第四章(2)
気は急いでるのに、足がもつれ思うように進まないことに苛立ちながらも、カインは先へ、先へと走り続けた。
辺りは、外を遊んでいた子ども達が、仲良く手を繋ぎ、歌を歌って帰ったり、夕飯の準備を始める音や、仕事を切り上げ帰る人々で溢れていた。
カインは、リズヴェルの家を後にし、街中を歩き回り、何故リズヴェルが急に倒れたのかを考えていた。浮かぶ思考はどれもまとまりを得ず、八方塞がりだった。
眠り続けるリズヴェル。
禍々しい・・・気配。
消えた薔薇。
カインの頭には、先程ソフィアと交わした言葉が響いていた。
薔薇とリディアの体調が関係しているのかどうかは、判らない。
しかし、あの薔薇のもつ異様な気配は、カインも、ソフィアも気づいていた。『自分の直感を慢心してはいけない』見習い騎士から、騎士に上がったときに上司より贈られた言葉がある。それを思い返しながらも、カインは己の直感はあながち外れてはいないはずだと考えた。
もしかしたら、あの薔薇は魔術に依るものなのかもしれない。
予測の域を出ないが、カインはとりあえず、自分の考えを上司のブラッドレーに聞いて貰おうと、街中を駆けていた。
見慣れた広場を通りすぎ、北へと向かうと、騎士団の警備所が見えてきた。
息を切らしながら、警備所にはいると、同僚達が騒ぎながらも書類仕事を片付けていた。
「お、カインじゃないか。どうしたんだ、そんなに息を切らして」
同僚が目を丸くして驚くのを、息を整えながら見る。
「・・・団長、は、どちらに・・・?」
「団長か? 団長なら奥にいるよ」
同僚の言葉が言い終わらないうちに、カインは大股で団長の執務室へと向かう。
「あ、おい! カイン!」
「今、急いでるんだよ、後にしてくれ」
焦ってるせいか、つい棘のある言い方になる。苛立たしげに振り返ると、嬉々とした表情で同僚が皆、カインを見詰めていた。
「カイン、良かったな! リズヴェル嬢、目を覚ましたんだって?」
「・・・・・・・・・は?」
「良かったじゃないか! これで一安心だな」
にかっと笑う同僚達を呆然と見詰めて立ちつくしていると、背後から低い、重量感のある声が響いた。
「カイン。どうした? 息切れして」
「え? あ・・・団長、リズが」
「あ、カイン兄さん、やっぱりここにいたのね!」
背の高いブラッドレーの後ろから、顔を覗かせたのは、ほんの三十分前に話していたソフィアだった。
「・・・・・・ソフィア?」
呆然と呟くカインにソフィアは抱きついて、信じられない言葉を発した。
「カイン兄さん! 姉さんが起きたわよ!」
その言葉を、理解するのに大分時間を費やした。ゆるゆると、その言葉が頭に浸透すると、カインはさっきまで考えていたことなど、すっかり頭から抜け落ちて、リズヴェルが目覚めた、ただそれだけが頭を占めていた。
「・・・・・・それは、本当か?」
「もう、こんなことで嘘ついてどうするのよ! 姉さんは、カイン兄さんが帰った後に目覚めたの! すぐカイン兄さんに報せようと思ったのに、兄さんてばどこに行ったのかわからなくて・・・。とりあえず警備所に行ったら、カイン兄さんもいるかもしれないし、ブラッドレー小父さんにも伝えなくちゃ行けなかったし・・・」
後半は若干支離滅裂で何が言いたいのかよく判らなかったが、とりあえず、カインはリズヴェルの目が覚めたことだけを理解すると、同時に警備所を飛び出していた。
「ちょっと! カイン兄さん! 待ってよ!」
後ろからソフィアの駆けてくる足音がするが、構わず駆けた。
リズヴェルの家に着く頃には、カインもソフィアも息が絶え絶えになっていた。
「も、少し・・・・・・待ってくれたって・・・・・・いいじゃない」
「・・・・・・・・・・すま、ない」
肩で息をしながら、暫く呼吸を整える。
顔を伝う汗を袖で拭い、カインはソフィアを振り返った。
「今、開けるわ・・・ちょっと、待って・・・・・・」
ソフィアは何度か深呼吸を繰り返すと、我が家の扉を開けた。
三十分ほど前にも入った扉の前で、カインは深く息を吸って、吐いた。
意を決して、扉を三回ノックすると、中から鈴の音がチリン、と鳴った。
事前に、これが入っても良い合図だと聞かされていたので、カインは扉をおそるおそる開けた。
扉が僅かに軋んで大きく開くと、視界に薄桃色の壁紙が広がる。
先程と違うのは、寝台に、起きあがったリズヴェルがいる、ということ。
「・・・・・・リズヴェル」
声が情けなく震えてしまったが、構わずカインは寝台まで近寄った。
「カイン! 来てくれたのね!」
嬉しそうに笑むリズヴェルの表情を見て、カインは思わず、微笑んだ。
「・・・・・・当たり前じゃないか!」
「なあに? そんな顔して・・・そんな顔をさせたのは私か・・・」
ふっと、自嘲気味に息を吐くとリズヴェルは、寝台の横にある椅子を指した。
「カイン、ここに座ったら?」
「・・・ありがとう」
正直、少しだけ疲れていたので、言葉に甘えて、座らせて貰う。
暫く、沈黙が続いた。会話のない部屋は、互いの息づかいと、僅かな衣擦れの音と、遠く窓の外から聞こえる街の雑踏の音しかない。
「ねえ、カイン・・・薔薇、覚えてる?」
「え? ああ・・・」
リズヴェルが起きていることが嬉しくて、カインはずっとリズヴェルを見ていた。
リズヴェルは、顔を窓の外に向けたまま、喋り続けた。
「薔薇・・・無くなったでしょ」
「・・・・・・そう、みたいだね」
「・・・・・・・・・綺麗な、女の人」
「うん」
会話があちこちに飛ぶが、カインは黙って聞いていた。時々、声が掠れるので、机に置いてある水差しから、水を汲んでやりながら、カインはリズヴェルが語るがままに任せていた。
「・・・・・・あの人。不思議な人だった」
リズヴェルは身を震わせると、一言、呟いた。
「怖かった・・・」
顔は、眠り続けていたせいか若干血の気は無かったが、一層青白くさせて、彼女は体を抱きしめた。
「・・・・・・彼女、自分のことを、黒薔薇の魔女って読んでたわ」
「・・・黒薔薇・・・?」
そう言ったきり、ふっつりとまるで貝のように口を閉ざすと、リズヴェルは窓の外の黄昏、茜色に染まる空を見詰めていた。
「・・・あのね、」
「うん」
「小さい頃からの・・・」
「うん」
「・・・夢だったの」
「・・・夢?」
「小さい頃からの、夢だったのよ・・・」
ぽつり、とシーツに雫が落ちる。
夕暮れが窓に差し込み、室内を茜色に染め上げる。陽を受け、リズヴェルの頬を濡らす雫は、赤色に光った。
ぽつ、ぽつと落ちる雫は、とても綺麗で、カインは暫く呆けたように見詰めていた。
「・・・ごめんなさい、カイン」
「え? 」
「今日は、もう疲れたわ」
「あ、ああ。そう、だね。もう、お休み」
リズヴェルは、頬を拭うと、静かに微笑んだ。
「ええ、お休みなさい」
この日を最後に、彼女は二度と目覚めることはなかった。