第一章 4
「なあ、アラノ」
後ろを付いてくる己の使い魔は、何処から取ったのか、林檎をかじっている。
額にかかる前髪は、まるで闇のように黒い。髪の毛からのぞき出る目は紅く輝いている。紅い目は、空を見詰めるだけで、自分と合わせようとしない。
「アラノ、何か妙じゃない?」
あの遺体からは、何か普通ではない気がした。外傷が何もないのに内蔵が無いだけで十分奇怪だが。
未だに視線を合わせず、空を見て林檎を囓るアラノは、静かに後ろを付いてきている。足音もなく、まるで空気のように傍らにある。
「いつみても、気持ちの良いものじゃないね」
生きてる者とは違った青白い顔。触ったときのあの固くて、冷たい感触。紫色の唇に付いた、焦げ茶色の血。沢山の死体を見てきた。今更、死体を見て悲鳴を挙げるような精神は持ち合わせていないが、インヴェルノは、シェリーを見たとき、何故か得体の知れない薄気味悪さ、生理的嫌悪感に襲われた。
不思議に思って考えてみても、特に思い当たる節はない。黙って考えていると、後ろから低い声が聞こえた。
「…何かはまだ分からないが、今はとりあえず、回りながら不審なものはないか見ていよう」
黙々と林檎を食べていたアラノは、話を聞いていなかった訳では無いらしい。それを言うと、憮然と「俺を何だと思ってるんだ。子どもか」と怒られた。
分からないまま考えても仕方がない。インヴェルノはとりあえず、カーラの市場に行くことにした。
◇◇◇
「カイン!」
声がした方を向くと、栗色の長い髪をなびかせ、彼女が走ってくるのが見えた。高い位置に結い上げられた髪が、彼女の頭から見え隠れする。手にはいつもと違って大きな鞄を持っている。
あともう少しというところで、彼女は何もないはずなのに転んだ。
「大丈夫?」
地面に突っ伏している彼女の傍に行き立ち上がるのを手伝うと、顔中土だらけにもかかわらず、にこっと笑った。
「大丈夫よ!ありがとう」
慣れた手つきで、服に付いた土を払う彼女の顔を、僕はポケットにあったハンカチで拭いた。
彼女は初めは驚いたように僕を見ていたけれど、すぐに嬉しそうに笑った。
「ありがとう」
何度も重ねて言うので、礼はいらないと言ったけれど、彼女は「言いたいから言わせて」と言ったので好きにさせた。
「今日は、何しに来たの」
彼女の何処にも怪我が無いことを確かめてから、僕は彼女に聞いた。彼女は数回目を瞬いて、首を傾げた。
「何かなければ来ちゃ駄目だった?」
「駄目って訳じゃないけど……」
何も駄目とまで言わないけれど、良い年ごろの男女が公園で二人っきりなのはあらぬ疑いをかけられる。何度も彼女に言ったことをもう一度言うが、彼女はしらっと聞き流した。これもいつものことだけれど。
「ねえ、カイン。今日はお弁当も持ってきたのよ」
ずっと大事そうに抱えていた鞄からは、お弁当箱が出てきた。僕は、想像もしてなかったことに驚いて、何も言えなかった。彼女は驚いた僕を見て満足げに笑うと、胸を張って「私が作ったの。凄いでしょう。全部残さず食べるのよ」と言ってお弁当を広げ始めた。
公園は丁度お昼時で、遊んでいた子ども達も一旦家に帰っていった。残るのは、僕達と同じように弁当箱を広げる恋人達のみだ。
「あのさ」
まるで恋人のようだから、やめようよ。そう言おうとしたけれど、楽しそうに用意をする彼女に水を差したくないので、僕は黙って、彼女に勧められるがまま彼女の作ったという、お弁当を食べた。
「………」
「何よ。言いたいことがあるなら言いなさいよ」
黙々と食べる僕に彼女は、じと目で睨んでくる。何もないと答えると、表情に不味いって描いてあると怒られた。
「…不味くはないよ」
所々焦げてたり、味が薄かったりするだけで、見目が悪いだけで不味くはない。初めに転んだのも原因だろう。中身は綺麗とは言い難かったけれど、不味くはないのだ。
決して食べられない訳じゃないと伝えると彼女は半泣きになった。どうすればいいのかわからず、内心焦っていると彼女は消え入りそうな声でごめんなさいと謝ってきた。
「初めて料理したの。もっと練習してから持ってくるべきだったわ…」
いつも溌剌として明るい彼女に泣かれると調子が狂う。僕は、これ以上彼女の泣く顔を見たくないから早口で喋った。とにかく、彼女に笑って欲しかった。
「初めてにしては、美味しかったよ。僕なんて初めて作ったときは君より悪かったんだから。君の方が断然美味いよ。だいたい、料理にしても勉学にしても、繰り返すことに意味があるんだ。繰り返し、練習すればもっと美味しいのが作れるようになるし、そうすれば君の大好きな妹にもお菓子とか作ってあげられるんじゃないかな」
「………」
彼女は目を丸くして驚いていたけど、次の瞬間にには花が咲くように笑ってくれた。
僕は彼女の初めて作ったという料理を全部頑張って平らげた。
もう一度笑ってくれた彼女は、脳天気そうに横で自分で作ったお弁当を食べて、顔をしかめていた。
自分で作ったくせにと笑うと彼女は、「全然美味しくないわ」というと、「次は美味しく作るわ」と真剣な顔で僕に宣言した。彼女の一所懸命な姿はとても眩しくて、まともに見ることが出来なかった。
◇◇◇
真っ暗な室内に靴音が響く。広いのか、やけに響く靴音は、近くまで来て止まった。来たのは、女だった。まるで闇そのものかのように顔だけがぬっと此方を見ている。
「あら、カインどうしたの」
激しい激痛に僕はこみ上げて来るままに吐き、泣いた。
止めどなく溢れてくる不快感に気が狂いそうになる。
「かわいそうに……。また楽にしてあげるわ」
吐瀉物で汚れた床を綺麗に避けながら、女が近づいてくる。
「か……を………かえ……せ」
息を吸う度に喉が焼けるように熱くなる。やっとのことで言いたいこを言えたが、女は厭らしく嗤うだけで、僕を見下ろしたまま動かない。
「彼女を生き返らしてほしいのなら。私の言うことを聞きなさい?」
真っ黒な髪に暗い目の色。目を見た途端、僕の意識は吸い込まれてしまう。見ては駄目だと思うのに、目が縫いつけられたように離すことが出来ない。徐々に霞んでく意識の中で、僕は女の声を最後に眠りについた。
「さあ、また私に可愛い魂を捧げに来てちょうだい」
◇◇◇
いつかまた、彼女に笑いかけてもらえるならば何でも出来ると思っていた。
彼女は僕の世界だったから。
でも、自分で他の世界を壊すことを望んでいたわけではなかった。
訂正