第五章(1)
ソフィアはひとりぼっちだった。
いつも賑やかだった家は、静かで少しの物音も立てててはいけないと決められているように、みんな喋らず、注意深く動くようになった。
いつからだろうか。
姉の笑い声が聞こえなくなったのは。
いつからだろうか。
母が毎日泣くようになったのは。
いつからだろうか。
父が無口になったのは。
前はこんな家じゃなかった。重苦しい静寂がソフィアの身を潰す。
「姉さん」
寝台に横たわる人に呼びかけてみる。
「ねえさん・・・」
毎日、毎日、呼びかける。ソフィアは呼びかけるだけ。迷い子の呼び声に、返事はない。
視界が歪むのを必死に堪えながら、ソフィアは姉の手を握った。
血色のよかった頬は痩け、青白い顔に眼球は落ちくぼんでいる。
初めは寝ていても、水は飲んでくれた。でも、今はもう、何も口にしない。
ただ日々やせ衰えていくのを見るだけである。
頼りにしていたカイン兄さんも、行方不明だ。騎士団が捜索をしているそうだが一向に見つかる気配もない。姉の容体も、医者に診せても匙を投げられる始末。
この間父が魔術協会から魔術師を呼んだらしいが、また新しい被害者が出たらしい。
「うえ・・・」
涙が頬を伝い、嗚咽が漏れる。
「姉さん、起きてよぉ。このままじゃ・・・」
言葉にはしない。
でも、もうみんな諦めている。
この家の空気が、もう諦観を決め込んでいる。町のみんなも、私を、私達を見ると気の毒そうな顔をして目をそらす。父さんは、今連続で起こっている殺人事件にかかりっきりだ。
暖かみのあるうす桃色の壁が、今はとても寒々しく映る。
「カイン兄さん」
早く帰ってきて。そう言おうと思ったそのとき、閑静な住まいに、ゴンゴンと激しく扉を叩く音が響き渡った。
『リズヴェルは、ずっと眠ってるの。一ヶ月以上も眠り続けてるの。どんな医者に診せてもわからない不治の病に罹ったってみんなが噂してるわ』
頭の中で樹木の精霊に言われた言葉を繰り返す。
一ヶ月。
連続殺人が起こったのは一ヶ月前。
リズヴェル・カヴァレーラが昏睡状態に陥ったのは一ヶ月以上前。
騎士団所属の騎士でリズヴェルの幼馴染みだというカイン・ディ・ヴァイオが行方不明になってから一ヶ月ほど経つ。
この符号は偶然ではないだろう。
そう確信すると、インヴェルノはとりあえず走った。
「インヴェルノ」
「カイン、市長の家に行くよ。道、覚えてるよね」
「俺頼みかよ」
「仕方ないだろ! 迷っちゃうんだから」
「はいはい」
「確か市長には二人娘がいて、一人がリズヴェルさんなんだよね」
「もう一人はソフィアと言うそうだ」
「何で知ってるの」
「木が言ってた」
「木? もしかして樹木のお姉さんのこと言ってるの」
「そうだ。他に誰がいる」
「・・・ソーデスネ」
アラノが先導するままにインヴェルノは走る。大市が開かれていた時とは違い、町は静かだ。どの家も軒先に銀色の糸で刺繍された白鳥が描かれた黒い布を下げている。
「今日が、お通夜だったね」
「そうだな」
ここ、コロッラ王国は死者の魂を、主神ローズマリアの使い、白鳥が死後迎えに来てくれると信じられている。なので誰か親しい者が亡くなったときには、町全体で哀悼を示す黒い布に目立つ銀色の糸で刺繍した白鳥を描き此所に魂が在るという目印にするのだ。遺体のある家は、玄関に白いカーネンションで花輪を作り飾る。その目印に向かって白鳥がくると大昔から言い伝えられているのだ。
どの家も漆黒の旗を掲げている。
町の中を歩く者はいない。
「湿っぽいな」
「・・・うん」
空は既に藍色から群青、黒へと移り変わっている。
町全体が、闇に抱かれ、眠りにつこうとしている中、少年達は市長の家へと急いだ。
「ここだな」
今朝来たばかりなのに、もう随分昔のことのような気がする。ここ二日の濃密な出来事にインヴェルノは目眩がした。頭を振って気を取り直すと、インはアラノの前に進み出て扉を叩いた。
「夜分にすみません!」
何度も強く扉を叩いていると、軋む音がして扉が僅かに開き、インヴェルノとそう年の変わらない少女が出てきた。
「ど、どちらさまでしょうか」
真っ赤な目に、掠れた声で少女が誰何するのを見て、インヴェルノは冷や水を浴びたように気が落ち着くのを感じた。
インヴェルノはつい先程までの焦った気持ちを静め、幾分声を低くして尋ねた。
「夜にすみません。私は魔術協会から派遣された魔術師でインヴェルノと申します。実は、市長の娘さんが一ヶ月ほどずっと眠り続けていると聞いたのですが」
「父さんから!?」
「いえ、違いますけれど・・・」
言葉を濁すインヴェルノに気づかず、少女は体を扉の外に出して、泣き始めた。
「お、願いましす。姉さんを助けて!」
悲痛な声が、カーラの町に響いた。
部屋に通されたときに、インヴェルノもアラノもすぐにこの部屋に満ちる魔力に気づいた。部屋の真ん中に鎮座するベッドに近づくと、小柄な女性が眠っているのが視認できた。
ソフィアと名告った少女は、姉のリズヴェルが一ヶ月以上も昏々と眠り続けているのを、二人に事細かに語った。その語り口は、整頓されており、おそらく何度も同じ説明を繰り返してきたのだろうと推測できる。
泣き始めたソフィアを宥め、は部屋から出すと、市長の妻、リリアが両手を握りしめて立っていた。無言で娘を抱きしめると、夫人はインヴェルノ達に頭を下げて廊下の奥に消えていった。
ベッドに横たわる女性を見ると、周りに黒くて重い魔力が取り巻いているのがインヴェルノには見えていた。
「イン、同じだな」
「うん。あの人と一緒だね」
ソフィアの話に出てきた、赤い薔薇に、黒魔女と名告った女。それにカインという騎士の話を総合し、曖昧だった仮説が強固になるのを感じた。
「アラノ、もう一度あの森へ行こう。おそらく、まだカインは居るはずだ」
「・・・わかった。でも、こいつはどうするんだ」
こいつ、といってアラノが指したのは、ベッドで静かに眠るリズヴェル。生気の無い面差しは端正で、とても綺麗な人だったのだろうと思わせる。
「今は、このままに。カインて人を助けてからに、しよう」
拳を強く握りしめ、低い声で出された指示にアラノは、静かに肯いた。
インヴェルノは眠るリズヴェルの側に行くと、小さな声で囁いた。
「今まで辛かったでしょう。全てが終わったら、あなたを解放しますね」
後ろから見ていたアラノは、リズヴェルの胸が大きく上下する様を見た。インヴェルノは気づかなかったようで、すぐにアラノに振り向いた。
「さ、行こうか」
「ああ」
二人が部屋を出ると、部屋の前にアーベルが立っていた。
「・・・リズヴェルがどうして寝ているのか、判りましたか」
「・・・ええ」
インヴェルノが肯くと、アーベルは縋るようにインヴェルノの腕を掴んだ。
「では、あの子を治していただけませんか!?」
「・・・すみ、ません」
「治るのでしょう。あの子は、また起きるのでしょう」
段々と掴む力が強くなって、インヴェルノは少し眉をしかめたが、出来るだけ感情を押し殺して淡々と答えた。
「残念ながら、ご息女にかかった魔法を解いても、起きるわけではありません。魔法を解けば・・・」
インヴェルノは一度大きく息を吸った。
「・・・ご息女は、すぐに息をひきとるでしょう」
痛いほどの沈黙が市長宅に続いた。
床に膝をつき、静かに涙を零していたアーベルは、ゆるゆると面を上げた。
「・・・嘘では、ないのですね」
嘘だったらどんなによかっただろうか。
きっと、あのカインも気づいたのだろう。黒魔女と名告った女の仕業だと。
だから、単身魔女の元へ行き、行方不明となった。
リズヴェルを助けるために。
リズヴェルにかけられたのが、禁呪だと気づかずに。
「・・・わかり、ました。妻と、娘に話してきます。・・・準備が、出来るまでは、その」
「ご息女の魔法はとかないでおきますよ。あと、市長」
既に後ろ向けて歩き始めた背中に向かって、インヴェルノは言おうか言うまいか迷ったが、結局言うことにした。
「おそらく、カインが一番先にご息女の異変に気づいたのだと思います。それで、カインは助けようとしたのでしょうが・・・おそらく彼も、魔法をかけられています」
「どういうことですか? 何故カインを知って・・・いや、どんな魔法をかけられているんですか」
「今回の連続無差別婦女殺害はおそらく、魔法で操られたカインの仕業でしょう。そして、カインにその魔法を掛けた者が・・・ご息女に眠りの魔法をかけた者です」
「どういう・・・」
「では、私達はこれで失礼します。・・・黒幕を捕まえて、この馬鹿げた茶番からカインを助けなくてはね」
そう言うと、インヴェルノはアラノを伴って、市長宅を辞した。