ると思ったのだが、出て来たのは介護ロボットだった。
「ギミちゃん。挨拶をして」
ってな婆さんの声が家の中から聞こえる。ギミと呼ばれたそのロボットは軽やかな妙に高い声で、「コンニチハ」とそう音を発した。
顔の目に当たる部分が画像になっていて、それでこのロボットは表情を作る。音を発した瞬間、ロボットは笑った。目が漫画的な表現で笑いを表現したのだ。
このタイプの介護ロボットが笑顔を見せるのは、その人間に対して警戒をしていないという事だ。つまり、俺の計画は順調に進んでいるという事。俺は信頼されている。
このギミと名付けられている介護ロボットの背丈は135センチほどで、それほど大きくはない。ヒト型。ただし、足腰腕は太く、力は強いから人の介護に支障はないらしい。が、実際のところ、この婆さんはほとんどこのロボットを使っていない。立つのも歩くのもまだ自分の力でできるから当たり前だ。重い物を運ぶ時は、流石に使っているらしいが、それほど機会は多くないはずだ。色は清潔感のある白。汚れが目立ちそうだが、どうやら婆さんが毎日、磨いているらしく、とても綺麗だ。これではどちらが介護されているのか分からない。つまり、この介護ロボットの役割は、ほぼペットなのだ。もっとも、婆さんは備忘録代わりや伝言の為にもこの介護ロボットを使ってはいる。そしてどうもキャッシュカードの暗証番号も覚えさせているようだ。
「はい。ギミちゃん、こんにちは」
そう俺はギミの挨拶に返した。思いっ切り笑顔を作って。この笑顔は、婆さんが見ているからという事ももちろんあるが、この介護ロボットに表情認識機能が付いており、それで人間の安全判定をするからでもある。つまり、笑顔を見せておけば、このギミはその人間への警戒を解き易くなるのだ。
それから俺は玄関の奥を覗き込んだ。玄関では婆さんが正座で座って俺を迎えてくれている。
目が合うと婆さんは頭を下げた。嬉しそうに笑っている。
「今日も来ていただいて、ありがとうございます。毎日、楽しみにしています」
俺はそれを受けると、こう言った。
「そんな…… どうか、頭なんて下げないでください。僕も毎日、楽しみにしているんですから」
俺はそう心にもない事を言った。
老人ボランティアだと偽って近付いて毎日通い、ようやくここまで婆さんは心を許してくれるようになった。今は温和な態度でこんなにも俺を歓迎しているが、当初は態度がかなり厳しく冷たかったのだ。
「今日も台所を借りますね。お昼ご飯を作ります」
俺は買って来た食材を入れた袋を見せながらそう言った。ボランティア組織から、この食材の代金が出ている事にしているが、本当は当然、自腹だ。もし、この計画が失敗したらこの経費は全て損になってしまう。
「あら。食事なら、自分で作れますのに」
この婆さんは、俺が料理を作ると言うと、毎回同じ事を言う。もっとも、実際、この婆さんは料理が上手で、実のところを言えば俺よりも数段は上手い。一人暮らしをしているお蔭で、なんとか料理が作れる俺なんかのレベルとは違う。この婆さんの作ったきんぴらごぼうや、ふろふき大根を食った時には、美味過ぎて仰天した程だ。「こんな質素な料理が、ここまで美味しくなるなんて」、と。だから、本当に、俺なんかが作るまでもないのかもしれない。
だが、この婆さんにとってみれば、料理の味よりも、誰かに料理を作ってもらえるという事の方が重要なのだろう。だからなのか、ある程度の味を確保できていれば、大層、有難がってくれる。ま、労力も食費も浮くって事もあるのかもしれないが。
「ごちそうさま。美味しかったです」
俺が作ったのは卵粥で、何品かおかずも添えた。味付けはどれくらいが良いか分からなかったから、薄味にして適当に味付けできるように醤油を置いておいた。ただ、婆さんはその醤油を一切使わなかった。もしかしたら、醤油を足したりなんかしたら、俺に失礼になると思っているのかもしれない。
食べ終えて食器を片付けようとすると、ギミが婆さんの傍に寄って来た。手を差し出す。どうやら、食器を渡せといっているらしい。運ぶつもりなのだろう。ところが婆さんは何を思ったのか、その差し出された手を握った。そして、
「はい。あなたも、人の料理が食べられたら良いのにネェ。そうしたら、この料理の味の良さが分かるのに」
と、そんな事を言う。俺はそれを聞いて恥ずかしくなった。
「そんな……。お婆さんの料理の方がよっぽど美味しいでしょうに」
これは本心だ。すると婆さんは、穏やかに微笑みながらこう返した。
「いえいえ。あなたの料理には真心があって、私は大変に好きですよ。なんとか私を喜ばせようとしながら、私の健康に気を遣って作ってくれているのがよく分かります」
俺はそれを否定しようと思って止まった。よく考えてみれば、確かに俺はこの婆さんの事を考えて料理を作っている。もっとも、それは婆さんを懐柔する為なのだが。照れと罪悪感が混ざったような、なんとも奇妙な気持ちが浮かび上がって来た。
「あの…… その食器も運びます」
それで誤魔化す為にそう言った。ところがそれに婆さんは首を横に振った。
「ありがとうございます。ただ、せっかく、ギミちゃんが運んでくれると言っているので、ギミちゃんに頼みます」
どうやら、介護ロボットの行動の意図はちゃんと分かっていたらしい。
俺は自分の分の食器だけ持って立ち上がると、台所にそれを持って行った。ギミが運んできた食器を受け取ると、それも一緒に洗い始める。
「あら。食器くらい、私が洗いますのに」
それを見て婆さんはそう言う。これも毎日言っている台詞だ。
「いえ、洗わせてください。僕はその為に来ているのだから」
俺はそう返す。すると婆さんは、何とも申し訳なさそうな表情になり、「本当に、ありがとうございます」とそう言った。毎日言っているのに、いつも本心から言っているように思える。もしかしたら、本当に本心から言っているのかもしれない。
食器を運び終えたギミが、婆さんに近付いて行った。褒めてもらおうとしているらしい。婆さんはギミを抱きしめる。ハグ。褒めてもらおうとしているように見えるのは、当然、ただプログラム通りに動いているだけで、そこに感情がある訳ではないのだが、この機能は非常に人気があるらしい。
抱きしめられると、ギミはコロコロとした声でキュッキュと鳴き、喜びを表現した。まぁ、人気があるのも分からないではない。俺でも可愛いと少し思ってしまう。
ちゃんと抱きしめ易いように、このタイプの介護ロボットは、柔らかい素材で保温効果もある肌になっている。ご丁寧に、肌に触れられるのを感じると主人が自分を愛してくれていると認識するようできているとか。それで、この介護ロボットは自分の行動を修正し、人間のタイプによる微妙な行動の差異に対応しているらしい。
食器を洗い終えると、俺は婆さんと雑談をした。いけしゃあしゃあと「高齢者への詐欺が多いから気を付けた方が良いです」と言ったり、「お身体に具合が悪いところがあったら、直ぐに連絡してください」と言ったり。毎回似たような事を言っても、この婆さんは気にしない。俺が言う度に、大袈裟に頷く。
俺は婆さんに携帯電話の番号を教えている。婆さんに渡している携帯電話の番号は、当然、一時的なもので、そこから足が付かないように工夫しているが。
それから俺が帰ろうとすると、婆さんは名残惜しそうにして、ギミと共に俺を玄関まで見送った。
既に介護ロボットのギミは、俺に充分に懐いている。だから、少し婆さんの隙を見つければ、簡単に暗証番号を聞き出せるだろう。だが、俺は慎重に様子を見ている。何故なら、まだキャッシュカードの場所を突き止めていないからだ。
俺の計画は、もちろん、キャッシュカードの暗証番号を聞き出すだけでは成立しない。キャッシュカード自体を手に入れなければ。暗証番号を聞き出した事は、介護ロボットのログには残るから、もし仮に第三者がギミを調べたら俺は疑われてしまう(婆さんは調べたりしないだろう)。だから、暗証番号を聞き出した後で、直ぐにキャッシュカードを盗む必要があるのだが、その為にはもちろん、キャッシュカードの場所を知っておく必要がある。
俺はこう考えていた。
ここで慌てて何か疑われるような行動を執っては駄目だ。一度信用を失えば、恐らくそれで計画は失敗する。毎日、婆さんの世話をしていれば、必ずキャッシュカードの場所を知るチャンスはできる。
だから俺は、毎日、辛抱強く婆さんの家に通っているのだ。
そんなある日、事件が起こった。
婆さんの家の玄関チャイムを鳴らす。ところが、いつもの婆さんの声がない。どうしたのだろう?と俺は戸惑う。少しの間の後で、「キュロキュロ」という声と共に、ドアがガチャリと開いた。
中から、介護ロボットのギミが顔を出す。
「ギミ。お婆さんはどうしたのですか?」
俺がそう問いかけると、ギミはコロコロとした音を発し、それから俺を招くようにしながら家の中へ下がった。
なんだ?
ギミに招かれるままに俺は家の中へ入った。家の中は静まり返っていた。いつも静かな家だが、今日は特に静かだ。婆さんの気配がない。俺は不安になって思わず大声を上げた。
「お婆さん! 何処にいるのですか?」
すると少しの間の後で、家の奥の方から声が聞こえて来た。
「はい。ここにいますよ」
ドアや壁に阻まれていることを考慮に入れても、その声は小さかった。どうやら婆さんは、寝室にいるらしい。俺は寝室にはほとんど入った事がなかった。
ギミに先導されて進み、寝室のドアを開ける。すると、畳の上に敷かれた布団の上で横になっている婆さんの姿があった。どうやら体調が悪いようだ。
俺は心配して声をかける。
「大丈夫ですか? お婆さん」
もちろん、婆さんの事を心配した訳ではない。このままこの婆さんに死なれたら、俺の計画は失敗に終わってしまう。まだ、キャッシュカードの場所は分かっていないのだ。
「大丈夫ですよ。少し風邪を引いてしまっただけです」
婆さんはそう応えながら、布団の上で半身を起こした。
「ああ、そのまま寝ていてください」
そう言うと、俺は少し迷ってからこう尋ねた。
「病院へは連絡しましたか?」
それに婆さんは首を横に振る。
「いいえ、そんな大袈裟なものではありませんし、その必要はないかと」
俺が少し迷ったのは、このまま病院へ連絡して婆さんを入院させ、婆さんがいなくなった家でゆっくりとキャッシュカードを探す方が良いか、婆さんを看病してより信頼を得た方が良いかを考えたからだった。
「それは良かった。ですが、今日は安静にしていてくださいね。今日も台所を借ります。ご飯を作らせてください」
婆さんの言葉に、俺はそう返す。
結果、後者の方が良いと俺は判断した訳だ。幸い、いつも高齢者向きの食材を用意しているから、病人向けの料理を作るのには都合が良かった。
料理を作り終えて婆さんの所へ運びそのまま一緒に食事を終えると、俺は体温計の場所を聞いてそれを持って来た。測ってみると37.5度だった。まだ微熱だが、油断できる体温ではない。俺は薬の場所も聞くと、水を淹れたコップと共にそれを持って来た。
俺の横では、ギミが所在なげに俺の行動を観ている。こういう時は、まだ既存の介護ロボットの機能じゃ役に立たない。俺はそれを見てそう思った。俺の表情に、ギミは首を傾げた。いや、可愛さをアピールされてもな。なんて思う。
それから俺は、タライに水を張って運んでくるとそこにタオルを浸し、ギュッと絞ってから婆さんの額の上に乗せた。
「ありがとうございます」
その行動に、婆さんはそうお礼を言った。少し涙ぐんでいるように思える。
「どうしたのですか?」
俺がそう尋ねると、婆さんは「いえ、とても嬉しくて」とそう返してきた。
「娘や息子は、ほとんど顔を見せないというのに、赤の他人のあなたにこんなに良くしていただいて、本当にありがたい。私はずっと独りで、このまま死んでいくものだとばかり思っていましたから」
そう言われてみれば、俺はこの婆さんの家に通い始めてもう随分になるが、一度も家族の顔を見た事がない。
この婆さんは孤独なのだ。
こんなに良い婆さんなのに。
俺は自然とそう思っていた。
そのまま婆さんの横にいると、いつの間にか婆さんは眠り始めた。薬が効いて来たのかもしれない。
もう良いだろうと思うと、俺は婆さんの家を出た。家の鍵なら大丈夫だ。ギミがかけておいてくれる。
去り際、「しっかり、婆さんの世話をしろよ」と俺は玄関まで見送りに来ていたギミにそう言った。もちろん、言われなくてもこいつは婆さんの世話を全力でするだろうし、言ったところで、能力の限界までの世話しかできないのだろうが。
ギミはその時、首を傾げた。
俺の目には、どことなく、ギミが婆さんを心配しているように見えた。もちろん、気の所為だろう。ロボットに感情があると思うなんて、幼稚なアニミズムだ。どうやら俺も、少しずつ婆さんに感化されてしまっているようだ。あの婆さんはまるで孫か何かに接するようにギミに接しているから。ま、もっとも、それも婆さんのキャッシュカードの場所を突き止めるまでの話だが。
キャッシュカードを盗んだら、俺はもう二度と、この家を訪れないだろう。
婆さんにもギミにももう会わない。
次の日、俺はやはり婆さんの家を訪ねた。婆さんの病気は良くなっていなかった。玄関の鍵はギミが開けてくれた。もちろん、これは俺が婆さんからもギミからも信用されているからだ。婆さんは俺が来たのを見ると、布団から起き上がろうとした。俺は慌てて止める。
「無理はしないでください」
婆さんは首を横に振る。
「ずっと寝てばかりいたもので、立って歩きたいのですよ。今日の食事は、居間で食べたいのです」
婆さんが立ち上がるのを、ギミが補助していた。介護ロボットとしてギミが役に立つのを俺は初めて見た。不安になる。俺が思っている以上に婆さんの具合は悪いのじゃないか。やはり病院に連絡するべきだったか。
台所で料理を作ろうとして、昨日から台所の様子がまったく変わっていないことに気が付いた。まさか、昨晩は何も食べなかったのか?
「お婆さん。昨晩は、何を食べたのですか?」
俺がそう尋ねると、婆さんはこう答える。
「いえ、食欲がなくって、何も食べていません。麦茶は飲みましたが」
俺はそれを聞いて、何か料理を作ってから帰るべきだったと後悔した。少し考えれば、分かりそうなものだ。何をやっているんだ?俺は。そう思う。
俺はその日、昼食の後、夕食を作ってから家に帰った。
ところが次の日、俺が作ったその夕食はそのまま残されてあったのだった。テーブルの上にラップをかけて置いておいたのだが、まったく触れられていない。
「お婆さん。昨日の夕食は……?」
そう尋ねると、「すいません。どうにも起きる気になれなくて。折角、作っていただいたのに」とそう答える。
「そんな事はどうでも良いのです」
俺は少し大きな声でそう言った。
「お婆さん。病院に行きましょう。夕食も食べられないのでは、もう限界です」
ところがそれに婆さんは首を横に振るのだった。
「嫌です。病院は嫌いです」
と、そう言う。
「しかし……」
「お願いです。病院だけには行きたくない」
それを聞いて、仕方なく俺は病院へ連絡するのを諦めた。
時々、病院を極端に嫌う人間がいるが、この婆さんもその一人なのかもしれない。何か訳があるのだろうか。
「分かりました。ですが、今日はちゃんと夕食を食べてもらいますよ」
俺はそう言った。俺が一緒にいれば、この婆さんはちゃんと飯を食う。一度帰ってから、夕食時にまた訪ねればいいだろう。俺はそう思っていた。
夕方頃に戻って来ると、婆さんは居間のソファに座って俺を待っていた。
「寝ていなくて大丈夫なのですか?」
半分は心配しながら、半分はもしかしたら元気になったのかと喜びながら、俺はそう尋ねた。
「はい。寝てばかりいるのも嫌になってしまいまして」
それを聞いて俺は喜んだ。どうやら、回復はしているようだ。ところが、それから夕食を食べ始めると、婆さんは不意にこんな事を言って来るのだった。
「もし、病院に運ばれるような事になっても、どうか延命治療だけは止めて欲しいのです」
俺はその言葉を不思議に思う。
「一体、どうしたのですか? お婆さん」
「病院に運ばれ、意識不明になると、本人の意思は関係なく、家族や他人などが勝手に延命治療をしてしまう事があると聞きました。だからあなたにそれを止めて欲しいと、お願いをしているのです。私にはあなたしか頼める人がいません」
俺はその答えに目を丸くした。軽く笑うと「不吉な事を言うのは止めてください。こうしてお婆さんは元気になっているじゃありませんか」とそう言った。
そうだ。
元気になっている。
こうして起き上がって、飯だって食べられているじゃないか。まだ、十年以上は生きられるさ。そうじゃないと、騙して金を奪う事もできない。勘弁して欲しい。
俺のその言葉に、お婆さんは笑った。まだ力強さはなかったが、それでも仕合せそうな笑顔だった。
ほら、大丈夫だ。
俺はそう思った。
寝室に戻る時、婆さんはギミを頼っていた。ギミに「ありがとうね」と言いながら、その頭を撫でている。俺がギミが支えていない方の婆さんの手を取ると、婆さんは嬉しそうにして軽く頭を下げた。
帰り際、またギミに俺は「しっかり、婆さんの世話をするんだぞ」とそう言った。それに応えたのかどうかは分からないが、ギミはにっこりと笑顔を見せた。目の画像が笑顔を表現する例のやつだ。
次の日。
俺は当然、婆さんの家をまた訪ねた。ギミが鍵を開けてくれたが、婆さんの声も姿もない。寝室に行くと、婆さんは横になっていた。初めは寝ているだけだと思ったのだが、どうにも様子がおかしい気がした。身体を揺すっても目を覚まさない。
「お婆さん。もう、お昼ですよ。ご飯を作るので、起きてください」
目を覚まさない。
不安になった俺は、大慌てで直ぐに病院へ連絡を入れた。救急車がやって来て、婆さんを病院へ運んだ。もちろん俺は付き添った。ギミは婆さんに付いて来ようとしたが、来させる訳にはいかない。病院で個人の介護ロボットの利用は禁止されているのだ。
状況が落ち着くと、俺は婆さんの知人だと名乗って医者から婆さんの容態を聞いた。どうもあまり良くないらしい。
「今のところ命に別条はありませんが、意識が回復するかどうか分かりませんし、例え意識が回復しても食事を自力で取る事は難しいでしょう。それに、いつ容態が悪化するかも分かりません」
それから医者は俺に、心配なのは分かるが後は家族に判断を任せるしかないと、そう説得して来た。
そりゃ、そうだ。
俺は思う。
俺は赤の他人なんだし。そもそも、ボランティアを装ったただの詐欺師だから、そこまで付き合う義理も理由もない。というか、婆さんが倒れた以上、もう時間はないんだ。さっさと計画を進めないと。婆さんの家でキャッシュカードを探して、ギミからキャッシュカードの暗証番号を聞き出すんだ。
様子を見ても良いと言うので、一応病室に行くと、婆さんは白いベッドの上に寝かされ、点滴を受けていた。目を瞑っている。苦しそうにはしていない。俺はどう思えば良いのかも分からず、それをただ見つめた。
やがて、婆さんの家族がその病室へやって来た。娘と息子だ。中年くらい。そいつらは、変な物でも見るかのような目つきで俺を見た。きっと、俺と婆さんがどんな関係なのか訝しんでいるんだろう。無理もないか。
これだけ短時間でやって来られる場所に住んでいるのなら、どうしてこいつらは、もっと頻繁に婆さんを訪ねてやらなかったのだろう?
身勝手で薄情な連中だとは思ったが、まぁ、案外、どこの家でもこんなもんなのかもしれない。こいつらが特別、酷い連中って訳でもないのだろう。
俺が無言で病室の外に出ると、娘と息子は婆さんをどうするかを相談し始めた。廊下にまで声が聞こえて来たんだ。延命治療をする気でいるように思えた。なるほど。婆さんの心配した通りだ。恐らく、婆さんは自分の家族がどんな連中かを知っていたんだ。だから俺にあんな事を頼んだ。婆さんの意思を尊重するような連中じゃないんだ。それよりも、世間体の方が大切なのだろう。
――なんだかな。
高い費用と貴重な医療資源を使って、本人が嫌がっている延命治療を施す。
馬鹿馬鹿しいとそれを止めるケースも多くなっているようだが、こいつらみたいにまだまだそれを行ってしまう連中もいる。
俺はそのまま黙って病院を出た。婆さんの頼み通りに、延命治療を止める気はない。あの家族達とやり合うのは面倒そうだ。それに、医者だって赤の他人の俺の言葉なんかより、家族達の言葉を優先させるだろう。
いや、そもそも、俺は婆さんの金目当てに近付いただけなんだ。ここで時間を潰したり目立ったりすれば、金を奪うチャンスもなくなってしまう。
俺はそのまま婆さんの家を目指した。多分、婆さんのキャッシュカードを奪うチャンスは今しかないだろう。
家に着くと、ギミがドアを開けてくれた。妙に速く対応した気がした。もしかしたら、ギミは婆さんを心配しているのかもしれない。いや、そんな事はないか。ロボットだった、こいつは。
俺は誰もいない空疎な家の中を、キャッシュカードを探して歩き始めた。キャッシュカードがありそうな場所を当たったのだが、見つからない。俺の後をギミがまるで犬のように追って来る。妨害をしてくる訳ではないから、きっと甘えているだけだ。俺も随分とこいつに懐かれたもんだ。
キャッシュカードは中々見つからなかった。あの婆さんのことだから、凝った場所に隠すなんてしないと思うのだが、案外、用心深く管理しているのかもしれない。
……いや、違うか。俺の頭が回っていないだけだ。キャッシュカードを探すことに集中できていないんだ、俺は。そのうち、俺はなんだか嫌になって座り込んだ。
頭を抱える。
何をやっているのだろう?
そんな俺にギミが近づいて来た。「コピピ」と変な音を鳴らして、俺の目の前で首を傾げている。
「おい、ギミ。俺に向けて可愛さをアピールしても、婆さんは元気にならないんだぞ?」
やり切れない気分になって俺はそう言った。ところが、その次の瞬間だった。ギミは突然に笑顔を作るとこんな音声を発したのだ。
「オバアサンカラノ、メッセージガ、アリマス」
婆さんからのメッセージ?
俺の後を追って来ていたのは、甘えようとしていた訳ではなく、婆さんからメッセージを伝えようとしていたからだったのか。
やがて、ギミのあまり質が良くないスピーカーから婆さんの声が聞こえ始めた。
『お元気ですか? ボランティアさん。あなたがどんな時にこれを聞いているかは分かりませんが、恐らく、私はもう長くはありません。
元より覚悟はしていましたから、それは別に良いのです。ですが、心残りが二つだけあります。
一つはギミの事。私がいなくなった後のこの子が心配です。誰か心ない人の手に渡って乱暴に扱われたりしないか。
それで、不躾なお願いである事は承知の上で、どうかあなたにギミを引き取ってもらいたいと思っているのです。あなたなら、きっとギミを優しく扱ってくれるでしょう。
もう一つの心残りは、あれだけ良くしていただいたあなたに少しもお礼ができなかった事です。それで、ギミを世話する費用も合わせて、少しですがお金を用意しました。どうか、受け取ってください』
俺はそのメッセージに目を丸くした。それからギミの身体に付いているポケットが勝手に開く。中にはかなりの金額が手紙と共に封筒に入れて置いてあった。予想を遥かに上回る額だ。もう、キャッシュカードを盗む意味も必要もない。手紙にはこれが謝礼金である旨が婆さんの手書きで書かれていて、捺印までされてあった。きっと、俺が疑われないように気を遣ったのだろう。
俺はその封筒を握りしめた。目頭が熱くなる。
「……婆さん。こんなつもりで、俺はあんたの世話をしていた訳じゃ………」
涙声だった。
いや、俺は、何を言っているのだろう? こんなつもりどころか、俺は婆さんから金を奪い取るつもりだったのに。
膝を立てて座り、その膝に俺は顔を埋めた。しばらくじっとしていると、ギミが俺の頭に手で触れた。俺を心配しているようだ。
「コポポ」
そんな音が響く。俺を気遣っている声。元気づけようとしている。
こいつは、婆さんがもう直ぐ死にそうなのを分かっていないんだ。そう思った。こんなに無邪気な声を上げやがって。それから俺は握り締めた封筒をカバンの中に突っ込むと、「病院に行くぞ、ギミ」とギミに言って涙を拭いてから家の外に出た。今度は、ギミも連れて行く。ギミにも婆さんを見せてやりたかったし、婆さんもギミに会いたがっているだろうと思ったからだ。
安らかに自然に死んでいきたいって婆さんのささやかな最期の願いくらい、俺が適えてやらなくてどうするんだ?
病院に向かいながら、俺はそう思っていた。
病院に着く。病室では相変わらずに、婆さんの娘と息子が話し合っていた。やっぱり廊下にいても声が聞こえて来たんだ。延命治療を行う事は既に決まっているみたいだったが、揉めている。どうも、どちらがどれだけ費用を負担するとか、世話はどうするんだとか、そんな事が上手く纏まらないらしい。
俺は覚悟を決めると、その病室の中へ入っていった。闖入者である俺を、娘も息子もそして医者も温かく迎え入れてはくれなかった。
「なんですか、あなたは? 今、取り込み中なんですが」
さっきもいたよな、というような表情、険悪な目つきで息子がそう言う。揉めていただけあって、機嫌が悪い。医者は俺を見ると軽くため息を漏らしてから、「あなたですか。介護ロボットは持ち込み禁止です。持ち込む場合は、許可を取ってください」とそう言った。
医者がそう言って初めて娘も息子も俺がギミを連れている事に気が付いたようだった。婆さんの持ち物であるギミを俺が連れている事を疑問に思ったようだ。
「この方はどなたなんですか?」
そう訊いたのは娘。医者が答える。
「お婆さんが倒れた事を、病院に連絡してくれた方ですよ。お婆さんの知人だそうです」
するといかにも疑わしそうな声で、息子がこう言った。
「知人? 随分と歳が離れているようですが」
俺はそれにこう返す。
「歳の離れた知人がいて、悪いのですか?」
「やや不可解ではありますね」
その息子の言葉を、娘が諌める。
「兄さん。病院へ連絡していただいた御恩のある方に対して失礼ですよ」
少し黙ると、気持ちを落ち着かせたのか、息子は淡々と俺にこう訊いて来た。
「それで、あなたはどんな用があってここに来たのですか? すまないが、今、家族の間で話し合っている最中でして。母のどんな知人かは知らないが、後にしていただけるとありがたい」
俺はそれにこう返した。
「いえ、後ではもう手遅れになる。だから僕はこうしてやって来たんです。お婆さんの最期の願いを伝えなければいけない」
「母の最期の願い?」
「はい。お婆さんは、僕にこう言いました。病院に運ばれるような事があっても、延命治療だけはどうか止めて欲しいと。お婆さんは安らかな自然死を望んでいました」
その言葉に息子は苦い顔をした。頭を掻く。
「まぁ、確かに母には、多少はそんな事を言いそうなところがあったが、僕は直接は聞いていないから、納得はできないな」
なんとも歯切れの悪い言い回しだ。娘も何も言わない。ただ、先ほどは少しはあった俺への友好的な表情が娘の方からも消えている。恐らくは、家族でも何でもない赤の他人の俺の言葉で、自分の母親の最期を決められる事に納得がいかないのだろう。もっとも、そこにあるのは愛情じゃない。意味のない虚栄心。少なくとも俺にはそう思える。
こんな俺でも一応は詐欺師だ。それくらいの心の動きは読める。こいつらはクズだ。
「それがお婆さんの最期の願いなのに、ですか?」
俺がそう言うと、息子は黙った。その後でギミがベッドで横になっている婆さんにゆっくりと近付いて行く。「キュポポ」と音を発する。もしかしたら、婆さんを起こそうとしているのかもしれない。こいつの目には、ただ単に婆さんが寝ているように見えるのだろう。
それから娘が言った。
「では、あなたは、母を見殺しにしろと言うのですか?」
俺はそれにこう返す。
「老衰による別れを受け入れる事は、殺人じゃない!」
俺は婆さんの寝顔を見る。こんな状態でも、安らかに眠っているように見える。延命治療が行われると、これがどうなるのか?
婆さんが延命治療を恐れている事を知って、俺はそれがどんなものなのか調べてみたんだ。それで納得がいった。確かに延命治療なんてやるべきもんじゃない。少なくとも俺は受けたいとは思わなかった。
「これから延命治療を受けたら、お婆さんがどうなるのか、あなた達は知っているのですか? 胃ろう手術。腹と胃に穴を開けられ、チューブを通され、直接流動食を注ぎ込まれ、無理矢理に生かされ続けるんだぞ? 本人の意思に関係なく。しかも、胃ろう手術を受けた高齢者の多くは、チューブを外そうとするんだ。これはつまりは、胃ろうがそれだけ不快だからだろう。それを防ぐ為に何をするか知っているか? 手足を縛るんだよ! これじゃ、まるで拷問じゃないか!
お前らは、本当に、自分の母親をそんな目に遭わせたいのか!」
娘と息子はその俺の言葉に、明らかに気圧されていた。
「クスリで良い気分にさせてやれば……」
言い難そうにしながら、息子がそう口を開いた。
「あんた、それを本気で言っているのか? クスリ漬けにするって? それが一人の人間の尊厳ある死だと本気で思っているのか? もちろん、婆さんが苦しんでいて、見ていられないってなら分かる。だが、婆さんは今、安らかに眠っているじゃないか。明らかに理想的な自然死だよ。こんな状態の婆さんを無理矢理に起こして、苦しめるような事をして、クスリ漬けってどういう事だ?」
俺は完全にこの娘と息子を言い負かしていたと思う。だが、それでもこいつらを説得する事はできていなかった。何故だか、延命治療を止めようとする気がないようなのだ。その方が金も手間も浮くのに。
クソッ!
どうしてなんだ?
静かに娘が言った。
「――あなたは良いかもしれません」
――俺の何が良い?
娘は続けた。
「あなたは死ぬ前の母に会っていたのでしょう? 母に接して、母の言葉を聞いて、母の死を受け入れる準備ができている。ですが、私達には何もないのです。
ずっと会っていなかった。
一言も会話をしていないのに、突然に倒れたという報告を聞き、いきなり目を覚まさない自分の母親の姿を見せられたのです。それで、すんなりと母の死を受け入れられるはずがありません。
……だから、何かをしたいのです。自分を納得させられるだけの何かを」
俺はそれを聞いて自分の耳を疑った。まさか、そんな言葉が出て来るとは思っていなかったからだ。
本心か?
しかし、嘘をついているようには見えなかった。どうやら、息子も同じ気持ちでいるようだった。そんな顔をしている。
「何を我侭を言っているんだ?」
俺は言った。
「あなた達は、お婆さんが生きている間、ほとんど家に訪ねて来なかったじゃないか。俺は毎日通っていたのに、一度もあんたらには会わなかったぞ? それで会えるはずがないだろうが。そんなの当たり前の話だ。自業自得だ。
なのに、それで婆さんが倒れたら、婆さんの意思は無視してそんな事を言うのか?」
卑怯にもその俺の言葉に、娘と息子は何も応えなかった。しかもその表情は、俺の言葉を聞き入れる気がないといっている。
俺はその場に膝をついて崩れた。
こいつらは、駄目だ……。婆さん。ごめんな。説得できそうにない。俺には。
その時だった。
ギミが動いたのだ。
ギミはゆっくりと俺に近づいて来ると、俺を慰める為か、その手で俺に触れた。その時、俺はふと思い付いた。
もしかしたら婆さんは、ギミの中に何かメッセージを残しているかもしれない。延命治療は嫌だっていう。それさえあれば、こいつらは無理でも医者は説得できるかも。
俺は言った。
「ギミ。良いか? よく聞くんだ。お婆さんが、何かメッセージを残していないか? 残していたら再生して欲しい。いいか? さっきの俺へのメッセージじゃないぞ。お婆さんが倒れた時用の何か……」
ところが、それにギミは首を傾げるのだった。意味が通じていないか、或いは、婆さんはそんなメッセージを残さなかったか。
管理者権限を持ったユーザーのパスワードさえあれば、ギミの中に保存されたメッセージは全て分かるのだが、生憎、そんなパスワードはまだ教えてもらっていない。
「頼む。お願いだ。婆さんからのメッセージをこいつらに聞かせてやってくれ」
息子が言った。
「あなた、もう、止めてください。そんなメッセージを母は残さなかったんだ」
しかし、俺は諦めなかった。
「ギミ。ギミ。お願いだ……」
息子が俺から無理矢理にギミを引き離そうとした。しかし、ギミはその息子の手を振りほどくと、再び俺の目の前にまでやって来るのだった。何かをしようとしている。「ピポポ」と音を発する。もしかしたら、と俺は思う。もしかしたら、婆さんからのメッセージがやはりあるのか?
俺はそれを期待した。
そして、ギミは、
そして、それから、
にっこりと、あの例の笑顔を。
「――そうじゃない」
俺はその反応に落胆した。俺が欲しいのは、婆さんからのメッセージなんだ。笑顔じゃない。
ところが、それを受けると、それまで黙っていた医者が突然に口を開いたのだ。
「延命治療は止めましょう」
そしてそう言う。
俺はその言葉に驚く。娘と息子も驚いていた。医者は二人に向けて続ける。
「このタイプの介護ロボットが笑顔を向けるのは、主人が家族同然に気を許している人間に対してだけなんです。
しかし、なのに、この介護ロボットは、あなた達には笑顔を向けず、この人に対しては笑顔を向けた。それはこの人が親身になってお婆さんの世話をしていた証拠でしょう。お婆さんが延命治療を嫌だと言ったのは恐らく本当なのだと思います。何より尊重すべきなのは、患者本人の意思であることは当たり前です。ならば、医者としても延命治療を勧める訳にはいかない。
もしも、それでも延命治療をするというのなら、それはこの人の言うように、あなた達の単なる我侭だ。
……これは個人的な感想ですが、もっとこうなる前に、あなた達には、お婆さんを大切にして欲しかった」
その医者の言葉には、まるで裁判所の裁判官のような決定権の重みがあった。家族がそれに従う必要はないのだが、そこには抗えない何かが確かにあった。
しかし、それでも息子はまだ何かを言おうとした。が、娘の方がそれを止める。それから娘はこう言った。
「分かりました。心残りはできますが……。それも私達の罪として受け入れます。母の延命治療は行いません」
そうして、婆さんは安らかな自然死を迎える事が決定したのだ。俺はなんとか婆さんの最期の願いを適える事に成功した。
それから二週間ほどが過ぎて、婆さんは永眠した。葬式には、俺は出なかった。出たくもなかったし、どんな顔をして出れば良いのかも分からなかったからだ。婆さんの娘と息子からは出てくれと頼まれていたが。
俺は婆さんの遺言通り、ギミの事を引き取った。管理者権限のパスワードを教えてもらったから、それでギミの中に保存されているメッセージの全てを確認してみたのだが、延命治療を止めるよう伝えるメッセージは何も残されていなかった。
もしかしたら、婆さんは俺に伝えた事で安心して、もう大丈夫だと思っていたのかもしれない。
そんなに信頼されても困る。
俺は苦笑した。
料理を作るとよく婆さんを思い出す。自分の為だけに作る料理は味気ない。料理を作っているとよくギミが寄って来る。どんなつもりなのかは分からないが、料理を乗せた皿を渡すとテーブルに運ぶから、手伝いに来ているのだろうと思う。
婆さんが、ギミが人間の飯を食えたらいいのにと言っていた事も俺はよく思い出す。本当にそうだと俺は思う。
もしも、ギミが飯を食えたら、きっと美味しいと言ってくれるだろう。例え不味くても。いや、その不味い飯を、ギミは美味しく感じてくれるはずなんだ。
婆さんみたいに。
――婆さん。
その日、飯を食いながら俺は泣いた。
お願いだ。
もう一度。もう一度だけでいい。
俺の作った不味い飯を、美味しいと言ってまた食べてくれ。あの嬉しそうな、本心からの笑顔で。
婆さん。
ギミが俺の傍に寄って来た。俺の頭に手を触れる。どうやら、慰めているつもりらしい。
婆さんがしていたように俺が抱きしめると、ギミは「キュキュ」と鳴いて、笑顔になった。きっと、愛されていると実感しているのだろう。
ああ、そうか。
俺はその時、思った。
俺も婆さんから愛されていると実感していたんだ。
そして、また涙をこぼした。
僕はこういう話に弱いので、書きながら泣いていました。
はい。
どっからどう見ても変な奴です。